毒と蜂蜜 (1)
「よし、じゃあ、走ろうか」
稽古は、夜が明けてすぐに始まる。
鞍に腰かけ、つま先を鐙にかけたまま、馬の腹をちょんと蹴る。それは「進め」の合図だ。
手綱を操れば、思ったとおりの向きに走ってくれる。
でも、決まった合図のほかにも、いろいろな合図があることをセイレンは覚えはじめていた。
そのひとつが、ちゃんと名前を呼ぶこと。そして、話しかけること。
「あの切り株を越えられる? 跳んで、
野営にした野原の端に、切り株が並んでいる場所があった。
疾風という名の馬は、地面につもった落ち葉を蹄で砕きながら力強く駆け、「跳んで」とセイレンがいった切り株も、かるがる飛び越えてみせた。
「うまい、うまい。おまえは利口だな」
たてがみを撫でてやると、疾風は気持ちよさそうに首を動かす。
疾風が足を止めると、離れた場所から近づいてくる男がいた。藍十だ。
「毎日、がんばるなあ。セイレン、そろそろメシだぞ」
「ああ、藍十! 見てた? いま、この切り株を跳んだよ!」
「見てたよ。うまくなったもんだな。
疾風はもともと藍十の馬だが、稽古のために借りているのだ。
セイレンは笑い返した。
「そんなことないよ。この子は賢いから、わたしに合わせてくれてるんだ。優しいんだ。なあ、疾風」
「――セイレンって、そんなに優しい顔で笑うんだな」
藍十は腕組みをして、ぷっと吹き出した。
「きっとおまえは、動物が好きなんだな。なにか飼ってたりしたのか? 鳥とか、狐とか――」
「ううん、飼ってないよ。飼いたいって考えたこともなかったけど――」
「じゃあ、疾風と特別馬が合ってるのかな。――よう、疾風。おはよう」
疾風が甘えるように額を向けていくのを、藍十は慣れた手つきで撫でている。
その手を、じとーっと見た。
「仲良くなれたと思ったけど、やっぱり疾風は、わたしよりも、藍十のほうが好きなんだろうなあ……」
「なんだ、妬いてるのか?」
「妬いてるって?」
「知らないの?」
藍十は驚いたふうに笑った。
「妬いてるっていうのは、嫉妬ともいって、自分の大事な相手が、自分じゃない誰か別の相手と仲良くした時に悔しくなること、かな。いまでいえば、セイレンが、疾風とおれの仲がいいのを悔しがって、妬いてるっていう感じ?」
「――ふうん。たしかに、そうかも。悔しいもん。へえ、こういうのが嫉妬? へえ……」
「そんなに真面目にうなずいて――おまえは草や薬のことはめちゃくちゃ詳しいけど、へんなところで世間知らずだよなあ」
藍十はけらけら笑って、セイレンの手をとって、疾風の額の端あたりに触れさせた。
「ほら、ここ。疾風は、額を撫でられるのが好きなんだ。もっとこいつと仲良くなって、次はおれを嫉妬させろよ。――ん? あれは……」
藍十の目がセイレンを離れて、遠くを向いた。
そこには野営にした山間の小さな野原があり、百人の武人が急仕立ての
竈に乗った鍋からは白い湯気が上がり、炊き上げられた粥の甘い香りが、朝の森の風にふんわり漂っていた。
その湯気の向こうに、布張りの丸い館が建っている。
緑の野に映える白の天幕は、二つ。
ひとつは
雄日子が使っている天幕のほうに、見かけない格好をした爺が近づいていた。
爺は背が低く、身体も細くて、逞しい身体つきをする武人ばかりの野営では目立っていて、爺の後ろには、背の高い若者もひとりついている。
「誰だ? 角鹿様も
はじめこそ藍十の顔つきは険しかったが、しだいに表情のこわばりはとけていく。
でも、守り人としての務めをまっとうすることは忘れなかった。
「馬術の稽古は終わりだ。様子を見にいこう、セイレン」
近づいていくと、ちょうど話がひと段落したのか、その爺は雄日子の天幕の前から離れるところだった。
