(4)
今日はこれまでになく寒い。隼人にはいつも以上に重装備させているが、足下から寒気が這い上がってくる感じだ。今宵は、あそこに長居出来ないな。
マンションの玄関前で真っ暗な夜空を見上げる。星は……見えない。代わりにちらちらと白いものが舞っている。
「雪、か」
ホワイトクリスマスでムード満点なのはいいんだが、子連れの散歩に雪模様はちょっとね。俺は誰にともなく苦笑いを向けて、公園に向けて歩き出した。
そういや、あの子は今晩も来ているのだろうか。他の日はともかく、賑やかなイブに一人で公園をうろうろするのはとことん寂しいぞ。してもしょうがない余計な心配をしながら、いつものように公園のベンチに腰を下ろす。隼人のご機嫌は悪いままだ。ずっと泣き通しだったから、さすがに泣き疲れた様子は見えるが、まだぐずぐず言っている。
「ねんねこよー」
俺が小声で子守唄を歌うと、それを聞き付けたかのように、どこからかあの女の子が現れて近寄ってきた。
格好は、いつもの通り。そう、白いダウンジャケットに白ジーンズ、黒いショートブーツ、黒い手袋とマフラー。ただ……俺はそれにものすごく違和感を覚えるようになっていた。着こなしは確かに今時の女子高生らしく洗練されているが、だとすれば必ず服装を変えるはずだ。毎度同じ服と言うのが……どうにも解せん。家出娘みたいに着たきりというのなら、どこかに薄汚れ感があるはずだが、服装はいつもこざっぱり整っている。うーん……。
「こんばんはー」
「おう。クリスマスイブだってのに、一人寂しく、しかも真夜中にうろついてちゃいかんだろう?」
「まあね。でも、あたしにもいろいろあんのよ」
ほう。気晴らしの散歩が言い訳だってことは、どうやら認めたみたいだな。
「親とケンカしてるとか、か?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
抱いていた隼人が大人しくなった。どうやら散歩がというより、この子がお気に入りなんだろう。目をぱちぱちさせて、声の主を探しているような素振りを見せた。
女の子は俺から少し離れて、横に座った。膝に両腕を乗せて手を組み、その上に顎を乗せて不服そうに唇を突き出した。足をぶらぶらさせながら、その子が一方的にしゃべり出す。
「おじさんは、裏切るって……どう思う?」
「む。イブだってのに、いきなりベタな質問だな。一般論でいいなら」
「うん」
「もちろん、するのもされるのも論外だ」
「だよねー」
「ただな」
「……」
「事実として、そういうのがどこにでも転がってるっていうのはあるのさ」
「ふうん」
「俺は商売柄そういうのを見ちまってるから、裏切りなんざ絶対に許せないって一方的に激怒するってのが出来ないんだよ」
「んー、分かりにくい。どういう意味?」
「人を裏切って喜ぶ悪魔みたいなやつは、そうそういないよ。信頼を仇で返すってのは、何か事情があるってことが多いのさ。その事情が受け入れられるかどうかはともかく、な」
「そっかあ」
と答えつつ。女の子の表情は、それに納得しているものでなかった。膨れっ面で、苛立ちを隠していない。
「親か友達と何かあったのか?」
「まあねー。信じられないよ。あんな裏切り」
「うーん……」
「どうしても納得できなくてさー。どうしようかなーと毎日ここに来てたわけ」
「ん? 俺にはその意味が分かんないが」
「ふっふっふ。復讐よ」
「おいおい」
「でも、そうしたくても出来ないんよね」
「ふん?」
女の子が、諦め口調でセリフをぽんぽんと雪混じりの寒気に放り出す。
「じゃあ、どうしようかなーと思ってさ。恨むことも、仲直りすることも出来なくて、こんな感情をあたしにだけ背負わされるのはなー」
「ああ、それはしんどいな」
「でしょ?」
その後、女の子は俯いてむすっと黙り込んだ。
静かになると、途端に隼人がぐずり出す。女の子の声が聞こえなくなって、機嫌が悪くなるんだろう。今から女好きでどうするんだ。困ったやつだ。俺が小声で子守唄を口ずさむのをじっと聞いていた女の子が、ふっと顔を上げた。
「ねえ、おじさん」
「ん?」
「おじさんは何やってる人?」
「俺か? 調査業だよ」
「って?」
「まあ、探偵ってやつさ。俺はとことん弱小の貧乏探偵だから、何の自慢にもならんがな」
「へえー! でも、探偵って、カッコいいじゃん!」
「言葉だけはね。中身は……しんどいよ。好き好んでやる商売じゃない。人の裏黒いところをいっぱい見ないとあかんからな」
「ふうん。やっぱ探偵って、難事件とか解決したりするわけ?」
「ないなー。そんなのは」
「ええー?」
「ホームズとかポアロみたいな名探偵もの。あんなのは絵空事さ。探偵っていう字を見てもらえば分かる」
