ふたりの稚媛 (2)
ぼんやりしていると、真上から声がした。
「あ、こんなところにいた」
がばっと、思い切り起きあがる。
声がしたほうを探すと、茂みの向こう側に藍十がいて、セイレンを覗き込んでいる。
泣き顔など見られたくなかったのに――。完全に不意打ちだった。
邪魔だ。来るな。
目元をごしごしとぬぐいながら睨みつけたものの、藍十は茂みを越えてセイレンのそばまでやってきて、隣にあぐらをかいてしまった。
「探してたんだよ。ほら。前にさ、話をきくっていってただろ」
「――いつのこと?」
「覚えてない? なら、それはそれでいいんだけどさ」
藍十の口調は軽くて、にこりと笑いかけてくる笑顔も、明るかった。
セイレンは、涙の雫が残ったままの目でじっと睨んだ。
(泣いてたのに――どうしてなにもいわないんだろう。もしかして、ばれてない?)
こんな場所に隠れて、一人でみじめに泣いていたことに気づかれていないのなら、それでよかった。
知らんぷりをして、普段通りにすればいいだけだ。
藍十からは、ここしばらく彼にあったぴりぴりとした気配が消えていた。かわりに、妙に大人びた、優しい雰囲気があった。
「なあ、セイレン」
「うん?」
「今日、雄日子様となにかあったか?」
「え――?」
「今日じゃなくてもいいし、べつに、雄日子様と関わりがないことでもいいんだけどさ。――ほら、前にさ、セイレンがおれに話してくれたことがあっただろ? 雄日子様が優しいのか、そうじゃないのかがわからないって。そのとき、おれは、雄日子様は上に立つ方だから、優しいかどうかは興味がないってこたえたんだけど――。ああ、なにかを悩んでるんだろうなあとは思ったんだけど、あのあと、二人になれるような暇がなかっただろ? 気にはなってたんだけど、話すひまがなくてさ」
月の光のもとで、藍十はふんわりと目を細めていた。
優しい、温かい笑顔だ。雄日子のような、冷たい微笑ではなくて――。
藍十の目と目を合わせたまま、セイレンの唇が、震えていった。
「そういうこと、あったかも――。いまなら、なにをいってもいいの?」
そのときは、周りに人の目があるから、余計なことを口にするなと叱られた。
でも、いまは――。セイレンと藍十は、話声が絶え間なく響く人の輪からはすこし離れた場所にいた。そこからの視線をさえぎっている茂みがあり、二人のそばには草むらがあって、人の気配がなかった。
藍十は一度、周りの様子をたしかめるような仕草をした。
「ああ、誰もいないだろ? なんでも聞くよ」
「――えっと」
なにから話そうかと、セイレンは黙った。
話したいことが多すぎて、大きすぎて――。
どれから、どの部分から――?
考えているうちに、ぽろりと、涙が落ちた。
「――あれ」
こんなはずではなかった。泣き顔など見せずに、淡々と話せばいいだけだった。
でも、涙はぽろぽろとこぼれてくる。しだいに大粒になって、もう自分ではどうすればいいのかわからないくらい、次から次へと溢れてくる。
「うん?」
藍十は笑っていた。
目の前で涙をこぼしているのに、ふしぎがることもなく、包み込むような温かい目をして、じっと見守っている。
もう、駄目だった。
セイレンは泣きじゃくって、嗚咽で肩を揺らした。
いいたいことはたくさんあるのに、嗚咽が邪魔をして、ろくな言葉にならなかった。
ううとか、ひっくとか、妙な声を漏らしてばかりのセイレンに、藍十は腕を差し出した。
「ほらほら、こっち来いって。慰めてやるよ」
ふざけるようないい方でセイレンをそばに呼んでしまうと、藍十は手のひらをセイレンの背中に置いて、「よしよし」と撫でてくる。
「すこしずつでいいから、話してみな? いいたいことだけでいいから。おまえは、一人でなんでも抱え込みすぎるんだよ。そんな感じだろ?」
それで、セイレンは藍十の胸にしがみついて、身体中を震えさせて泣いた。嗚咽の合間にすこしずつ震え声を出して、話した。
「実は――」
あまり細かなことは話してはいけないと、大まかな話になった。
土雲の一族は、一族のほかに技を見せてはいけないこと。
それなのに自分は、秘すべきことをことごとく雄日子に教えてしまったこと。
雄日子を、信じられなくなったこと。
なら、ここを去ってしまえばいいのに、まだここにいたいと思っている自分を責めていること――。
