石に還る (2)


「セイレン、大丈夫か……」


「大丈夫じゃない。足りない」


 言葉をさえぎった。


 セイレンは、地面にしゃがみ込んでいた。軽くなった足先を滑らせて土を掻いた後で、息を止めた。


「影だ。影がない」


「影?」


「影がないんだ。ずっとあったのに――さっきは、その影に引きずられて地面の底に落ちたと思ったのに。その影がないんだ」


 月に触りたい。太陽が欲しい――と騒ぐ気難しい童のようにいって、セイレンはほろほろと涙をこぼした。


「セイレン――それは、たぶん……」


 耳に降りてくる雄日子の声色が、妙に暗い。


(たぶん?)


 あなたはなにか知っているのか――と、見上げて視線で問いかけたけれど、視線が合わない。雄日子はセイレンに横顔を向けていて、笑みもなかった。


 いつも笑っている男のくせに――。汗ががひいて、ぞっと寒くなる。


(なにか起きたの?)


 尋ねようとしたけれど、雄日子の目が向いた先を追ったほうが、声を出すよりも早かった。


 雄日子は、セイレンからすこし離れた地面を見下ろしていた。夏の夜の地面は暗くて、しっとり湿っていてほのかに冷たい。その冷たい土の上に、横たわっている娘の姿があった。


 一瞬、目を疑った。そこにいた娘は自分にそっくりだったので、自分の寝姿を見下ろしている気がした。娘はまぶたを閉じていたものの、顔は水鏡に映った自分を覗くようだったし、背格好もほとんど同じ――そこにいたのは、双子の姉の石媛だった。


 セイレンは、のけぞった。背中の骨ごとぐいっと真上に引っ張られた気がして、身体がひきつる。喉がひくりと鳴って、風の音のような悲鳴が出た。


 暗い地面に横たわる石媛は、目を閉じていた。まぶたや頬の肌が真っ白にみえるのは、周りの夜闇に引き立てられているせいか、それとも――。


 石媛の寝姿のそばには、牙王がおう斯馬しばがいた。牙王は石媛の頭の近くであぐらをかき、手のひらを石媛の頭上にかざしている。皺の寄った牙王の指には、あかや青、みどりの色をしたたまがつらなる御統みすまるがあり、牙王はそれを指にからめつつ手のひらにくくって、目を閉じていた。


 ある時、牙王の唇がひらいた。ふしぎなことに、牙王が唇をふるわせるたびに、牙王の口からは牙王ではない人の声がした。若い娘がすすり泣くような声だった。


『セイレンが羨ましい。私はセイレンになりたかった』


 雄日子が耳打ちをしてくる。


「あれは魂語たまがたりといって、死人しびとの声をきく牙王の技だ」


 雄日子は口早に教えたけれど、セイレンは「うるさい」と罵りたかった。


 そんなことは聞かずとも理解したし、牙王の口からきこえるものが間違いなく石媛の声だということも、声が発せられるなり理解した。それに、石媛の声に乗った言葉もひどく耳触りだ。


「やめろ――」


『セイレンはいいなあ。私も、セイレンみたいになり――』


「やめろ、もういい、黙れ」


 怒鳴り声で牙王を制する。


 大声を気にして、牙王は魂語りという技を終えてしまったので、あたりにはぬるい夏風のかそけき音がしんと響くだけになる。遠くの林で葉がこすれる音が、ちらちらと小さく重なりきこえてくる静けさのなかに、はあ、はあ……というセイレンの息の音が重なった。


 しばらく経ってから、雄日子の声がぽつんと落ちてきた。


「おまえが急に倒れて息もしなくなったから、牙王がおうに診させたのだ。そうしたら、そうなった理由はおまえではない者にあるというので、もしやと思って探したら……ここで、この娘が倒れているのを見つけたのだ。――セイレン、この娘が命を絶ったのは、僕のせいかもしれない。――実はさっき、妻にしてくれといわれたのだが……でも僕は、セイレンのほうが好きだから、妻に迎えたところで僕はあなたのそばにはいかないと……」


