4.そこは煉獄
翌日――日曜日。
良香は日曜日らしく惰眠を貪るつもりでいたが、何故か目が覚めてしまったので起きることにした。
全寮制の神楽巫術学院での生活は概ね規則正しい。
一応、消灯時間が設定されていないなど自由なように見える配慮はなされているが、そもそもこの学院で学ぶ生徒は幼少の頃から
(腐ったミカンはなんとやらの反対バージョンかなぁ~……)
なんて思いつつ、良香はベッドからのそのそと起き出す。
そして、昨日のことを思い出して頬が緩んだ。口では『あー騙されたー』とか『気付かなかったー悔しいー』なんて言っていた良香だったが、そんなものは――あの場の全員が気付いていた通り――一〇〇%照れ隠しである。むしろ嬉しくて嬉しくて仕方がないので、あれから良香は折に触れて花見のことを思い出してはニヤニヤしているのだった。
(……おっと……)
で、そんな風にニヤニヤしているのを見た彩乃に昨晩からかわれまくったのが昨日のハイライトである。危なくその焼き直しになりそうだったことに気付いた良香は、慌てて表情を取り繕った。
そして、そこで気付いた。
(あれ? 彩乃まだ起きてないのかな?)
ここ数日、彩乃は良香が起きる頃には既に起きて、顔を洗ったり歯を磨いたりといった身嗜みをしていた。むしろ良香はその時に聞こえる洗面所からの水音で起きていたような節もあるくらいだ。だが、今日に限ってはそれがない。
(まあ日曜日くらい、彩乃もゆっくり寝るのかね。研究者だったらしいし生活リズムが多少変でも不思議じゃねー、か)
だが、一方で思うところもある。
(…………そういえばアイツ、こないだオレの寝顔を見て『寝顔を見ると安らかで可愛くてまさしく女の子といった感じだな』なんて言ってからかいやがったな)
多分彩乃としては一切の悪気はなく、ただただ事実を言っている――というか、多分眠りの安らかさに感心している――のだが、良香としては恥辱、恥辱である。寝顔を見られるのも恥ずかしいのに、しかも可愛いとか女の子とか、そういうのはもう受け止められる恥ずかしさをオーバーしてしまっている。
(よし、此処は一つオレもアイツの寝顔を見てからかってやる……)
とはいえ彩乃も『お前の寝顔可愛いね』とか言われたところで恥ずかしがるタイプとは思えないのだが、良香としてはそんなことはどうでもよく、とにかくやられたことをやり返したい気持ちしかなかったのだった。
(さあ~て、それじゃ彩乃さんの寝顔拝見しま――――)
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら、良香は彩乃の布団を捲ろうと近づき、
(…………あれ?)
そこで気付いた。布団のふくらみがない。
というか、彩乃がいない。
「………………彩乃?」
きょとんとしながら、声に出して名前を呼ぶが――しかし返事は帰って来ない。あたりを見渡してみるも、当然ながら彩乃の影らしきものは見られない。
というか、そもそも彩乃と良香の起きる時間は大体同じだ。良香はいつも通りの時間に目覚めたし、それなら彩乃がいないというのは考えられないのだが…………。
「……食堂か?」
何故か胸に去来する違和感に嫌な予感をおぼえつつ、良香は身支度を始める。
「…………外は曇りか…………嫌な天気だな」
*
結論から言うと、彩乃は食堂にもいなかった。
先に食堂でテーブルについていたエルレシアと志希、そして後から合流してきた才加にも聞いてみたが、彩乃は見なかったとのことだった。こうなってくると、良香としてはいよいよ胸騒ぎが大きくなってくる。
「……そんなに心配しなくても、先生に呼ばれてるとかなんじゃないの?」
「オレが起きる前の早い時間にか? 緊急って扱いの昨日の呼び出しだってもうちょっと遅かったぞ」
「……………………確かに、少し妙ではありますわね」
あまり大事に思っていない才加とは対照的に、エルレシアは顎にその細い指を当てて考え込むようにして言った。
「彩乃さんの性格上、何かを隠すことはしても、誰かに気付かれるように隠すことはしないはずですわ。その彼女が良香さんにあっさり気付かれるような不審な行動をとっているというのは、腑に落ちませんわね……」
「エルレシア、それオレのこと馬鹿にしてるのか?」
「……釧灘様が何か深刻な事実を隠して動いている、と?」
「可能性の話ですわ」
エルレシアは良香のツッコミを完璧にスルーした上で、あくまで冷静に言って、
「彩乃さんの
「…………? エルレシアも感知ができるのか?」