「わたしがいまここにいるのは、甘えだと思うんだ。居心地がいいからいるだけで、藍十たちみたいに、どうしてもやりたいことがあっているわけじゃないんだ。それに、居心地がいい場所をつくっているのは雄日子だ。裏切ったら半分死ぬっていう呪いは解いてもらったけど、結局は、雄日子に捕らわれているんだ。あいつも、自分でそういってたし――。結局わたしはあいつの思うとおりに動いていて、操られているようなものだ。だから、ここにいちゃいけない、逃げなくちゃと思うのに、ここを出ていくのが怖いんだ。わたし――駄目なんだ。弱いんだ。一人になるのが、怖いんだ……」
しゃくりあげながらだったので、言葉は途切れ途切れになった。
藍十はセイレンの背中を撫でながら、「ふうん、そうか――」と相槌をうって、耳を傾けていた。
セイレンが口をつぐんでから、藍十はぽつりといった。
「ごめん、聞きたいんだけどさ、雄日子様はセイレンに、居心地がいい場所をつくってるからどうせどこにもいけないだろうって、そんなことをいったのか? それとも、セイレンが自分で想像しただけ?」
それは、雄日子と二人でいたときの話だ。
〈待っている山〉の山頂から戻ってくるあいだに、セイレンは雄日子といい合いになった。ただしくは、セイレンが文句をいい続けて、雄日子がそれにこたえていたのだが――。
そのときに、たしかに雄日子はいった。
『僕のそばにいるのがいやだというなら、おまえはどこにいく? 故郷には、死ぬほど帰りたくないのだろう? ――安心しろ。僕が、おまえの居場所をつくってやるから。そうすれば、おまえは結局、ここにいたいと思うようになる。そうだろう?』
新しい呪いがかかっているのに、気づいていなかったのかと脅された気分で、そのとき、セイレンは頭の中が真っ白になった。
負けを認めるしかなくて、もうだめだ、こいつからは逃げられない――と、諦めもした。
そのときの雄日子の笑顔もまぶたの裏に浮かぶので、セイレンはため息をついた。
「わたしの想像じゃないよ。あいつが自分でそういったよ。――本当にあいつって……」
見せている顔と腹の中がまるっきり違う、「狸」って奴だな――。
そういおうとして息をついたとき。藍十は「まじか」といって笑った。
「すごいね、珍しいよ」
「珍しいって?」
「なんていうか、雄日子様は、人並み外れて落ち着いたところがあるからさ。もし本当に雄日子様がセイレンを操ろうと考えていたなら、わざわざ手の内を明かすようなことは、自分からいわないよ。だから、ほかに本意があるのか、もしも本当にセイレンをそばに置く方法を考えていてのお言葉だったんなら、やっぱり雄日子様にとって、セイレンは特別なんだろうね」
「え?」
眉をひそめた。
藍十は肩をすくめて、「すごい顔になってるぞ?」と笑う。それから、話を続けた。
「それにさ、セイレンは、まだどうしたいかわからないんだよな? まだわからないなら、たしかめたらどうだ? もうしばらくだけ、ここにいたら?」
ここにいたら――?
その言葉をきくなり、セイレンの胸はすっと軽くなった。
「でも、わたしがここにいたいのは、居心地がいいからっていうだけで、なんていうか、藍十たちよりもずっと軽い気持ちなんだ――」
「気持ちに重いも軽いもねえよ。おまえにとっては重くて、大事なことだから、そうしたいっておまえは思ってんだろ?」
「でも――そんなの、甘えじゃ、ないかな」
「甘えねえ。――おまえだってめしを食うだろ? たとえば、魚を食うときはさ、魚に悪いと思いながらも、腹が減ったっていう思いに甘えて魚を食うんだよ。同じようにさ、生きてるんだから、誰だって甘えるんだ。――おれだって甘えてるよ。おれだって、ここにいるのは、ここにいたいからってだけだ。まあ、甘えてもいいじゃないかよ。もうすこしだけ甘えたら?」
藍十の表情もいい方も明るかった。
軽い口調とは裏腹に、セイレンに蘇ったのは、山魚様のうろこを集める雄日子の指。
山頂の岩場で、点々と落ちていたうろこを集めるのにしゃがんで、またしゃがんで――。雄日子は、山魚様のうろこ――土雲の民が秘してきた薬のもとを集めていた。
あれだけの量のうろこがあれば、いったいどれだけの人が死んでしまうだろうか。
それに、雄日子は、セイレンが薬をつくるところもその目で見ている。あの男なら、作り方くらい覚え込んでしまっただろう。
(やっぱり、わたしはとんでもないことをしたんだ。あのときは、雄日子がただ珍しがって見ているとしか思わなかったけど――ううん、信じきっていない相手がなにを考えているかなんかわからないのに、わたしは――)
思い出すと、なんて軽率だったんだろうと自分に腹が立ち、気が遠くなる。
