忘れられた湖 (2)

『ああ、悔しい。人どもめ。神を騙って呼び出し、我が甘い水を奪い取りやがって――。おのれ、人どもめ――』


 人の声ではない声色だったので、はじめは声とわからなかったが、言葉だとわかってから耳を澄ますと、その声はずっと続いている。山魚様は、正面で儀式の支度を進める里者を睨みつけながら、恨み言をいっていた。


『おのれ、人どもめ――おまえたちに喰われるわしのように、おまえらも滅びろ、喰われろ、亡骸になれ。おのれ――』


 聞こえてくるのは、憎しみの言葉ばかり。


 このまま呪いが生まれそうだと、込められた憎しみに、セイレンの目に涙が浮かぶほどだった。


「ねえ、セレン。あなたさっき、山魚様が村に来たから出迎えの祭りをひらくっていっていたよね。この山魚様は、この里に来たばかりなの? もしかして、ここにくる前は――」


 土雲の里にも、山魚様の儀があった。


 里に伝わる楽器を使って、湖の底から山魚様を水面近くまで呼び出し、身体の大きさをはかるのだ。


 山の毒が清められると、頂きの湖の毒も薄まる。そうすると、だんだん山魚様の身体は小さくなる。とても小さくなると、山魚様はいつのまにか湖から姿を消してしまうのだそうで、そうなると土雲はその山にいられなくなる。べつの元気な山魚様が棲む山へ、みんなで移り住むのだ。


