第10話『引き裂かれた二人』
(1)
「嫌ああああああっ!」
アズウが、信じられないという顔をして倒れた瞬間、シエラの絶叫が空気を震わせた。
「アズウ! アズウ!」
崩れ落ちるように倒れたアズウを仰向けにして、出血部を強く圧迫しながらシエラはアズウの名を叫んだ。アズウは何故か苦しそうな表情も、痛そうな表情も浮かべなかった。何かの冗談のようにとても穏やかな表情を浮かべていた。
だが、その方が怖くて、シエラはパニックになっていた。
アズウが撃たれた。撃たれたら死ぬのに。アズウが死ぬ。私を残してアズウが死ぬ。嫌だ。独りは嫌だ。嫌。一緒にいると言ったのに! ずっと一緒だと言ったのに!
「アズウ! 駄目よ! 死んでは駄目!」
溢れ出した涙は止まらなかった。怖かった。吐き気が込み上げて来るほど怖かった。
腹部の血が止まらなかった。早くも血溜りを作りつつあった。
それが広がるに従って、アズウの命が消えていくのだと思うと、全身が慄いた。
「生きなきゃ! 生きるって言ったでしょ!」
シエラが叫ぶと、アズウが微笑みを浮かべ、何か言葉を紡いだ。
何と言ったのかシエラには分からなかった。音にすらなっていなかった。ただ、伸ばされた手だけを掴んで、必死に引き止めた。だが、
「!」
自分の手の中で完全に力を失ったアズウの手と、一人だけ安らかな微笑を浮かべて目を閉じたアズウを見た瞬間、シエラは奈落の底に突き落とされたような絶望感に、目の前が暗くなった。同時に、半身がごっそりと取られて行ったような喪失感を味わった。
「うそ……」
発した声が自分のものではないような気がするほど、軽く呆気ない音だった。
死んだ?
誰が?
アズウが?
何で?
嫌よ。
「いやよ……。嫌よ。嫌! 認めない! 私は絶対に認めない!」
シエラは叫んでいた。言えば起きたことがなかったことになると言わんばかりに叫んでいた。そんなシエラの頭に銃口を突き付けて、ケルンは言った。
「否定したところで、そいつはもう死んだ。もうお前を守るものはこの世にはいない。大人しく俺について来い」
嫌よ。絶対に死なせない。
シエラにはケルンの声など届いていなかった。
私が絶対に死なせない! 私がアズウを守ると心に決めていた。だから絶対に死なせない。
その瞬間、シエラの中で覚悟が決まった。
アズウのローブの下に手を入れて、目的の物を探す。
「何だ? 何をする気だ?」
必ずあるはずだった。準備しているときに用意していたのをシエラは見ていた。
奥の方にはなかったので、血に塗れた手前側を今度は探す。
そして、シエラは見つけた。指先に当たった硬い感触。それを握って引き抜く。
「なっ?!」
引き出された小刀を見て、ケルンは驚きの声を上げた。次いで、
「そ、そんなもので何をする気だ? 言っておくが、お前が斬り付けて来るより、俺が引き金を引く方が早いぞ。むしろ、お前を撃って、気を失っている間に運んだっていい。だが、それも可哀想だと思って俺はお前に『来い』と言ってるんだ。分っているのか?」
ケルンとシエラの距離は、たかだかアズウの体一つ分。ケルンの言っていることが正しいということはシエラにも分っていたが、シエラはケルンの言葉など何一つ聴いていなかった。
シエラはケルンのことなど見向きもせず、何の迷いもなく小刀を自分の左手首に当てると、引き抜いた。シエラの顔が脳天を突き抜ける激痛に歪む。深く切り裂かれた手首から、鮮血が溢れ出した。
飲んで! 私の血を飲んで!
シエラはアズウの口元に血を垂らした。しかし、アズウの口は開かない。唇だけを濡らして、シエラの血は流れ落ちた。
駄目だ。
思った瞬間、シエラは自分で自分の血を口に含み、躊躇いもなくアズウに口付けした。
無理矢理にでも飲ませる!
