山魚様 (2)

「藍十はここにいちゃいけないんだ。早く出なくちゃ――」


 さっきまでとは人が変わったように、藍十は弱っていた。もう一度セイレンの肩に乗って跳び上がるなど、できそうにない。


「どうしよう――出口を探さなきゃ」


 地下の洞窟は広かった。藍十がいっていたとおり明るくて、穴の奥のほうに光が射し込んでいるのが見える。きっと、外と繋がっているのだ。


「藍十、わたしにおぶさって。運ぶから。お願い!」


 背中を差し出した。でも、藍十は指をぴくりとさせるだけでろくに動かない。


「ごめ……」


 謝り文句も途切れ途切れになった。口がもう動かないのだ。身体が痺れているのだ。


 このままここにいたら、じきに息が止まってしまう……。


 ぞっとして、早く藍十を背負ってしまえと、腕を肩に回した。


「謝るな。わたしが運ぶから」


 でも、力のかよわない腕は思うとおりの姿勢になってくれないし、担いだところで藍十のほうが背が高いので、膝から下が地面についたままで、一歩を踏み出しても引きずられてしまう。なかなか前に進まなかった。


「だめだ、こんなんじゃ――運んでいるうちに藍十が……」


 腕を離して、藍十の身体を地面に寝かせる。


 まぶたが力なく閉じていて、「藍十、しっかり!」と呼びかけてもぴくりとも動かなかった。


「どうしよう、とりあえず、土露……!」


 こんなふうに誰かが〈待っている山〉の毒気にやられて倒れてしまうことは、土雲の里では珍しいことではなかった。そういう時は、まずは毒の届かない場所へ運んで、土露を口に含ませる。そして、土露を浸した布で身体中を拭いて、目覚めるのを待つ。


 震える手で武具帯を解いて、薬入れを漁った。土露は土雲草という薬草を煎じてつくるが、その薬草は残りわずかだった。一番よく使う薬だから、一番大きな薬入れにしまってあるが、これまでも何度か使ったので量が減っている。


 土露をつくるための煎じ道具も、ここにはない。


(わたしが口の中で噛んで、藍十に食わせれば……)


 それしか方法がないのだから、試すべきだ。でも、それでは藍十はよくならないということはすぐに気づいた。


(だめだ。量がすくなすぎるし、噛んで食わせただけじゃ効き目も薄い。だいいち、ここにい続けたらもっと悪くなる。早く毒の風がないところに移動しなくちゃ……)


 混乱は涙を呼んでいて、いつのまにか頬は濡れてびしょびしょになっていた。


 手も震える。覗きこんだ藍十の顔は、静かに眠っているように見えた。でも、閉じたまぶたも、鼻も、唇も、頬も、なんだかさっきよりずっと生きている感じがしなくて――死期が迫っているように見えて、血の気が引いていく。


「いやだ、藍十。死なないで……」


 泣きじゃくりたかった。でも、そんなひまなどない。背負ってすこしでも動こうと、もう一度腕をとる。でも、手が震えていて、空振りばかり。なかなか藍十の腕を掴めなかった。


「馬鹿。しっかりして!」


 大きな声で自分の腕を叱りつけて、無理やり藍十の腕を掴んだ。


 まずい、どうしよう。まずい――いやだ、死なないで――。


 不安と脅えが頭の中で入り混じって渦を巻いて、めちゃくちゃになっている。


 でも、ひどい嵐が急にやんだように、ふっと静かになった瞬間があった。


 その時、セイレンは雄日子の顔を思い出していた。


 優しいのか冷たいのかがよくわからない真顔や、なにを考えているのかわからない微笑を思い出すと、すっと波が引いたように胸が静かになる。


(そうだ。落ち着いて――よく考えて)


