疾走 (2)

 どどどっ、どどどっ――。轟くような響きの中、疾風はやてはセイレンを乗せて、周りと同じ速さで駆ける。


 実のところ、セイレンは手綱を握るだけでなにもできなかった。疾風が周りに合わせて走って、セイレンを乗せているだけ。セイレンは、振り落とされないようにしがみつくだけだった。


(早駆けってこんなにつらいんだ。みんなは? 藍十あいとおは――)


 苦しさを押しこらえて隣を見てみると、藍十は前を向いて目を輝かせている。姿勢は、馬をゆっくり歩かせている時とほとんど変わらない。はじめて操る馬でも、とおり過ぎていく景色を楽しむ余裕を見せていた。


(わたしがへたくそなんだ。まだ稽古が足りないんだ……)


 毎朝欠かさずに稽古をしたところで、セイレンが馬という獣に出会ったのはたったひと月前のことだ。物を飛び越えたり早駆けをしたりと、馬術の技を身につけていくセイレンを、藍十は筋がいいと褒めてくれたが、何年も、もしかしたら何十年も馬に乗ってきた武人たちのようにはいかないのだろう。稽古だけでなく、藍十たちは実際に遠出をしたり、戦にいったりしているはずなのだから。


(苦しい。――だめだ、ついていかなくちゃ)


 緊張と酔いが回って気が遠のきそうだった。


 でも、どうにか――と、歯を食いしばって前を睨んだ。前には、藍十と同じように、ほとんど姿勢を崩さずに馬を駆けさせている雄日子おひこのうしろ姿がある。


(あいつも――なんだかんだと武人の身体をしてるもんな。そうだよな、馬術だって長けてるよな)


 雄日子から離れるな。ついていけ――。


 気力を振り絞って、丸まっていた背筋を伸ばした。その時――風に呼ばれたと思った。


「セイレン、馬を止めろ」


 空耳に驚くふうに声がしたほうを探すと、いつのまにか左隣に立派な茶毛の馬がいる。セイレンを呼んだのは、その馬に乗っていた男。荒籠あらこだった。


「ゆっくり速さをゆるめていけ。馬から降りなさい。俺に合わせて――ゆっくり」


 戸惑うセイレンと目を合わせつつ、荒籠は手本をしめすように馬の速さをじわじわと落としはじめる。


 周りを駆ける武人たちが、セイレンと荒籠を左右によけながら追い抜いていく。雄日子の護衛軍に追い抜かれたあたりで、荒籠は馬の歩みを完全に止めてしまった。つられるように速さを落とした疾風も、その場に立ち止まった。


 今度は、護衛軍の後を駆ける百頭の馬が二人の左右を追い抜いていく。人を乗せていない馬は、人を乗せた馬よりも蹄の駆け音が軽快だ――そういうどうでもいいことが気になってしまうほど、セイレンはいまなにが起きているのかわからなかった。


 荒籠が隣で馬を下りた。合わせて、セイレンも疾風から下りる。セイレンを見下ろして、荒籠は苦笑した。


「そう泣きそうな顔をするな。そういえば馬術の稽古中だといっていたものな。早駆けははじめてか? 頭が下がっていて目立っていたぞ?」


 駆け音が遠ざかっていき、轟音に取り残されたように静かになった。


 地面に足をつけるなり、荒籠は自分の愛馬に寄って手仕事をした。すぐに、馬から鞍が外れる。荒籠は自分の馬から馬具をすこしずつ外していた。


「乗りなさい」


「え――?」


「おまえは軽そうだから、俺の草王なら二人乗せても駆けられる。早く乗れ。追いつけなくなる」


 有無をいわせないふうに命じられるので、幻に魅せられるようにふらふらと荒籠のそばに寄って、馬に乗ろうとした。でも、うまくいかない。鞍が外されていたので、ふだん馬に乗る時に足場にしているあぶみもなくなっていた。