爺に案内されるように、雄日子がその後ろをついていく。
二人は連れ立って野を横切ろうとしていたが、その後には角鹿と赤大が続き、さらに
藍十も、日鷹の真横に歩み寄って肩を並べた。
無言の合図のあとで、日鷹は藍十の耳元で囁いた。
「あの爺さんは、この近くにある山里の長だそうだ。俺たちがここで休んでいるのを見つけて、挨拶に来たんだとよ。この先の道を教えるっていうんで、崖ぎわに向かっているところだ。そこから、
「ふうん――」
先に歩きはじめた爺と雄日子は、もう崖際に辿りついている。二人で並んで立ち止まり、眼下に見える景色を指さしながら話を続けていた。
日鷹と藍十の後について、セイレンが近づいた時、二人は川の話をしていた。
「これからお行きになるのは、難波でしたっけ――」
「ああ、そうだ。難波へは、
「ああ、それなら――あの川ですよ」
爺の細い指がさす先に、一面が緑に染まった平原がある。
平原には、滔々と流れる大河があって、そこから枝分かれをした小さな川がたくさん見えた。
「あそこに見える川の名は、高野川ともうします。難波の港は、その川を下っていった先にございます。高野川は大地に降った雨を集めて、川をくだるにつれて大きくなりますが、途中にある大きな池を経て、さらに川幅が広くなったあたりに、難波へ向かう船の湊があるときいたことがあります。たしか、
「秦王――その男なら、知っている」
「雄日子様、そろそろ――。支度を急げば、今夕には
二人の後ろから、角鹿が進み出た。暗に、話を切り上げろとの催促だ。
「わかった」
雄日子が背後を振り返ると、隣にいた山里の爺はにこりと笑ってうなずいた。
「賀茂ですか。それなら、お早めに出たほうがよろしいでしょう」
「みな、列へ戻れ。進むぞ」
叱りつけるような赤大の声を機に、座ったり、寝転んだりして、朝餉の後の休息をとっていた武人たちがぞろぞろと立ち上がり、列をつくりはじめる。
百人の列の中で、セイレンの居場所は、藍十の隣。疾風の手綱をもって、そばに立った。
旅が始まってから、十五日が経っている。
そのあいだに見知りになった武人が集まってきて、列が整うと、一行は山道を進み始める。
歩き始めてから前方を覗いて、セイレンは藍十に話しかけた。
「角鹿と赤大がぴりぴりしてるね」
「そりゃ、もうすぐ
「? どうしてだよ。目的地に近づいてるんだろ。いいことじゃないのか」
「それは、おまえ――敵が増えるからだよ」
「敵?」
「ああ。さっきの爺さんだって、道案内をするふりをして雄日子様の様子を窺いにきた敵かもしれないし――」
「さっきのお爺さんが?」
「たとえばだ。信用ならないやつは、全部疑うんだ」
「信用……ふうん――」
そのとき、前のほうから呼び声がした。雄日子の声だった。
「セイレン。来い」
雄日子はセイレンと藍十より五人ほど前にいて、金色の鞍をつけた馬の上にいる。
「なんだろう――」
手綱を藍十の手に預けると、人をかきわけて早足になり、雄日子がまたがる馬のそばへ向かった。
セイレンが足元にくると、雄日子は目を細めて笑って、手綱から手を放す。
そして、その手を目の前に差し出した。手の上には、丸まった笹の葉が乗っていた。
「これをおまえにやろう。さっきいた爺が僕にくれたのだが、おまえはこれを、まだ食べたことがないのではないかと思ったのだ」
「食べるって、この笹の葉を?」
「笹の葉は包みだ。笹は、草のつるでくくられているだろう? つるをほどいたら、中に菓子が入っている。僕が好きな菓子だ。食べてみろ」
差し出された両の手の上に笹の葉の包みを乗せると、雄日子は「ほら、つるがあるだろう?」と笑ってみせる。その笑顔を、しげしげと見上げた。
「ありがとう――」
「ああ。では、持ち場に戻れ」