「何を……」
戸惑いの声を無視した。
シエラは自分の顔が血に穢れることを気にせず、二度、同じことを繰り返した。
アズウの口から血は溢れなかった。それを飲み込んだと解釈すると同時に、早くも塞がりかけていた傷口を広げて再度血を絞り出す。それを今度は撃たれた場所に流し込んだ。
ケルンは言った。賢者の石を作って不老不死になると。そのために、シエラのような不老不死の人間の血が必要なのだと。
だったら、自分の血を与えれば、アズウは生き返るかもしれないとシエラは思った。
自分の血で誰かを助けたことなど今まで一度もない。助けられると思ったことすらないのだから試したことなどない。だが、それに賭けるしかなかった。
お願い! 生き返って!
シエラはアズウの手を取って、心の底から祈った。だが、
「気は済んだかい?」
何も起こらないことで、一瞬なりとも動揺した自分を覆い隠すかのように、ケルンは嘲笑を込めて問い掛けて来た。
駄目だった……。
また、独りになった………。
絶望が眼を逸らせないものとして嫌でも受け入れなければならなくなったとき、シエラは叫んだ。
「私を殺して!」
「そりゃ、無理だ」
返事は早かった。分っていた。分っていたことだが、即答されたことが悔しかった。怒りが溢れ返った。
「どうしてアズウを殺したのよ!」
絶対に殺してやると思った。ケルンは勝ち誇った笑みを浮かべながら答えた。
「邪魔だったからと言ったのを忘れたのか? たとえお前が自分の意思で俺のところに来たとしても、必ずそこの男はお前を救い出すために俺の前に現れただろう。だから殺した。俺にとって必要なのはお前だからな」
「私じゃなくて、私の血でしょ?」
「ああ、そうさ。お前自身はどうでもいい」
「だったら、好きなだけ血を持っていけばいいじゃない! いくらでもあげるわよ!」
「それだと有限だろ?」
「何ですって?」
「お前から血を貰ったところで、それを使い切ってしまえばそれで終わりだ。血を長期間新鮮に取っておくことも出来ない現状でその条件は飲めない。いっそのこと、血の供給者を傍に置いて置けば、好きなときに好きなだけその血が手に入る。それこそ無限にだ」
「そんなに生きていたいの?」
「当たり前だろ?」
ケルンの顔にありありと理解不能だ。という表情が浮かんだ。
「死にたいと思う方が俺には理解出来ないね。俺は様々な死を見て来た。志半ばに命を奪われたもの。疫病に罹って死んだもの。無実の罪で処刑されたもの。俺は戦争にも連れて行かれたがね、あれほど無意味な死がどこにある?
俺は死にたくないと思った。俺は死ぬことのない人間になりたいと思った。そのためなら何だってすると思った。だから医師にもなった。医師になって、病の勉強をして、あらゆる病を治せたなら、自分が病で死ぬことはまずなくなる。
そのために他人は利用した。新しい病が出れば、どうすれば治るのか、治療法を試すために利用した。俺はな、死にたくないんだ。生きて何かをしたいとは思ってもいない。俺はただ死にたくない。いや、俺だけじゃない。他の奴らにしたってそうだ。死にたいかと問われれば、死にたくないと答える。それが普通だ。そして、そう答えた中の何人が生きる目標を持っていると思う?
あえて問われればろくな答えがないに決まっている。人間というのはそう言うものだ。死にたくないから生きているんだ。生きていたいから臆病になる。臆病になるから辛い目に遭う。強いものに虐げられて、いつも人の顔色を窺うようになるんだ。
俺はな、そんな人生まっぴらなんだよ。普通に大手を振って堂々と生きていたいんだ。
だから俺は賢者の石が欲しい。不老不死の霊薬を作るための材料が欲しい。それを作るための材料が欲しい。だから俺はお前が欲しい。賢者の石を作るためにな。
いいか? お前は単なる材料だ。材料の意思など関係ない。お前は黙って俺に付いて来さえすればいんだ。
分ったら来い。立て」
「嫌よ!」
シエラはきっぱりと拒絶した。
「あなたは最低の人間よ。医師になったのも自分のため。そこに来る患者はただの実験体。死にたくないから生きる? そのためには何をしても良いと言うの? 人としての志はあなたにはないの?」
「志を掲げたところで死んでしまえばそれで終わりだ。そこの男のようにな」
「!」シエラの眼から涙が溢れた。ケルンにアズウのことを汚されたくはなかった。
だが、ケルンの言っていることは事実だった。死んでしまえばそれで終わりなのだ。だが、だからと言ってケルンのやっていることが正しいとは言えない。認められるわけがなかった。
「あなたは人間の屑よ!」
「屑だろうと何だろうと、生きている人間の勝ちなんだよ!