指が震えを思い出すので、思わず、藍十の袖を掴んだ。袖の布地をぎゅっと握りしめても震えはとれず、指は小刻みに揺れていた。
「でもさ……おまえも見ただろう? あまり考えたことがなかったけど、土雲の技って、凄いんだ。ただ居心地がいいからってだけでここにいたら、だめだって思っていたところで、わたしはまたうっかり一族の技を使って、これからも人を殺すかもしれない――」
震え声でつぶやいたセイレンに、藍十はすぐにこたえた。その声は大人びていて、温かい雨のようだった。
「――そうだな。誰かを傷つけるんじゃなくて、雄日子様や自分や、誰か大事な人を守るって思えばいいよ。すごく難しいけど、誰かを傷つけるのと大切に守るのって、背中あわせなんだよ」
「でも、わたしは土雲の戦い方しかできない。戦えば戦った分だけ、一族を裏切ることになる――」
「そうだなあ。でもさ、なら、裏切ってはだめだって決めたのは誰なんだよ。そこに生まれたからってだけで守らなくちゃいけない決まりがあるのはおかしいと、おれは思うよ。決まりを守るなら守るで、納得していないと――。それに、誰に対してもいいことをしようとするのは、無理だよ。なにかは裏切らなくちゃいけないものだよ?」
「でも、もし――」
「なら、おれが守ってやるよ」
「え?」
「おれが守ってやる。日鷹も、赤大もそういうよ。仲間だろ?」
「……」
もしも、もしも――。問いの、すべての答えを見つけた気がした。
「でも――」
「いいから。ここにいたいなら、おれがおまえを守ってやるよ。だから、セイレンがいいと思うまでここにいればいいし、自分と故郷と、ほかのなにか……わからないけど、おまえが一番と思うものがなにかわかるまで、迷えばいいよ。セイレンはおまえしかいないだろ? おまえがすることは、誰かにとっては間違いかもしれないことでも、おまえとしてはなにひとつ間違っていないから、安心しなって」
「―――う、」
わあああん。と、大きな声が出た。人って、こんなふうに泣けるんだと妙にしらけた目で見ている自分もいたし、それとはべつに、もっと泣け、もっと喚けと責め立てる自分もいた。
「どうしよう、藍十、どうしよう――」
しがみついて、泣きじゃくった。
セイレンの背中に手のひらを行き来させながら、藍十は子どもをあやすようにふざけた。
「どうもこうもしねえって。なんとかなるから、大丈夫だよ。よしよし」
身体中震わせて泣きじゃくっても、藍十は笑いながら「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。
「おれでもいいし、ほかの奴らでもいいし、好きなだけ頼れよ。ここにいる奴らはさ、けっこうみんな、一人じゃ抱え込みきれないことを抱えてるんだよ。わりに仲がいいんだけどさ、仲がいいのは、一人でいることに耐えきれないからだ。おまえだって、一人で抱え込まなくたっていいんだからさ――」
ひくりと喉が震えて、セイレンは悲鳴をあげたくなった。
藍十がいったのは、心のどこかで、ずっと欲しがっていた言葉だったからだ。
おまえは一人じゃないって、いってほしかった。
もういいよって、いってほしかった。
泣きじゃくるセイレンの背中を撫でながら、藍十は「よしよし」と繰り返す。それから、ぽつりといった。
「それにしても――雄日子様は本当に、容赦をなさらない方だよなあ――」
土雲媛の館に、ハルフが呼ばれたのは、内々のことだった。
暗くなり始めた山里の影にまぎれるようにして向かうと、御簾の中に招かれて、土雲媛と二人でさしむかう。
「急なお呼びとのことでしたが、いったいなにが――。そういえば、あなたはここ数日、神の土穴にこもっておられましたね。大地の神が、なにかお言葉をお伝えになったのでしょうか」
土雲媛は代々、館のそばにある洞窟、神の土穴で大地の神の声をきく。
ハルフは〈土雲の口〉を務めていて、土雲媛がきいた言葉を里者たちに伝える役目を負っていた。
普段は姿を見せない土雲媛から、秘すべき話をするように御簾の内側に呼ばれるのははじめてではなかったが、そばで見ると、土雲媛の顔があまりにも思いつめているふうだったので、すこし不安に思った。
「なにか、悪いことでも?」
尋ねると、土雲媛は肩で息をした。
「セイレンが……」
「セイレンが? あの娘が、どうかなさったのですか。セイレンがこの里を下りて、もうひと月になりますが――」
「ええ、ひと月。いずれそうなるとしても、何年かかかると思っていたのですが――思っていたよりずっと早くに、起きてしまいました」
