天の御柱、光の歩み (2)
苔蒸した岩の上にあぐらをかいた
正面の岩の上に置き、布包みを広げていくと、白い爪が現れる。その爪の先には赤黒く固まった血がついていた。
斯馬の低い声が、森の奥に響いた。
「天にまします賢き日の神、
喉から外に吐き出されていく息に魂を乗せて、言霊をつくる。一心不乱に祈っているうちに、しだいに、斯馬の目に見える光景は変わっていった。
じっと見つめていたのは血のついた爪だったが、いつのまにか、すべてがぐにゃりと歪んでいった。
岩も、森も、目の前にあったはずの景色はすべて見えなくなり、胸の前で合わせた自分の手も、あぐらをかいた足も、膝も、すべての存在が消える。
あったはずのものが見えなくなるだけでなく、なにも感じなくなる。額から落ちていく汗の感触や、手と手のあいだの湿り気や、頬や肩を撫でて通り過ぎていく風も――。
その感覚こそが、斯馬にとって、魂になって神の世まで出かけられていることの証だった。
感じるものが、血のついた爪と、闇と光だけになる。
彼方で、光がまたたいた。そして、血のついた爪がわずかに光をまとって、次の瞬間、パンと小さな音を立てて砕け散る。
姿を失った白い爪からは、光の色をした大きな両足が生まれた。それは、闇を蹴って、大きな跳躍で宙へと飛びあがり、闇と光が混じり合った世界を抜け出していく。
もう一度、彼方で光がまたたいた。
『望みをかなえた。もう帰りなさい』
その光が、神の言葉だと斯馬は解した。
それで、魂になって出かけた闇と光の世界から、もとの身体の中へ戻ろうとした。でも、魂はくっついていて動かない。幻の生き物の中に乗り移ったときのように、魂で刃をつくって切り離さなければ、その場所を離れることができなかった。
自分の魂を、呪いの
(神は、私の魂を受け取ってくださったのだ)
斯馬は、自由になる部分だけを残して魂を切り離し、その場所から戻ることにした。
気がつくと、目の前に見えるものが森の中の岩場の光景に戻っていた。
振り返ると、いまにも涙しそうに眉根をひそめる
「斯馬様、あなたの魂が減りました。あなたの寿命が、とても短くなりました」
そうか――と、斯馬はにこりと笑った。
「いいのだよ。柚袁。――神は、私の願いを聞き届けてくださった。大きな光の足が、
斯馬はさっそく立ちあがり、いった。
「柚袁、私たちもいこう。
同じ頃。セイレンは、不思議な香りを感じた。
正確にいうと、香りではなかった。人や獣、花、水、砂、風にいたるまで、どんなものにもなんらかの匂いはあるものだ。でも、セイレンが感じたのは、なんの匂いもないもの。
とても巨大で、背の高い樫の木よりずっと大きな塊なのに、もともとそこにあった森の匂いや土の匂いをおしのけて、ぐんぐんと近づいてくる。
「――なにかくる!」
セイレンは震えて、足を止めた。
「なにかって?」
「わかんない。なにかだ。人でも獣でもない。呪い? わからない。なに? 風? 化け物?」
最後のほうは、悲鳴のようになった。
三人がいたのは、糾の森の果てへと向かう森の中。もうすこしいけば、道幅が狭くなるという谷があるとか。
「来る!」
「どこだ」
藍十が剣を抜く。
セイレンは、
「狙いは雄日子だ。雄日子!」
やってくるのは、巨大な塊。
逃げられない。戦うこともできない。
セイレンにできたのは、せめて雄日子の盾になろうと、身を差し出すことだけ。
不気味な気配は、やがて、森の彼方、西の方角に姿を現した。
白い光の色をしていて、巨大な柱が二本立っているように見える。いや――光の色をした二本の柱は、人の足のように交互に前に出て、進んでいた。
まるで、天から射し込む光が、人の足の形を得て歩いているような――。
「なんだ、あれは――。呪いの類か? 去れ!」
剣を構えて、藍十は叫んだ。
藍十の声は森に響くのに、光の足の歩みはとても静かで、物音ひとつしない。森がざわめくこともなく、異様な気配に脅えた鳥が飛び立つこともなかった。
静かなくせに、光の歩みは速く、もう真上を見なければ見えないほど近づいている。
「セイレン、おれの後ろにいけ!」
「でも――」
「鉄の剣は呪いに強いって牙王がいってた。早くしろ!」
藍十は剣を斜めに構えていて、セイレンの腕を掴むと、ひきずるように自分の背後に匿ってしまう。
近づいてくる光の柱は、身構える三人の正面で止まり、片足を上げるような仕草で浮いていく。そして――踏みつぶすように、三人のもとへゆっくり下りてきた。
「きゃあ! 来るな!」
セイレンは雄日子の腕にしがみつき、藍十が剣を掲げて、二人の壁になろうと身をよじる。
三人でひとつの塊になるように、ぎゅっと身体を寄せ合った、そのとき。
真上から射す光に包まれた。きっと、踏まれたのだ。でも、大きな足に踏みつぶされた感覚も、痛みもない。
そのうえ、踏みつぶされたと脅えたときには、光の柱は、跡形もなく消えていた。
「消えた……?」
セイレンがこわごわと目を開いていくと、雄日子の腕や藍十の背中越しに、のどかな森の景色が見えている。
茫然として、セイレンは周囲を見渡した。
でも――次の瞬間。しがみついていた雄日子の腕が、ひゅんと飛びあがった。あっというまの出来事で、袖を掴んだ手に力を込めて押しとどめることもできなかった。