「ああ――飛び乗れ。できないなら持ち上げるが――」


「できます」


 身の軽さには自信があった。できないことはないと馬の背にまたがると、すぐに荒籠も飛び乗ってくる。


 それから、紐のようなものを手にとって、セイレンの胴にかけた。


「鞍がなくなったからお守り代わりだ。俺の胴と結ぼう。苦しくないか?」


 そういって、荒籠は自分の腰のあたりで手仕事を続ける。手元には紐の端があった。


「支度が済んだ。追いつくから、すこし速めに駆ける。草王の首にしがみついていなさい」


 後ろから声がかかり、そうかと思えば、セイレンと荒籠を乗せた馬が駆けだした。


 荒籠が横を向いて指笛を吹いた。その先には疾風はやてがいて、音に呼ばれたように駆け出した。


 疾風が横に並んで疾走をはじめたのをたしかめると、セイレンの頭上で荒籠がくすりと笑った。


「賢い子だ。ちゃんとついてくる」


 声を聞くなり、荒籠の顔を見上げた。はじめに森で会った時のことが、目の裏に鮮やかに蘇った。



 ――とても優しい声だ――とても強くて、きれいな――。

 ――まるで、草の神様。澄んでいて、強くて、きれい――。



(やっぱり、この人――なんていうんだろう、澄んでる……)


 土をえぐり、草を踏みつけながら、荒籠とセイレンを乗せた草王という名の馬は草原を駆けていく。


 不思議なことに、セイレンは馬の背に乗っているのがまったく苦しくなかった。群れに追いつくために勢いよく駆けていたので、頬にも目にもびゅうびゅう風が当たる。蹄が土を蹴る振動も強かった。でも、一人で疾風に乗っていた時ほどは揺れを感じない。


 荒籠が操る草王という馬と、疾風の駆け方が違うせいなのか、それとも――。


 自分の身体もそれほど揺れていなかったけれど、後ろにまたがる荒籠のほうはさらに揺れがすくなかった。早駆けをする馬の背にいることなど感じさせないふうにゆったり座って手綱を操り、セイレンの身体がすこし傾くたびにそっと手を胴に添えてくる余裕も見せた。


(わかった、この人の馬の操り方がものすごくうまいんだ――。だからあまり揺れを感じないし、疲れないんだ)


 必死にしがみつくのではなく、揺れに合わせるのだ。揺れを操るんだとわかると、すこし余裕が出た。


 力を入れちゃいけない。荒籠みたいに、力を抜こう。すう――と息を吸った。


 遠く離された騎馬軍に追いつこうと、荒籠の愛馬は力強く駆けている。やがて、距離がすこしずつちぢまって、最後尾で乗り手がいない馬を追いたてる馬飼の表情が見えるようになる。


 馬飼は追いついてきた主に気づいて、荒籠のために道を空けている。すり抜けざまに、荒籠は腕を伸ばして、手にしていた鞍を渡した。


「どれかに着けておいてくれ」


 セイレンを乗せるために外した鞍だった。


 鞍を持っていた手が自由になると、荒籠は手綱を握り直して、群れの外側へ回るように駆けはじめた。荒籠とセイレンを乗せた草王は、騎馬軍が進む速さよりも速く駆けている。外側から大きく回りつつ、群れを追い抜いていった。


 やがて、群れの先頭が見えてくる。雄日子や、そのすこし後ろを駆ける藍十の姿も見えた。


「前に回る」


 荒籠が短くいう。草王は先駆をする馬飼に並ぶように駆けていた。騎馬軍の先頭だった。


「お頭!」


 馬飼たちはすぐに荒籠に気づいた。横一列に並ぶと、荒籠は二言三言、仲間に声をかける。


「どうだ?」


「問題ありませんが、やはり、難波津なにわつに近づきすぎるのはよくないかと。大和の役人がいれば厄介です。二百頭の群れで早駆けをすれば遠くからでも目立つでしょうし」


「わかった――川を渡ったら、草香津くさかつの手前で一度休もう。あそこからなら難波津を眺められる。はるか彼方だが」


「はっ」


 馬飼同士で話していたのは、これから先の道筋のことだった。


 列の先頭まで出てしまうと、草王は速さを落としていたので、それまでよりも落ち着いて目の前の景色も眺められるようになる。


 どどっ、どどっ――。地響きのようにきこえていた騎馬軍の駆け音が後方に下がり、かわりに耳に飛び込んできたのは、風の音。風を切って進む時の頬を打ちつけるような乱暴な音ではなくて、見渡す限りの草原を吹きわたる風の音だ。


 ざあ――、さや――。目の前に広がる一面緑の草原には、強い風が吹いていた。草は意志をもったふうになびき、小さな渦を描くように揺れている。


 そこに、馬飼の騎馬列を筆頭にして、二百頭の騎馬軍が駆け入っていく。騎馬軍が起こした風にも吹かれて、草原の草はあちこちで狂ったように渦を巻いた。


 その、美しいこと。広い大地で風にたなびく無数の草は、ただ無造作に揺れていた。自分の葉先を揺らすものが大地を吹きわたる風だろうが、騎馬軍が巻き起こした小さな突風だろうが、我知ったことかと、素朴にひたすら揺れている。