「……あのサバイバル演習を思い出してくださいまし。『感知』ができないのであればわたくしはどうやって貴女達と会敵できたのですか?」
「ぐ、偶然だと思ってた……」
良香の至極当然な発想に、エルレシアは思わず溜息を吐く。
「…………呆れましたわ。このエルレシア=エインズワースが偶然などという不確定なものに身を任せるはずがないでしょう? あらかじめ貴女達の
「ま、まあ、つまり彩乃のことは感知できるんだな?」
「勿論ですわ。見ていなさい」
そう言って、エルレシアは目を瞑る。エルレシアの感知半径はおおよそ五〇〇メートル。つまり直径一キロ内の
学院島は流石に収まり切らないが、それでも学院の校舎近くにいるかどうかは把握することができるし、仮にいないのであればこんな朝早くから誰にも言わず学院から出ているということになり、明らかに不自然だ。
もしそうであれば、すぐにでも出かける用意をしなければ――と良香は考えていたが、
「…………はぁ」
そんな思考を断ち切るように、エルレシアが物憂げな溜息を吐いた。
「……どうした? 何か分かったか?」
「ええ。分かりましたわ。……彩乃さん、学院から出ていますわね」
「っ!」
「…………!」
「え、マジで!?」
エルレシアの報告に、三者が三様の驚きを示す。特に大きな反応を示したのは、良香だった。
「……良香さん、どこに行くつもりですの?」
「決まってるだろ、彩乃のとこだよ。……まだ終わってなかったんだ、多分。あの連中、『
良香は、一昨日の事件を思い返す。あの時、ヤツらは確かに『本来の目的は釧灘彩乃』と言っていたのだ。目的。銀行強盗で得られるチャチな現金なんてものはただの枝葉末節で、本当はその向かいにいる彩乃こそが彼らの求めていたモノなのだと。
今、その彩乃が学院から出てどこかに行ってしまっている。それも、良香に何も言わずに。
「良香さん」
焦れたように席を立った良香を諌めるように、否、叱るようにエルレシアは厳然として言う。
「……仮に貴女が出たとして、彩乃さんの居場所に見当はついているのですか? 当然ながら学院外での巫術行使はタブーでしてよ。今回の場合は彩乃さんと敵との交戦を独自に察知したということで不問にできる範囲でしょうが……それでも手間取って教師陣に勘付かれれば、そちらから妨害を受ける可能性がありますわ」
「…………教師から妨害? 何でだよ、むしろ皆が気付いて彩乃を助けるのが普通だろ?」
「いえ。何故なら、おそらく今回の彩乃さんの単独行動は独断ではなく、学院からの依頼を受けてのものだからですわ。彩乃さんが一人で受けた依頼に学生が乗り込もうとすれば、教師としては止めざるを得ないでしょう」
「!!」
エルレシアの言葉に、三人は思わず息を呑んだ。
「お嬢、それってもしかして…………」
「……ええ。わたくしは、彩乃さんは本来学生の身分ではないだろうと――存在が伏せられた
「………………、」
「おそらく、良香さんが巫術師の才能に適合した際たまたま居合わせたか、あるいは適合した良香さんの世話役に宛がわれたか…………そんなところでしょう。どうです良香さん? わたくしの推測は合っていますか?」
「…………、ち、違うぜ。全然違げー」
「そうですか、それは何より」
一応形式上は否定してみせた良香だったが、全てがエルレシアに圧倒されていた。他の二人も、エルレシアの言葉を信じているだろう。
――彩乃がプロならば、わざわざ自分達が危険を冒してまで助けに向かう必要はないだろう。
三人はそう考えているのかもしれない。普通に考えれば確かにそうだ。まして彩乃は彼女達からしてみれば『プロなのに学生の中に混じっている異物』だ。隔意の類も、あったっておかしくはない。
……だが、もしもまだ『
その上『何かに追われて目の前の敵に集中していない』状態でもない相手とやり合えば、いくら彩乃でもどうなるかは分からない。
しかし、それを実感として知っているのは良香だけである。この三人の印象の中の彩乃の力量は、あくまでサバイバル演習の時の強く賢く冷静な姿で構成されている。いくら訴えたところで通じるとは到底、
「――では、具体的にどう動くか、ですが」
「今日は幸いにも天気が悪く雨が降っていますし、学院側の感知も鈍っているのでは?」
「じゃースタミナ∞のあたしが皆を運んで、その先々でお嬢が感知してくってのはどう?」
と。
そんな良香の最悪の想像を、三人は軽々と蹴り飛ばして先へと思考を進めていく。