雄日子の身体はするりと浮き上がり、セイレンと藍十のそばを離れていく。
「雄日子!」
「僕を助けろ、藍十、セイレン」
雄日子はひとりで森の中を進んでいた。
足が地面についておらず、地上すれすれの高さを歩いている。歩き方はゆっくりしているのに、地表を吹く風の上を歩いているかのようで、一歩が大きい。一歩進むだけで、樫の木を五、六本は追い抜いているというありさまだ。
すぐに、追いかけた。藍十も、剣を鞘にしまって駆け出す。
「雄日子様、足は止まらないのですか、雄日子様!」
「みずからの意志で操れるものなら止まっている。足が光っていて、僕の意志とは関係なく歩いている。呪いかなにかだろう」
雄日子の足は、地表に浮いた見えない道を踏むように歩いている。歩みは決して早くないのに、とにかく一歩が大きいのだ。
「くそっ」
疾走しながら、藍十はセイレンを気にかけた。
「セイレン、平気か」
「平気だ。山道を走り慣れてるから、こんな森くらいわけないよ。藍十こそ、息が切れてきてるぞ?」
藍十は答えなかった。はっと顎を上げて、跳躍をさらに大きくして駆ける。
「まずい、この先は谷だ。雄日子様!」
「谷って――さっきいっていた、狙われやすい場所ってところ?」
藍十の背中を追って、セイレンも駆ける。
前のほうで、雄日子が振り返った。後ろを向く表情は、思いつめたふうだ。
「前に、崖がある。このままでは落ちる。早く僕を助けろ」
先をいく雄日子の目には、目の前に迫る崖が見えているのだろう。
藍十が、死に物狂いというふうに走り始める。
セイレンの目にも、すこし先に光に溢れた場所があるのが見えた。
「崖ってあそこか? 雄日子、危ない!」
雄日子の歩みは速くて、俊敏な鹿を追うように駆けてもなかなか追いつけない。
しだいに、目の前に光の壁が迫る。森が途切れる場所で、その先は虚空。雄日子がいうように、一歩踏み出せば落っこちてしまう崖だ。
「雄日子! ――間に合わない!」
駆けて、叫ぶ。視線の先で、雄日子の足が光の壁に差しかかった。森を抜けたのだ。
「雄日子様!」
藍十が血を吐くように叫んだ。しかし――。
雄日子を追い掛けるセイレンと藍十にも、崖の姿が見えるようになる。森が途絶えるので、ぽっかりとした隙間があり、光が溢れている。
雄日子は、その崖の向こう側を、すうっと風に乗るようにして滑り降りていた。
「浮いてる……」
もともと雄日子の足は、地についていなかった。
いまも、谷の内側で渦を巻く風の上を歩くようにして、虚空を歩み、ゆっくりと下りていく。
崖の高さは、男の背丈二人分ほど。どうにか飛び降りられる高さだ――。セイレンは、崖から飛び降りた。
すぐに、藍十も飛び降りてくる。
「セイレン、気をつけろ。敵がひそんでいたら狙われやすい場所だ」
「なら、まず雄日子を……!」
刺客、呪いの獣、軍――セイレンたちが戦ってきた相手の狙いはどれも、雄日子ただ一人なのだから。
再び駆けだした二人の前では、雄日子が、また見えない道を歩くようにして前へと進んでいく。
雄日子は、何度か後ろを振り返った。その目と目が合ったとき、セイレンは息をするのを忘れた。
雄日子の顔からは、崖を飛び降りる前の不安な表情が消えていた。それどころか、微笑んでいる。唇の端は上がっているけれど、目は鋭い。なにかをじっと見定めているような、不敵な笑みだった。
「あいつ、笑ってる……」
「――きっと、崖を無事に下りられたからだ。雄日子様の足には、間違いなく妙な呪いがかかっているが、その呪いは、雄日子様を傷つけたいわけじゃないんだろう。もしそうなら、崖から落とせば済んだんだから。――雄日子様は、足にかかった呪いの狙いが、ご自分の命ではないと気づいたんだ。だから、安心なさったんだ」
「だからって――あんな妙なのにいいようにされて、どうしてまともでいられるんだよ。普通、慌てて取り乱すだろ!」
「雄日子様は普通じゃないんだ。あの方は、いずれ大地を統べる大王になる方だから」
「そうなんだろうけれど――」
セイレンは呆れたが、たしかに敬服もした。藍十がいうとおり、雄日子は大した男で、自分の信念をやすやす曲げることはないのだ。
「たしかに、あの人は肝がすわってるよ、いっつも笑ってるもん。余裕そうに見えるもん」
「余裕なんだよ。いまも、ほら……あの方は楽しみ始めてるよ」
「楽しむって、はあ?」
「雄日子様の足にかかった呪いは、雄日子様をどこかに連れていきたいんだ。雄日子様は、どこに連れていかれるのかと、前のほうばかりを気にされている」
いわれてみれば――。雄日子は、あまり後ろを振り返らなくなった。風に乗るようにして進む街道の先を見つめて、行く手ばかりを気にしていた。
「たいしたもんだねえ――あ!」。
谷を越えた先の街道に、人が大勢いるのが見えた。人数はざっと数えて百人ほど。馬が数頭いて、馬につけられた馬具が、太陽の光をきらりと跳ね返している。
「敵か? ……ちがうな。
藍十は目を輝かせて、声を張り上げた。
「おおい! 赤大、おれだ! 雄日子様の足を止めてくれ。
味方だ。助かった――。
ほっとしつつも、セイレンは最後の力を振り絞って、さらに駆けた。
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