 遠くから吹きわたる風と、草原をはるか天上から包み込む澄んだ青空。草の匂いと、川べりの水の匂い。


 馬上から緑の野を見つめながら、セイレンは目に涙を浮かべていた。


「きれい――」


 風で目が乾いて、まばたきをすると涙の粒が勢いよく落ち、風に散った。涙はとめどなく溢れて、次から次へと頬のまるみを伝って流れていく。


 誰かに伝えたくて、荒籠の顔を振り仰いだ。


「きれいだね。風を切って進むって、こんなにきれいなんだ。きっとあなたの馬術が上手だからだろうけれど、馬に乗って野を進むって、本当にきれい――」


 心の底から込み上げた思いを口にしたつもりだった。


 荒籠はセイレンを見下ろして、しばらく真顔をした。そして、沈黙ののちにくすっと笑った。


「雄日子様がおまえを囲うのがわかった気がするよ」


 なぜいま、その名前が出てくるのか。


 目の前にある景色や、胸に生まれた感動とは縁のない話がはじまったと、ぽかんと口をひらく。


 荒籠は苦笑していたが、すぐに目を前に戻す。目の前の雄大な景色を眺めた。


「おまえは、目がきれいだ」


「え?」


「たぶん、いまおまえが見て泣いている景色と同じものが、おまえの中にあるんだよ。――なるほど。おまえをそばに置いておけば面白いのだろうな。名だたる美女の姫とはまた別の、またとない宝なんだろう。なるほど、おまえはいい女だ。磨けばもっと光るだろうな」


 いい女――。そういわれた瞬間、身体ががちがちに強張った。突然胸がどきどきと早鐘を打ちはじめるので、自分の身体の変わりようが怖くなるほどだ。


 顔が赤くなっていくのもわかった。頬に吹きつける風が涼しくて心地よいと感じるほど火照っているのも、気味が悪かった。


(なんだこれ、なんだこれ――)


 自分が自分ではなくなった気がして恐ろしかった。でも、飛びあがりたいくらい嬉しくて、喜んでいる部分もあった。


 でも、荒籠がいった言葉の意味は、よくわからなかった。


 いい女。磨けばもっと光る?


 でも、意味もわからないのに、それ以上なにも考えられなくなるほど嬉しかった。







 途中で淀川の浅瀬を渡り、水際の野で一度休息をとったのち、一行はふたたび野を進む。


 いき着いた先は、荒籠の本拠地だという牧。彼方の山裾まで続く広大な草原があって、馬が数えきれないほどいて草を食んでいた。


 草原のあちこちに館がぽつぽつと建っていて、その一つの前で騎馬軍は止まった。


 荒籠は着いて早々に馬を下り、遠乗りの疲れを讃え合う武人たちの隙間を縫って、セイレンのもとを去ってしまった。


「雄日子様のところにいくよ。おまえは休みなさい」


 そういい残して。


 荒籠の姿が見えなくなると、セイレンも震える足をやわやわと引きずって人波を越えた。


(疾風を探さなくちゃ)


 はぐれた相棒が気になったのもあったし、藍十を探してすがりつきたかったせいもあった。


疾風はやて! 藍十、藍十――」


 藍十はすこし離れた場所にいた。藍十の手には疾風の手綱がある。荒籠の馬に乗せられたセイレンを見ていたのか、事情を察したらしい。


「おう、セイレン。疾風なら見つけたから安心しろ。はじめての早駆けはしんどかったか? まだ稽古が足りなかったか」


 人も馬も大勢いる雑踏の中、藍十はいつもどおり人が良さそうな笑顔を浮かべている。


(よかった、見つけた――)


 藍十に会えたことが、心から嬉しかった。力の入りきらない足でおぼつかなく人をよけて近寄ると、両手を伸ばして、藍十の胸をどんと両手で突いた。


「どうしよう、藍十。助けてくれ」


「なにが――」


 藍十は目を白黒させている。でも、セイレンのほうも頭の中がめちゃくちゃだった。


「荒籠から、いい女だなっていわれたんだ。そうしたら、胸がどきどきいって仕方ないんだ。顔も熱くて――。風邪でもひいたのかな。でも、さっきまではなんともなかったんだ。へんなんだ!」


 藍十はしばらくきょとんとしていたが、しだいに唇の端が上がっていく。


「ははあん――セイレンはああいう男が好きなんだ?」

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