「悪くないですが、虱潰しではリスキーすぎますわね。発見した時には既に手遅れという可能性も否めませんし。何かしらの推理をして居場所の見当をつけたいところですが…………」
「そもそも彩乃狙いってことは、下手人は学院島に向かってるはずよね」
「……いかにこの雨で
「…………お前達……いだっ!」
思わず呆然とした良香の額を突いて、才加は言う。
「アイツがどれだけ強かろうと、そんなことは関係ないわ。それを一番知ってるあんたが不安がってる。あたしらが動くにはそれで十分よ」
「それに、先程良香さんが言っていた言葉――目的は彩乃さんというのも気になります。同じくプロレベルのわたくしが行っておいて損はないですわ」
「仮に私達が行かずとも、端境様は一人ででも向かうのでしょう。それなら、私達もついて行った方が最終的な安全度は向上します」
三者三様、それぞれの理屈を用意してはいたが、彼女達の目は一様に同じことを語っていた。『心配なのは、私達も同じだ』と。
「…………すまん。ありがとう」
一人だけ秘密を共有していた良香は、いつしか彩乃との関係を『自分だけ』のものと思うようになっていたのかもしれない。だが、違った。昨日の桜の花見は彩乃のことも考えて計画されていたのだから。
良香は改めて席を立ち、そして食堂の窓から外を見る。
外は相変わらずの曇天で、今にも雨が降りそうな最悪の天気だ――が。
「案外、悪くない天気に見えてきたぜ」
*
「結局、だ」
ヒールの甲高い靴音がそこに響き渡った。
黒い衣装に身を包んだ彼女は、聞いたものが凍てつくような冷たい声色で、相対する彼らに言葉の刃を突きつけていく。それは、死刑宣告のような響きすら含んでいた。
「お前達の目的は――――最初から私だったんだろう?」
彼女の端正な顔が、笑みの形に歪む。だが、それは喜びから生まれる質のものではなかった。相手を蔑み、嘲る者特有の醜い笑み――嘲笑だ。
「何故知っているのかという顔をしているな。資料は読ませてもらったよ。八割はくだらない情報だったが……学院への襲撃計画まで外様である強盗団に漏らしていたのは迂闊すぎたな。知り合って日の浅い者に秘密を教えるのは『義に篤い』とは言わない…………それは『不用心』と言うんだ。だから今こうして、準備に気を張っている隙を突かれて私に襲われている」
彼らは――――黒いインナーの上にノースリーブのクリーム色のジャケットを着た男達の集団は、そんな彼女の姿を認めて苦々しい表情を浮かべ、呟く。
「……………………釧灘、彩乃………………!!」
その名を呼ばれた彼女は――釧灘彩乃は、肯定の意を表す代わりにさらに笑みを凄絶なものにした。
しかしその姿は、良香が見慣れた少女のものとは少し違う。良香よりも少し高い程度だった身長はさらに伸び――そして体のプロポーションも全体的に大人らしくなっている。学院に潜入する為の仮の姿ではない、彼女本来の姿だ。
「…………別に我々が漏らした訳ではない」
男達の集団――――いや、『
「あの日……貴様を捕えようとした我々の尖兵は『謎の失敗』を遂げ、行方をくらませた……。それに焦りを募らせた構成員の何人かが封印していた
あの強盗団と手を組んでいた『
そして、『本隊』はそんな裏事情を知らない。だから単純に強盗団が使っていたセーフハウスに自分達の情報を漏らした資料があったなどとは思わず、こうして襲撃計画を実行し――そして彩乃に先回りされたのだ。
「どちらにしても同じことだ。こうして襲撃計画を私に知られている。そもそも造反者という『別組織』の人間に情報が漏れている時点で計画を練り直そうとは思わなかったのか?」
「…………」
「フフフ…………どうやら迂闊さではどっこいどっこいらしいな」
嘲って言う彩乃に対し、リーダー格の男は何も言わない。それを見た彩乃は代わりにパチンと指を鳴らし、
「ただ、妖魔の使い方は少しマシになっているようだ」
空気を巻き上げるように、彼女の周囲に炎が燃え盛り、同時に地面から飛び出して来たアメーバ様の妖魔――
威力の桁が、違っていた。
昨日の朝、理事長は彩乃にこう言っていた。子供に戻って出力が少なくなっている状態でよくやった、と。
――それはつまり、大人の状態の彩乃は子供の状態よりも高い出力を誇っていることを意味する。
「あるいはこう考えたのか? 『この情報に釣られて自分達との交戦経験が多い釧灘彩乃が襲撃役に選ばれてくれればわざわざ学院に乗り込まずとも獲物を捕まえるチャンスに恵まれる』と」
「――分かっているじゃないか、