これが最後の忠告だ。俺と一緒に来い!」
「嫌だって言ってるでしょ!」
その瞬間、ケルンは怒りに眼を吊り上げると、苛立ちを爆発させた。
「来い! つってんだよ、化け物!」
シエラの髪を鷲掴みにし、その顎に銃を突き付け、罵る。
「死ななくても痛みはあるんだろ? 大人しく来れば痛い目に遭わせないと言ってるのが分らないのか?」
その瞬間だった。
「……げほっ」
苦しげな咳の音がした。弾かれたように音のした方、真下を見るシエラとケルン。
見れば、アズウが苦痛に表情を歪めていた。
「何?!」
ケルンが驚愕の声を漏らし、シエラは驚きに眼を見開いた。
「馬鹿な! 銃で撃たれて生きているわけがない!」
ケルンの意見にシエラも同意した。アズウの鼓動は止まっていたのだ。
「来い! 女! 来なければ残りの銃弾全部をこの男に撃ち込むぞ!」
ケルンが何かに怯えたように叫んだ。さすがにそれにはシエラも表情を強張らせる。
せっかく奇跡的にアズウが息を吹き返したと言うのに、残りの銃弾を打ち込まれてしまえばもう生きてはいないと確信した。
「止めて! それだけは止めて! 私が着いて行けばいいんでしょ? 着いて行くからアズウを助けて! 殺さないで!」
シエラはケルンの腕に縋り付いて懇願した。
それで気を良くしたものか、ケルンは強張った笑みを張り付かせて勝ち誇った。
「初めからそうやって素直になっていればこんなことせずに済んだんだ。さあ、行くぞ。ぐずぐずしていたらそいつが完全に眼を覚ますかもしれない。単に最後の悪あがきで眼を覚ましただけかもしれないが、万が一、そうじゃないなら厄介だ。馬に乗れ!」
そう言うと、ケルンはシエラの腕を掴んで強引に立たせた。
そして、半ば引きずられるように歩かせられたなら、シエラは焦った。
「ま、待って。お願い。待って!」
「何だ!」
ケルンが苛立たしげに促せば、シエラは頼んだ。
「アズウの手当てをさせて。このまま横たわらせていたらアズウは確実に死んでしまうわ!」
「駄目だ!」
「どうして!」
「完全に目覚めたら厄介だと言っただろう?! ほっといても、運がよければ誰かが通って助けるだろ」
「そんな。それじゃ、私があなたに着いて行く理由がないじゃない!」
そう反論すると、ケルンは怒りも露にシエラの胸倉を掴んで引き寄せると、声を低くして忠告した。
「いいか。勘違いするな。運がよければ生きていられる可能性を俺はわざわざ用意してやったんだ。何なら今すぐ殺してやってもいいんだぞ?」
「!」などと言われては、シエラは何も言えなくなってしまった。
それを了解と理解したケルンが再び歩かせ、馬に跨らせたなら、シエラは馬の上からアズウを見下ろした。アズウは微かに苦しそうに顔を歪めていた。
ああ、アズウ。アズウ。死なないで! どうか死なないで! 必ず生きて! 本当は一緒に生きていたかった。でも、あなたが生きていてくれるならそれでいい。だから、必ず生きて! だから……誰か助けて!
涙で滲んだ視界の中で、シエラは何度も何度も心の中で祈った。そして願った。全ての奇跡に。アズウを助けてくれる、あらゆる事に。
そしてシエラは血にまみれたアズウから引き離された。
そしてアズウは最後まで涙を浮かべたままのシエラを奪われた。
それが二人の別れだった。
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