「うん――」
菓子というものをつぶさないようにと、手のひらを丸めてもとの場所へ戻った。
後ろから雄日子とのやり取りを見ていたのか、藍十はさっそくセイレンの手の中を覗き込んできた。
「なにをもらったんだ?」
「菓子だって」
「つるをほどいてみろよ。なんだろう」
「うん――」
いわれるがままに、草のつるの端を指先でつまむ。蝶の形に結われたつるはするりと解けて、両の端が折られた笹の葉が広がっていくと、中には、干した杏の実のようなものがあった。
干してあればしわしわになるはずなのに、その実は水をまとっているようで、太陽の日射しを浴びて瑞々しく輝いている。
手のひらの上の菓子を見下ろしてぽかんとするセイレンに、藍十は笑った。
「これ、あれじゃねえか。柿の蜜がけ……」
「知ってるのか?」
「ああ。干し柿に蜂蜜をまぶした菓子で、めちゃくちゃうまいよ。いいなあ」
「ふうん――」
「食ってみろよ。早くしないととられるぞ。おれに」
冗談まじりにせかされるので、セイレンはその菓子に指を伸ばしてみた。
指でつまむと、とろりとした蜜が肌にからみついてくる。蜜がついた指先ごと口の中にぱくりと入れると、妙なことに、胸がずんと震えるようなふしぎな味がした。
「うまいか? うまいだろう、セイレン」
「うん、おいしい――」
正直なところ、その菓子がうまいのか、そうでないのかは、よくわからなかった。
はじめて口にした味だったし、いったいなにを口に入れたのかもわからなかったので、不安もあった。ただ、妙に胸がむずがゆくなり、地に足がつかないような、ふわふわとした心地になった。
藍十に「よかったな」と笑われるのもふしぎな気分だったし、前のほうに目を戻すと、雄日子の後ろ姿が見えているのもへんな気分だった。
「こんな極上品をあっさりくれるなんて、雄日子様は本当にいい主だなあ。渡す相手をセイレンにしたのも、なんか、心遣いを感じるよね。ほら、みんなの目が、おまえを羨ましがってる――」
藍十が耳打ちしてくるので、周りを見回してみる。
山代の野へ下る坂道を進む武人の群れは、勇ましい足音を立てていた。
武人たちは隣り合った相手と話したり、まっすぐ前を向いていたりとさまざまだったが、セイレンが雄日子に呼ばれてからというもの、ちらちらとセイレンを気にする目は、たしかに増えていた。
「ほら――。雄日子様がセイレンを特別に扱うから、みんながセイレンを一目置いてるんだ。そうやって、雄日子様はセイレンを守ろうとしてるんだろうな」
「わたしを、守る?」
「だって、これまでに一度でも、ここにいるやつらからなにかされたことがあるか? ――まあ、はじめにやったっていう手合わせの武勇伝も広まってるだろうし、守り人相手に絡んでくるやつは、もとからいないっちゃいないだろうけど――」
「……それって、今朝いっていた嫉妬みたいなもの?」
「似てるけど、ちがうかなあ」
「――ふうん、わからないけど。まあ、雄日子はいいやつだよな」
思ったままの言葉をぽつりと口にするなり、まずいことをいってしまったと唇を閉ざした。
「だから、雄日子様、だ。そういえば、雄日子様がじきじきにセイレンは特別だからって許していたんだっけ? 知ってはいるけど、なんか耳が慣れないんだよなあ――」
藍十はぶつぶつといったが、その声は、ほとんどセイレンの耳に入ってこなかった。
「藍十、おかしい。頭が朦朧とするんだけど……」
「はあ? なんの話だよ」
「前に、鼻が効かなくなったときと似てるんだ。今度は頭がぼんやりする感じで――なあ、もしかして、出雲の邪術師にかけられた呪いが、まだわたしに残ってるのかな」
「なにをいってんだよ。雄日子様に解いてもらったって、セイレンが自分でいっただろ? それで、雄日子様のことが好きになったって――」