今度は、リーダー格の男が彩乃を嘲った。彩乃は嘆息して、あの日良香には言わなかった資料の一節を思い返して読み上げていく。
「『我々の操る妖魔、
現体制の崩壊――――彼らの目的はそれだけでは終わらなかった。
「『何故なら、外付で
「………………だから、貴様の身柄を捕えて研究するんだよ。巫術師の才能を消し去る方法をな」
その先を引き継いで、リーダー格の男が言った。
「貴様の
つまりは、そういうこと。
あの日、良香が襲われたのも。
あの日、服屋の近くで銀行強盗が起こったのも。
すべては、彩乃を狙って行われた。
彩乃が、巻き込んだのだ。
良香に保護者ヅラをしていたが、結局は彼女が全ての元凶だった。
そのせいで、とある少年の人生を永久に歪めてしまった。
その未来を、
彼女は、そんな人生がどれほど最悪か身を以て知っていたはずなのに。
だからこれは、彼女が始末をつけなくてはいけない咎なのだ。
…………こんなことで罪が償えるとは、毛ほども思っていないけれど。
「我々を『成れの果て』だと思ったら大間違いだぞ、釧灘彩乃! 妖魔の誘惑など強い意志を持っていれば容易にねじ伏せられる! 貴様は自ら捕まりに来た、」
「ああもう、そういうのは良い」
コキリ、と。
何かのギアを切り替えるような音が聞こえた。
それは、彩乃が自らの肩に手をやって、骨を鳴らした音だった。あるいはそれが、彼女にとっては何かの儀式のようなものなのかもしれない。
意識を明確に変化させる為の、スイッチ。
仮にも人の形を保てる者を明確に『殺す』という意思表示。
「悪いが、私は実は頭を使った戦闘というのがあまり得意ではなくてね」
その彼女の右手に、炎の球が生まれる。
しかし、現象はそれだけでは終わらない。炎の球はどんどんと暴力的に跳ね回り、まるで太陽の表面から放たれる
詠唱を行わない代わりに、彼女はゆっくりゆっくりと、時間をかけてそれを『育てて』いく。それが『本隊』の精神をより甚振れると知っているから。
「何故って、これをやってしまえば頭なんか使わなくても大抵の敵は殲滅できてしまうからな」
「き、さま…………」
炎は既に彩乃の身体ほどもあったが、それでもまるで暴走かと見まがうような炎の奔流は止まらない。
じりじりと、熱気が『本隊』の面々の皮膚を焼く。
絶望的だった。
地面を同化させて穴を掘ることで逃亡する? 無理だ。最大容量まで体積を増加させた
相手にバレないように地中に分身を隠し、この場をやり切る? 無理だ。そもそもあの炎を浴びて地面が無事である保証がない。地中に隠れたところで地面ごと熱されて消滅するのがオチだ。
相手の炎が完成しないうちに襲い掛かる? 無理だ。彩乃はこちらを甚振る為にあえて成長を遅らせているにすぎない。こちらが痺れを切らした瞬間、嬉々として魔法を完成させてカウンターを叩き込むに違いない。
無理だ。無理だ。無理だ無理だ。無理だ無理だ無理だ無理だむりだむりだむりだむりだむりだむりだむりだむりだむりだ、
…………いや、ひょっとしたら、全員で寄り集まれば生き延びることができるかも、
「それに、仕留め損なっても、何度でも死ぬまで同じことをやれば良いのだし」
「う、おお、おおおォォォおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
――――その一言で、『本隊』の精神は限界を迎えた。
炎が三メートルにもなったところで、時が止まっていたかのように静止していた『本隊』の面々は全員が妖魔化する。妖魔の扱いがきちんと出来ていれば余剰分の体積は『圧縮』しておけるのか、彼らは何かを吸い取った訳でもないのに大型トラックくらいの体積を獲得する。
が。
「ただ問題が一つあってな。これをやると周囲の被害がデカすぎる、まあ、それもお前達が今は通信基地くらいにしか使われていない『中継の小島』に潜伏してくれていたお蔭で気にせずやれるのだが」
彼らが巨大化したのとほぼ同時に、彼女の手の中の炎も巨大化する。その大きさは――
「見せてやろう。これが私の全身全霊――――『煉獄』だ」
『ば、馬鹿な……貴様、それほどのアルターを使えば熱の奔流に巻き込まれて……』
「死ぬかもな。だがすぐに生き返る」
『だが、それでも苦痛が消える訳では…………!!』
「だから?」
彩乃は、侮蔑の笑みを浮かべて最後にこう言った。
「お前らのような人間のお蔭でな、そういうのはもう慣れた」
そして。
周囲を灼熱の奔流が席巻した。
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