荒神の試し (3)
「ちがう、この人はわたしの夫じゃないし、わたしは土雲媛でもない。――あなたは、大地の神様? 土雲媛が、神の土穴で声をきいてるっていう神様?」
土雲の一族の長、土雲媛の館のそばには、神の土穴と呼ばれる洞窟があって、一族の長、土雲媛は日に何度もそこに籠って、大地の神と対話をしているのだという。
そういうものがあるとはきいていたが、噂話でしか知らなかったし、実のところセイレンは、それを馬鹿にしていた。「神の声をきく」と偉そうにいっているけれど、どうせ、そんなたいそうなものはきこえないだろうし、きこえていたとしても、きっと気のせいだ、と。
地響きのような声は、満足そうに笑っていた。
三十年に一度の山開きの儀に、土雲の
我は嬉しい。嬉しいぞ――ん?
そこで、声色がかわる。軽やかな拍子を奏でていた太鼓の音が突然荒々しくなるように、穏やかな声は唸り声にかわった。
なんと――。おまえの夫には、なにかがついておるな。
高慢ちきの、あいつの足がここにおる。
土雲媛のくせに、おまえという奴は、
そのうえ、あいつを我のもとに
「もう、なにが起きてるの?」
泣き喚きたい気分だった。地響きのような声は、怒っていた。
去れ、天とまじわった裏切り者。
我はおまえを、我が稚媛、土雲媛とは認めん。
去れ、去れ!
いや……ここで、息がつまって死ぬがいい。
臓腑を腐らせて、風に散るがいい。
土に還ることもできずに、
どんどんと、大きな打音が鳴らされるような声――いや、
「わたしは石媛じゃない!」
咄嗟に叫んだのは、その言葉。声は、悔しそうに唸った。そして、唸りながら消えていった。
なぜだ。なぜ死なぬ。
おのれ、天とまじわった裏切り者――。
とても静かになった。そう思っていると、ぱしゃん――と、水音がきこえる。
見れば、桜色の湖から山魚様の姿が消えていた。きこえていたふしぎな声と一緒に湖の底に隠れたようで、水面のうねりはおさまり、山の頂きにある音は、虚空を吹き抜ける風の音だけになった。しん、と静かになっていた。
いったい、何が起きたのか。走ったりしたわけでもないのに、セイレンは息が切れていた。はあ……と、深呼吸をする。でも、すぐに我に返った。雄日子を探した。
「ねえ、いまの、どういうこと? あなたもきこえていた? あなた、やっぱり、石媛となにかがあった? いまの声は、わたしを石媛と勘違いしていたんだ。だって、わたしは土雲媛じゃないもの。ねえ、雄日子。雄日子?」
雄日子は、天高く上がった太陽のあたりを見上げていた。よく晴れていて、澄みきった青空が広がり、白い陽の光がさんさんと降っている。
「雄日子?」
日の光がセイレンの目にはまぶしくて、雄日子の顔がよく見えなかった。強い光を浴びては目がくらむだろうに、天を見上げる雄日子は目をあけていた。そのうえ、笑っていた。
まるで、天から射し込む光と会話をしているように見えた。雄日子に降り注ぐ光が、なにかを話しかけていて、雄日子がこたえているような――。あるとき、雄日子はうなずいた。
「はい。わかりました。あなたの御子として、この大地を平らにすると誓いましょう」
セイレンは、目を疑った。
「雄日子……誰と話してるの?」
雄日子はこたえなかった。まぶしいはずなのに、まばたきもせずに真上を見つめている。
さあっと光が山の頂きを撫でていき、すこし薄暗くなった。雲でもかかったかと空を見上げても、そこにあるのは、美しい青空だけ。雲はひとかけらもなかった。薄暗いと感じたのは、それまでがひときわ明るかったせいだと、ようやくわかった。
雄日子がセイレンを振り向いて、微笑んだ。その目と目が合ったが、目を合わせていると怖くなるほど、なにを想っているのかが読めない目だった。
まるで、木に炭で描いたような目。きれいだけれど、人や生きているものの気配がしない目――。そんなふうにも感じて、ぞくりと背中が寒くなる。
結局、雄日子はセイレンの問いに答えなかった。ゆっくりと腰をかがめていき、足元にうずくまった。地面に指先を伸ばして、何かを拾おうとしていた。
「どうしたの……」
雄日子の指が伸びた先――白い岩場の上に落ちていたものが目に入るなり、セイレンはぞっと背筋が凍った。そこにあったのは、円い形をした銀色のもの。セイレンにとっては見慣れたもの――山魚様のうろこだった。
「触るな、手がただれる――!」
土雲の一族にとって山魚様のうろこは、強い薬をつくるもと。強い薬のもとになるからには、削ったり、さまざまな手を加える前でも、さわれば肌がただれるし、粉がほんのすこし身体の中に入るだけで、喉が焼けることがある。
そんなものに触れてはいけないと、雄日子を突き飛ばしてしまおうと思った。
でも、雄日子の動きは落ち着いている。セイレンの悲鳴には目もくれず、指先でうろこをつまんでみせた。
立ちあがり、指につまんだうろこをひっくり返したり、陽の光を当ててわざときらめかせたりして、あらためている。
「――平気なの?」
雄日子の身体は、土雲の一族と同じになっている――。それには気づいていたが、こうも目の前で見せつけられると、眉をひそめたくなる。