 雄日子は、叱られるのを待つ子どものようないい方をした。仕草や態度もいつになく気弱だ。


 でも、セイレンはいま、雄日子の表情だの仕草だのに興味がもてなかった。かっと腹が立って、怒りが湧いた。雄日子ではなくて、石媛に対してだ。


「――あいつは、馬鹿だ。そんなことぐらいで――」


「そんなこと?」


 雄日子の声が、もう一度耳に落ちてくる。水面にぽつりと落ちた一番雨のように無垢で、落ちたことに気がつかないふうに細い波紋になって広がり、消えていく。


 でも、セイレンはそれも気にかけることができなかった。


 目の前で地面に横たわる双子の姉は、すでに息絶えている。――それは見ればわかったし、ほんのすこし前にとんでもない夢を見た後だから、疑う気も起きなかった。夢のなかで石媛がみずから「あのね、私、死んだの」と告げていたし、別れの言葉もきいた。


 夢のなかで石媛は「ごめんね」と謝っていたし、なぜかいま、雄日子も脅えるようにセイレンに気をつかっている。


 でも、セイレンは話をきく気になれなかった。


 石媛がそこで横たわっていることにも、雄日子が「僕のせいかもしれない」と話したことにも、牙王の口から出てきた魂語りというまじないの言葉にも、腹が立って仕方なかった。雄日子でも牙王でもなく、石媛に対してだ。


「あんたは馬鹿だ。この大馬鹿やろう! なぁにが『セイレンはいいなあ』だよ。わたしになりたきゃなれよ。羨ましいっていうだけで、なろうともしなかったくせに! わたしはやったよ。あんたみたいになってたまるかって、やったよ。なんのために生き残ったんだよ。一族の聖なるお姫様のくせに――土雲はどうなんだよ。あの山でしたことの償いがこれかよ。あんたが一人、あいつらの後を追ったくらいで――どこまで頭がおめでたいんだよ! わたしが一人で残ったところで、土雲なんてどうでもいいとしか思ってないからね? わたしは災いの子で、あんたみたいなお姫様じゃないんだから……この馬鹿、馬鹿、馬鹿……」


 声が裏返るほど怒鳴り散らして、突っ伏した。握り拳をつくって石媛の胸のあたりにとりついた。


 「この馬鹿。馬鹿」とくり返していたが、ある時、はっと顔をあげる。


 セイレンの耳に、ちり……ちりちり……と、妙な音がきこえていた。火花が散るような、針先を磨く時の金音のような――とても高い音だ。


 空耳かもしれないと耳を澄ましたけれど、そうではなかった。貝をカチンと合わせたような涼しい音で、山魚様を呼ぶ祭の時に使う楽器の音色に似ていた。


 そのくせ、うっかり聞き入ってしまうと、急に腕を引かれてどこかへ連れ去られてしまいそうな不気味さがある。これが音ではなくて目に見えるものなら、脅えて目を逸らすか目をつむるかする――そういうたぐいの音だ。でも、耳は閉じてくれないし、かといって気になって、手で耳をふさぐ気にもなれない。


(どこからきこえてくる? どこで鳴っている音だ)


 耳を澄ますと、音の出所はとても近かった。セイレンの顔の真下、ちょうど石媛の胸の上あたりだ。


 石媛が身にまとう上衣の、土雲風の染めがほどこされた襟の合わせ目。そこには、首からさがった飾り紐がくたりとよれていて、〈雲神様の箱〉がわずかに横を向いて転げている。


(〈雲神様の箱〉が鳴ってる?)


 目をしばたかせた。〈雲神様の箱〉は一族の秘具であり、武具であり、土雲の民が威嚇と誇りを示す時に使う道具だ。でも――。


(〈箱〉が音を立てるなんてきいたことがないよ。本当に鳴ってる?)


 石媛の胸元に片耳を近づけてみる。すると、ちりちり……というふしぎな音は、たしかに石媛の胸の上にある〈箱〉の奥深くからきこえてくる――それは間違いがなかった。


(なんだ、この音)


 じっと耳を澄ましているうちに、はっとして顔をあげた。そばで同じものを覗き込んでいた雄日子の目と目が合った。


「どうした」


 急に目が合うので、雄日子がふしぎがる。


 でも、セイレンも似た気分だ。急に顔を上げたくなったのだが、理由はわからない。


 ただ、「くる、くる――」と怖くなって、雄日子を探していた。くるのがいったいなにで、なにに脅えているのかが自分でもわからなかったけれど、セイレンは雄日子を探していた。