 毒が清められると山魚様が去るとは聞いていたが――そのあとどこへいくかは、考えたこともなかった。


 もしかして、いま目の前にいる生き物が、自分の里にいた山魚様なのだろうか。


 あんなに小さくなって、魚の姿も失って、大勢の人の前で動きもせず、憎しみの言葉をつぶやき続けている――あのみじめな生き物が。


 うなずいたのは、チトネ。


「そうだよ。土雲が三十年かけて山魚様を弱らせて、土蜘蛛のいる里へ追いやるんだ。我らは、あの山魚様を見守って過ごす。神だからな」


「神?」


 そんなものが? と、セイレンは眉をひそめた。


「なら、あの山魚様はこの里で、その……死んでしまうの?」


「あと十年ほどでな。亡骸になったら少しずつ削りとって、宝珠をつくりはじめる」


「宝珠?」


「土雲媛の宝珠だよ。我らの精の源。大地の神へも捧げる」


「え――?」


「――ほら。あれが前の山魚様だ。だいぶん使ってしまったから、亡骸も小さくなった」


 チトネは噛んでふくむようにゆっくり話し、ためらうような仕草で指をさす。


 緑色に光輝く湖のほとりの石の岸に、白いものが置かれていた。


 光を受けるたびに虹色が見える白いうろこにつつまれた黒い肉と、白い骨。魚か、大きな蛙か――大きな生き物の骨で、半分くらいが削り取られている。


 ひくり、喉が震えた。


 これが、あの山魚様のなれの果てか――。そう思うと、気が遠くなった。


 暗部山で見た水柱を上げて暴れる山魚様や、土雲の里で見た、湖面を優雅に泳ぐ山魚様とは似ても似つかぬみじめな姿だ。


 そのうえ、亡骸を削り取られるのか。土雲媛の宝珠をつくるために――。


 そう思うと、ますます怖くなった。


「ねえ、さっき……土雲媛の宝珠が精の源っていったよね。あなたたち、あれを食べているの?」


「ああ。一年に一度か、半年に一度。あれを身体のなかに入れていないと、急に動けなくなるんだ」


「それで――」


 だから、セレンも持ち歩いていたのだ。大切なものだが、藍十にあげてしまえるほどには数をもっているのだろう。


「あなたたちがつくった土雲媛の宝珠を、土雲にも渡しているの?」


「渡しているとはきいている。でも、渡しているのは私たちではない」


「じゃあ、誰が――」


「大地の神だよ」


「大地の神?」


「地の底の土蜘蛛と、山の上の土雲の里を行き来する神だ。ただ、いまは――」


 そこまでいって、チトネは口を閉ざした。


「いい、いこう。まもなく山魚様の儀がはじまる。あの儀をよそ者に見せてはいけないのだ」


 低い声で、チトネは自分にいいきかせるようないい方をした。


 ちゃぷん、と山魚様が水を揺らす音や、岸で儀式の支度をする物音が、岩の上を進むひそかな足音に混じっている。


 地下には岩の間を吹く風の音がこもっていて、ごうごうとうなるような低い風の音だけは絶えず響いていた。


 無言の道行きのなか、セイレンは頬に涙をこぼしていた。


「どうした、セイレン」


「ううん、なにか――。わたし、たぶん、いろんなことを知らないんだなあと思って」


 ぐすっと鼻をすすって、頬に流れた涙をぬぐった。


 薄闇の底で、湖はほんのりと蛍の光の色に染まっている。


 山魚様の恨み言をきかないふりをしているのか、儀式の支度をする里者たちに、山魚様を気にするそぶりはなかった。


 光輝く湖から離れた暗い岸には、半分削り取られた生き物の骨がある。その骸からつくられるのが、土雲媛の宝珠。


 その宝珠を食べて、この土蜘蛛の一族は地下で暮らしているのだという。大地の神にも捧げて、捧げられたものが、おそらく土雲の一族にも「宝珠」として伝わっているのだ。土雲媛がもち、いずれ夫になる男に与えられるものだ、と。


 事実がわかっただけで、それがいいことなのか悪いことなのかはまだわからない。ただ、哀しかった。


 山魚様の亡骸のそばに近づくたびに、骨も皮も肉も半分なくなったいびつな姿がありありと薄闇に浮かんでいき、目が放せなくなる。


 じっと見ていると、また涙も浮かぶ。


 指が震えて、思わず藍十の袖に指を伸ばした。指でつまんで袖の布地を引っ張ると、藍十が「なんだ?」とばかりに目を丸くする。


 むしょうに誰かに謝りたいような、助けを請いたいような――ひどく人恋しくてたまらなかった。それに、話を聞いてほしかった。


 手が届く場所に藍十がいるのがとても幸運だと思ったし、耳にふっと蘇る言葉もある。前に、藍十から叱られた時の言葉だ。


「本当だ。なぶり殺しは、ひどいよね――」


 つまり、山魚様は、土雲の手によって山の上で三十年、土蜘蛛の手によって地下で十年、殺され続けるのだ。


 殺され続ける間に、土雲はうろこから薬をつくり、〈雲神様の箱〉を使ってふたたび大地に毒をまく。土蜘蛛はその毒を宝珠という形に代えて飲み込み、身体に溜めて、地下で生きる力にする。


(たぶん……わたしたちは、山から毒を取り去って清めているわけじゃないんだ。毒を集めて、いいように使っているんだ。――もしもこの世から毒がなくなったら、わたしたちは生きていけないんじゃないのかな)


 昔はあちこちにいたという山魚様は、いまではもう数少ないのだという。


 暗部山で元気な山魚様を見つけたが、もしもあれが最後の山魚様だったとしたら――その山魚様が息絶えて宝珠につくりかえられてしまえば、土雲も土蜘蛛も、いったいどうなるのだろうか――。


(なにが、神の里へかえってしまった大地の神から、かわりに地面を清めてくれと役目をおおせつかった、だ。地面にある毒をうまいこと使ってるだけじゃないかよ、嘘つき。――土雲って、とてもみじめな一族だったりしないのかな。神様が忘れたのは〈待っている山〉じゃなくて、土雲のほうじゃないのかな……)


 自分の一族の生き方はとても古くさくて、もしかしたら、いまも同じことを続ける理由が消えつつあるのかもしれない――。


 それでも、これまでのように生きるべきなのかな。

土雲でい続けるべきなのかな――。

 もう、土雲は滅びたほうがいいんじゃないのかな――。

 ――ううん、こんなことを考えていることすら、おかしいんじゃないのかな。わたしは災いの子なのに――。滅びを願うなんて、本当に「災いの子」だ……。


 いろいろと考えると頭の中がおかしくなって、自分を貶めるような苦笑も浮かんでくる。


 考えても無駄だ。ことが大きすぎる――。


 そう諦めて踏ん切りをつけようと、手の甲で涙をぬぐった。


 それにしても――。毒を清めるといいつつ毒を集めて、かわいそうな山魚様をなぶり殺しにして、集めた毒を思うままに扱うなど――。しかも、その毒を閉じ込めた土雲媛の宝珠を扱うことができるのは、土雲の一族では、主の土雲媛のみだ。


 そう思うと、蜜蜂が集めてくる食べ物の一番いいところを独り占めして、一匹だけ大きく育つ女王蜂のことがふっと頭をよぎった。


(土雲媛って、女王蜂みたい――)


「ねえ、藍十。戻ったら、〈雲神様の箱〉に頼らない戦い方を習いたい。また稽古をつけてくれる?」


 藍十は真顔をしていたが、すぐに笑って、「ああ、いいよ」といった。







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