雄日子は、くすっと微笑んだ。
「平気だ。前にいったろう? 僕の身体は、おまえの身体に似ているようだ」
「似ているって……! そのうろこは、土雲が使う薬のなかでも一番強い薬のもとになるもので、素手で触っていいのは、土雲のなかでも一握りなんだ。なのに、どうして――!」
「どうしてだろうな。僕もふしぎだ。それにしても――そこらじゅうに落ちているな。こんなにうろこを撒き散らすほど、魚の姿をしたあの山神はよく暴れるのだろうな」
よく見れば、ごつごつとした岩肌の地面は、そこかしこがきらきらと輝いている。
雄日子は、一歩を踏み出してしゃがみ、また一歩を踏み出してしゃがむ。落ちていたうろこを拾って集めているのだと気づくと、セイレンは怖くなった。
「雄日子……」
呼びかけても、雄日子は淡々とうろこを集めつづける。十枚ほど拾ったところで、胸の合わせから取り出した布に乗せて、包み、腰の小袋のなかにしまった。
「ねえ――それ、どうする気? 前もいったけど、それって普通の人はさわれないもので――」
「そうだな。僕のほかの者が知らずにさわらないように、気をつけないといけないな」
「そうじゃなくて――ねえ、そんなものをどうする気なの?」
「これは強い毒になるのだろう? だから、いただくのだ」
雄日子は笑顔を浮かべていたし、周りの景色は美しかった。
そこかしこに、落ちたうろこや桜色の池が跳ねかえした光が虹をつくっていて、雄日子の身を包む白い衣服も、白い肌も、麗しく飾っている。
でも、雄日子の立ち姿は、見ているセイレンにとっては、身体の芯が震えそうになるほど恐ろしく感じた。
魔物がいる、ここにいるのは、魔物だ――。
くらりと気が遠のきそうになった。
「あなたは、それを使ってどうする気なの?」
かすれ声で尋ねると、雄日子はふふっと笑った。
「戦に使う。おまえも知っているだろう? 僕には敵が多いからな」
「戦に?」
「これをおまえに渡せば、やってくれるのだろう?」
「え――?」
セイレンは、思わず笑顔になった。雄日子がいったいなんの話をしているのか、わからなくなった。
「僕は前に、この大地にあるもので一番強いものは、土雲が使う毒だときいたのだ。だから、僕は、土雲と一緒に戦いたいと思っていた。――さあ、帰ろうか。僕の足にあった呪いは解けたようだし、僕がここに連れてこられた理由もわかった。用は済んだ」
雄日子は、話を終わらせようとしていた。でも、セイレンのほうは――。頭のなかまで凍りついたようで、いろいろなことがよくわからなくなっていた。
「ちょっと待って、この大地にあるもので一番強いものが、土雲の毒? それで、あなたは土雲の里へいこうとしたの? ううん、ちょっと待って。じゃあ、あなたは――土雲の身体があなたたちより強いって、はじめから知っていた? 石媛の珠を飲み込んだのは、自分の身体を強くしたかったから?」
セイレンの目に映るものが、ゆっくりとぼやけていった。すっくと立って笑っている雄日子の笑顔も、凛とした立ち姿も、虹にいろどられた山頂の景色も、目に浮かんだ涙にさえぎられて潤んで見えていった。
「あなたは、石媛を騙したりした? 石媛にうまい話をして、宝珠をねだったりした?」
雄日子はくすっと笑った。
「なんの話だ? わからない」
はぐらかすような返事だった。
腹立たしかった。なぜだ、きちんと答えろと思ったが、はぐらかされてよかったとも思った。
ただ、とても悔しかった。信じようとしたものに裏切られた気分で――。雄日子だけでなく、石媛にもだ。
目に涙がたまっていって、熱くなった。
この人を守りたい。
この人を懸命に守る藍十や日鷹や、赤大や――。憧れる連中に、近づきたい。
それに、ここにいたい。
「ここにいてほしい」といわれる人になりたい。「消えろ」といわれるのではなく――。
土雲の里を下りて、雄日子の守り人になってから、セイレンは、それまで知らなかった想いをたくさん抱いた。
でも、いま。それが正しかったのか、そうでないのか、わからなくなった。すべて、ひっくり返ったと思った。
こんなことになるなら――あの湖で殺されておけばよかったのだ。
里から出ずに、災いの子として一生を終えればよかったのだ。なにも知らず、なにも感じないまま、ただ自分の生まれを恨んでおけば――。
なにが、「いまの暮らしのほうがまし」だ。なにが、「楽しい」だ。これまで必死にやってきたことが、とんでもなく馬鹿げたことに思えて――。
ぽろぽろと、セイレンの頬に涙が落ちた。手の甲で拭っても、涙は次から次へと零れ落ちてくる。
「向こうから下へおりられそうだ。いこう、セイレン」
雄日子は微笑んで、先だって崖のきわへ歩きはじめる。
雄日子の表情も、声も、仕草も、落ち着いていた。
かっとなって、セイレンは叫んだ。
「よくいうよ! ばかやろう! 自分が一番、『狸』って奴じゃないか!」
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