「わかったよ、もういい」
ふいっと横を向き、話を切り上げる。
「きいたくせに」
藍十はたしなめたが、あいかわらず頭のなかは朦朧としているし、やたらと気が焦っていくしで、藍十の声はやっぱり耳に入ってこなかった。
(どうしてだろう。雄日子がいいやつだとか、二度といいたくない。すごく怖い。――胸が、どきどきする)
とんでもない間違いをおかしている気がするような、むしょうにいらいらとするような――。
「なあ、藍十。雄日子って、いいやつだと思う?」
「なんだよ、突然」
「わたしは雄日子が好きになった。いいやつは、いいやつだよ。でも、なにか、腑に落ちないっていうか――優しそうに見えても、結局優しくないっていうか……」
独り言を続けるように、首を傾げた。
「珍しいお菓子をくれるし、雄日子と呼ばせてくれと頼んだら聞き入れてくれるし、邪術を解いてくれって頼んだら話を聞いてくれたし、なんだかんだと、雄日子には世話を焼いてもらっているし、助けられているんだ。でも、でもさ……そうだよ」
はっと顔を上げて、藍十の顔を見上げた。
「でも、もとをただせば、全部あいつのせいなんだよね? 呪いを解いてくれたのはあいつだけど、その呪いをかけさせたのもあいつだ。――そもそも、守り人になれっていわれて山を下りることになったのも、もとはあいつが、土雲の山里に訪れて、石媛に助けられたのを覚えていたからだ」
藍十は「しっ」といって、呆れた。
「こんな場所で、おまえはいったいなにを話してるんだ。ここにいるやつらに、おまえの身の上話をきかせたいのかよ」
「え?」
ぽかんと唇を開けるセイレンに、藍十はため息をついた。
「そういう込み入った話をするなら、場所を選べっていったんだ。――周りを見ろ。もともとおまえは、さっきから目立ってるっつうのに」
藍十にいわれて左右を見てみると、列をつくって同じように進む武人たちの視線を感じた。
目が合わなくても、注意が向いているのがわかる。たまたま近くに並ぶ男たちは、セイレンの声に耳をそばだてていた。
「ごめん――」
「さっき尋ねられたことの答えだけど――おれは、雄日子様はいい方だと思う。命を賭けてお守りするのにふさわしい、素晴らしい主だ。あと、もうひとつ。雄日子様が優しいか、優しくないかは、おれにはわからないし、考えたこともない。でも、雄日子様のように大勢の上に立つお方は、優しい男である必要がないと思う。だから、おれは、優しかろうが、そうでなかろうが気にしない。――これでいいか? これ以上は、人がいないところか、自分の頭の中だけで悩め」
藍十のいい方は、部下の過ちを咎めるようで、厳しかった。
いつも明るくふるまっている男から咎められるのは、いつも怒っている相手から叱られるのよりよっぽど胸に響く。
「――ごめん」
しょんぼりとうつむくと、藍十の手のひらがセイレンの肩をぽんと叩いた。態度は、いつもどおりに戻っていた。
「急にどうしたんだよ。もしかして、さっきの菓子が口に合わなかったのか?」
「ううん。おいしかったよ。ただ――」
続きをいおうとして、黙った。
「いいんだ。わたしがすこしいらいらしたんだ。――わたしはいまの暮らしが気に入ってるし、守り人になったからには、しっかり雄日子を守りたいと思う。ただ、ちょっと腑に落ちないことが……ううん、なんでもない。妙なことをいって悪かった」
「セイレン――」
藍十は、なにかを話したそうに口をひらいた。でも、列を為して歩く仲間を横目でちらりと見ると、口をつぐんだ。
「いいや。また今度話そう」
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