 わからないのに、喉まで出かかった言葉もあった。逃げて――と。


(くる、なにかくる――)


 地面の奥底のほうが、じりじり揺れた気がした。地の底に溜まっていた大きな力をもつなにかが、一気に上へと押しあがってくるような――。


 石媛のそばにいた牙王がおう斯馬しばも、はっと顔を上げた。牙王は周りの様子を目で舐めるように見ていて、斯馬のほうは真上を――セイレンが気にしたのとは真逆の方角を見据えている。


「なにかくるぞ」


 目を光らせはじめたのは、斯馬と牙王だけではなかった。


 遠くから近づいてくる足音もあった。暗闇のなかを走ってくる人影が三つ見えはじめていて、三つの影のうち一つは小さくて、もう一つは影の形が細かった。ツツとフナツで、二人の後ろを追いかけるように駆けていたのは藍十だった。


「待てって! おまえら、目ぇ見えないんじゃなかったのかよ!」


 まだ遠いところから藍十が叫ぶ声がきこえる。藍十が訝しがるほど、めしいのはずの二人は、思いのまま駆けているように見えた。


 館と館のあいだの暗い夜道をまっすぐ走ってきたツツとフナツは、セイレンのもとを目指していた。雄日子を突き飛ばすようによかしてセイレンの真正面でしゃがみ込むと、地面に膝をつく。両手をひらいてセイレンを背にかばい、雄日子からセイレンを守る盾になるような姿勢をとった。


 セイレンは驚いたが、雄日子はもっと驚いた顔をしていた。


 雄日子は、セイレンが守り人として仕える主だ。主の男が、突然押しやられたり敵にするような態度をとられたりするので、見て見ぬふりをすることもできなかった。


「ツツ、フナツ――どうしたの。雄日子がなにか……」


 咎めたが、ツツもフナツも引きさがらない。


「違います、この方じゃない。くる。きます――」


 フナツがしがみついてくる。フナツはセイレンを頭からまるごと守ろうとしていた。


 いつのまにか、雄日子の前にも人がいた。斯馬しばだ。斯馬は、ツツとフナツがしたのと同じように雄日子を背にかばって、敵を見るようにセイレンを睨んでいる。


「私の影に、雄日子様――」


 いったいなんだ。くる、くるって、いったいなにが――。


 セイレンは、なにかが地の底から地上をめざしてぐんぐんと昇ってくるのを、なんとなく感じていた。


 ある時、似たものが上からもくる――と気づいた。天高い場所から下りてくるなにかが、地上をめざして降りてきていた。上と下、両方からくるなにかとなにかが、地面の上でぶつかろうとしていた。


「フナツの影にかくれて」


 フナツがセイレンを抱きしめる。その時、天から白い光が降りていた。


 斯馬も、雄日子を守っていた。その時、地の底から突きのぼった黒い霧が吹きあげていた。


 天から降った白い光と、地下から湧いた黒い霧は、混ざり合うことなく渦を巻いて、一か所に吸い寄せられていく。ねじれて細くなり、尖った先が向かったのは、つめたい地面の上に横たわる石媛の胸元――〈雲神様の箱〉だった。


 セイレンは目を見張った。光と闇が渦を巻いて向かった先を、懸命に目で追った。


 白と黒の光の先端が〈雲神様の箱〉の表面に触れた瞬間、光は〈箱〉にある無数の穴に吸い込まれていった。


 白の光は白く輝くまま、黒の光は黒く澄んだまま、最後まで混ざることなく、あたりに立ちこめた煙がみるみる姿を失っていくように〈箱〉の奥に消えていく。


 そう長い時もかからず、一、二、三……と、息を止めているのが苦しくもならないうちに、周りに溢れていた白と黒の光は消えた。


 ちりちりちり……という小さな音はまだ響いていた。でも、それもすこしずつ遠ざかっていく。


 その音も消えると、しん、と静寂に包まれた。


 いや――。からん……と、かすかな物音が鳴った。白と黒の光を吸い込んだ〈雲神様の箱〉が、石媛の胸の上で粉々になっていた。目を閉じた石媛の胸元で〈雲神様の箱〉は細かなかけらに砕けて、そうかと思えば、小さく弾けた火花のように暗闇に広がって、消えた。


 夜闇に散らばった火の粉が、無に消えるようだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る