 雄日子は、いつも笑っている男だ。どんなに恐ろしい話をした後でも、敵地に乗り込もうと馬を走らせた時でも、怒ることもなく脅えることもなく、静かに笑っている。


 その男のことを思い出して、同じようにするべきだと胸が信じた。


「どうすればいい。藍十は息をしちゃいけない。息をするたびに毒が身体に入るから――。息を止めなくちゃいけない、だから――」


 ひとりで問答を続けた後、手は〈雲神様の箱〉に伸びていた。


 解いたままの武具帯から、薬入れも一つ手に取る。その薬入れには、疾風や追手に使った痺れ薬が入っていた。


 その薬をすこしだけ〈箱〉に入れて、藍十の顔に向けた。


「痺れ薬を使って、藍十の息をゆっくりにさせる。そうすれば、毒の回りが遅くなるから――でも、わたし、間違ってない? 大丈夫かな――」


 決めてしまうのはとても怖かった。


 本当にこれでよいのかと、身体が凍りつくような心地もする。


「もしも痺れ薬の量が多すぎて、痺れるだけじゃなくて藍十が死んでしまったら? でも――」


 不安はたくさんあった。でも、膝の上にある藍十の顔から生気がなくなっていくのは、決めるよりもずっと恐ろしかった。


 怖いけれど、迷う時間はないのだ。


『もう泣くな。これでわかったろ。迷ったら、代償のほうが大きいんだ』


 藍十の声も蘇った。記憶の声にこたえるように、大きくうなずいた。


「わかったよ、藍十。だから、だから……あなたの息を止める」


 でも、怖くて涙は止まらなかった。


 〈箱〉を口元に近づけて、ふうっと息を吹き込む。〈箱〉から出ていった風が藍十の顔にかかると、わずかに表情がかわった。死にゆく顔ではなくて、眠った顔になった気がした。


 〈箱〉からこわばった指を離して、じわじわと肩の力を抜く。たぶん間違っていなかった――そう信じると、また涙があふれた。


「ひとまず、大丈夫。藍十は眠った。次はどうする? ――薬が切れないうちに、藍十を運ぶ。運びやすいように武具帯もしっかり片づけて……」


 声に出して自問自答しながら、ゆっくりと武具帯を腕に巻きつける。


 それから、藍十の腕を掴んで肩にかけた。指の震えは、いつのまにかおさまっていた。


「どの方向にいく? いくら明るくても、毒が強かったら駄目だ。どっち?」


 洞窟は細く長く伸びていた。はじめに進もうとしていたのは、明るく見えるほうだった。でも、たしかめると、洞窟の中を吹く風は明るいほうから暗いほうへと吹いている。匂いのする風も、明るいほうから暗いほうへ向かって吹いていた。


「あっちは駄目だ。暗いほうにいこう。ちょっと暗いけど、暗闇じゃないから出口はあるはず。大丈夫、抜けられる――」


 藍十を背負って、ゆっくりと一歩ずつ踏み出していく。


 藍十の足が地面にこすれるので、進みは遅かった。でも、一歩でも進めと足を動かした。


「迷ったらだめ。迷ったら、藍十がいなくなる。迷うな。進め――」


 呪いの文句のように、つぶやき続ける。


 そうして、しばらく進んだ後だった。


 後ろのほうから、声をきいた。


「あの、大丈夫ですか……」


 高い、小さな子どもの声だった。


 声を聞くなり、セイレンの指は首から下がった〈箱〉に触れる。


「誰?」


 咄嗟に声がしたほうを振り向いて、〈箱〉を口もとに当てる。それは、土雲の一族に伝わる威嚇の仕草。「おまえを殺してやる」という意味をもっていた。


 セイレンに声をかけた子どもの声は、驚いていた。


「〈雲神様の箱〉……?」


「えっ?」


 聞き間違いをしたかと思った。胸元にさがる〈箱〉は、土雲の一族の秘具。一族以外の者は、その道具の名前など知らないはずなのだ。それどころか――。


「あなたは、土雲?」


 驚きすぎて、声が出なくなった。声は聞こえているが、まだ姿は見えない。


「どこ? あなたは誰?」


 口が渇いていた。藍十を背負ったまま、周りを見回す。すると、小さく動く影があった。

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