「なにが、でしょうか」
ハルフは、慎重に土雲媛の顔を見つめた。
土雲媛の齢は五十に近づき、孫娘がすでに十五になっている。
肌には皺が寄り、もともと細い顔立ちは、齢を経て痩せてきている。もともと細い身体をしていたが、いまの土雲媛は数日前よりずっと痩せた印象があった。
「ご気分がすぐれないのですか。顔色も悪いように見えますが――」
「ええ、とても悪いのよ。寝てもいないし――」
土雲媛はうつむき、額に骨ばった指を添える。
「セイレンが――次の〈待っている山〉を見つけました」
「えっ、セイレンが?」
「あろうことか、〈箱〉を持った者が大地の神に来訪を告げる山開きの儀を、あの子はしてしまいました」
「ははあ、セイレンが――災いの子のくせに、役に立つこともあるのですね。その山の場所はわかるのですか。さっそく新たな使者を向かわせて、里を築く支度をせねば――」
「いいえ、できないのです」
「なぜです。早くはじめなければ、この山の
「いいえ、できません。まだ、できません」
「まだ? どうしてです、土雲媛」
ハルフは眉をひそめた。
土雲の一族は、山魚様と共に生きる。いま里がある〈待っている山〉は、三十年の時を経て山の穢れが清められ、土雲の一族の技を〈待っている〉山ではなくなりつつある。
もう十年近く前から、一族の中には、山を下りて次に里をつくる地を探している者がいる。〈待っている山〉を見つけるのは、一族の悲願だ。たとえその山を見つけたのが、災いの子、セイレンだとしても――。
「〈待っている山〉でセイレンを見つけた大地の神は、セイレンを石媛と勘違いなさったようなのです」
「石媛と?」
「ええ、私とともに神の土穴で祈りを捧げる石媛を、大地の神はよくご存じです。石媛とセイレンは、もとは双子の姉妹。大地の神は、石媛とセイレンのちがいがおわかりにならなかったのです」
「なんと――。大地の神が、そのような間違いをなさるものなのですか?」
ハルフは、首を傾げた。
土雲媛をはじめ、一族の者が祀り、祈りを捧げる大地の神が、いずれ土雲媛になる聖なる媛と災いの子の見分けがつかないなど――。
「私も、そのようなことは思ってもいませんでした。〈待っている山〉でなくとも、大地の神は、どこにでもお出ましになります。〈箱〉をたずさえていることは土雲の証。どこかでセイレンと出会ったときには、一族の誰かと見なしてくださると思ったのですが――」
「あの、どういう意味でしょうか――。セイレンが大地の神と出くわすのを、その、望んでいらっしゃったのですか?」
「ええ、そうすれば、石媛がおかした罪を、セイレンが代わりに晴らしてくれるのではないか、と――」
「石媛がおかした罪? それは、あの、宝珠を失くしたことをいっておられますか? でも、たしか、石媛は新しい宝珠を手に入れたんですよね? 大地の神にお願いして、新しい
「ええ。一族の裏切り者に盗まれてしまったとお伝えしたところ、大地の神はこころよく新しい
「高島の若王? ただ失くしたのではない、とは――」
「大地の神が、セイレンを一族の裏切り者、盗人として罰してくださればと思っていたのですが、まさか、こんなことになるとは――」
「一族の裏切り者として、セイレンに罰を? 高島の若王? ということは、まさか……」
ハルフがはっと息を飲む。土雲媛はうつむき、絞り出すような低い声で命じた。
「あの子は――石媛は、あの宝珠を失くしたわけではなく、あの日に出会った高島の若王に渡してしまったのです。土雲の一族以外の男にあの宝珠を渡すことは、きつく禁じられています。大地の神はお怒りになり、石媛を殺して捧げるようにと――。ハルフ、おまえに命じます。信頼できる男を呼んで、セイレンを探し、連れ戻すように命じてください。大地の神が石媛とセイレンの見分けがつかないのなら、石媛の代わりにセイレンを殺せば済むこと」
「ですが、土雲媛。いまやセイレンは、どこにいるのかもわからないのでしょう?」
「セイレンが見つけた〈待っている山〉の方角ならわかりますが――でも、とても遠い場所です。大地の神のお怒りが鎮まる前に、あの子が見つかるかどうか――。ですから、ハルフ――石媛を、捕らえさせてください」
「石媛を、捕らえる?」
「大地の神のお怒りが鎮まらなければ、土雲は滅びます。石媛を捧げる支度を、はじめておかなければいけません――」
.........2話に続く
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