俺は空中に指で字を書く。
「探る、後ろの偵っていう字も探るっていう意味だ。人が見えないようにって隠してあるものを暴き出すのが、探偵っていう商売だよ」
「……」
「落とし物を探す。家出人や行方不明の人の捜索。素行調査、浮気調査。みんなそうだ。見えないもの、見えなくしているものを探して暴き出す。墓荒らしみたいなもんだな」
「うげえ、えげつなーい」
「だろ? だから、俺は絶対に自分が探偵なんだぞって自慢しないよ」
「そっかあ。なんかイメージ違ったなあ」
女の子は少し顔を逸らして、街灯の明かりを、そしてその周囲にちらつく粉雪をしばらく眺めていた。
「じゃあさ」
女の子の質問が、突如再開された。
「うん?」
「おじさんは、なんでそんな探偵をやろうと思ったわけ?」
「あたた。まあ、そうだよなあ」
ふううっ。俺は寒気の中に細く呼気を絞り出す。
「そうだな……」
俺は、うとうとし始めた隼人の上にブランケットをかけ直し、ぐいっと背中を伸ばした。
「宝石箱の中にいるとな」
「へっ?」
「でかい声を出すな」
「あ、ごめん」
俺は隼人の様子を見る。ほら見ろ。やっと眠りそうだったのに、また目が開いちまったじゃないか。やれやれ。
「俺が宝石箱の中に居ると。自分の周りがどこもかしこも明るいと。自分の光が見えないんだよ」
「……」
「誰も見たくない、もちろん俺も見たくない真っ黒で汚い泥の中。そこに手と顔を突っ込んで必死に探すと」
「うん」
「何にも惑わされずに、そこにある本当にきれいなものがはっきり見えるんだ。そしてそれは俺が、俺自身がしっかり光っていないと見つけられないんだよ」
「……」
「探偵っていうのは、決して人助けの商売じゃないよ。それは必ずしもきれいごとじゃない。だからこそ」
「うん」
「俺は、探偵をやってる間は自分を必死に磨かないとならないのさ。俺自身がくすまないようにね」
「そっかあ」
「がんばって泥の中から拾い上げることが出来たものが、俺にありがとうって言ってくれれば嬉しいさ。でも、お礼があってもなくても俺は泥をかき回す」
「……すごいね」
「ちっともすごかないよ。俺の勝手でやってることさ。寸足らずの俺でもなんとか出来ることだからな」
「へえー」
女の子は、その後またしばらく黙って街灯を見遣っていた。
「おじさんは……」
「うん?」
俺がまた小声で子守唄を歌い始めたことに苛立ったように、女の子がまた質問を浴びせてくる。
「じゃあ、おじさんは目の前に困った人がいたら、必ず助けるの?」
「難しい質問だな」
ふう……。
「それが俺にすぐなんとか出来そうなら、無意識に体が動くかも知れん。それ以外はケースバイケースだ。そうとしか言えんな」
「ふうん。どして?」
「助けるってのが、そんなに単純なことじゃないからだよ。例えば」
「うん」
「あんたが家出人で、今日どこにも行き場がないからおじさん助けてと言われても、俺は交番に行けとしか言えん」
「ええーっ? どしてー?」
女の子の不満感が爆発した。立ち上がって、強い抗議の表情を見せる。
「俺に責任が取れないからさ」
「う……」
「その場限りじゃなく先のことにもきちんと道筋を付けないと、本当に人を助けたことにはならないよ。対処方法は自分だけで決められることじゃないんだ」
俺の解答が気に入らなかったんだろう。女の子が、膨れっ面のままぶつぶつ文句を言った。
「探偵ってさあ。もっとかっこいいのかなーと思ったのにー。何でもずばずばすっきり解決ーみたいな」
「あほか」
「えー?」
「そんなのはフィクションの世界だけだよ。俺たちは警察でも裁判官でもない。俺らの出来る範囲ってのは、本当に狭いんだよ」
「ふうん」
「その中で俺たちに出来ることは精いっぱいやるさ。でも、その範囲外のことにはなかなか手が出せないし、出すなら覚悟がいる」
「覚悟、かあ」
「そう。そして俺にはもう女房子供がいる。家庭を守らんとならん。探偵としての限界を突破して危ない領域に手を出すのは、いくら人助けでも俺としては極力やりたくない。それはさっきあんたが言った、裏切りになるからな」
「あっ。そうか」
「だろ?」
「うん。奥さんや子供のことを考えないってことだもんね」
「そうだ」
「うーん……」
女の子は頭を抱え込んで、うんうんうなっていた。
「やっぱ、めんどくさいんだねー」
「そらそうさ。世の中がすっぱり単純なことばかりで出来てたら、俺たちの商売は上がったりだよ」
「あははっ」
女の子が苦笑する。でも、急にその笑みを引っ込めた女の子がぐいっと顔を突き出してきた。お?
「あのさー」
「ああ」
「もし。もし、だよ。おじさんの奥さんが浮気してたとしたら。おじさんはそれを許すの? その裏切りをどうするの?」
「うーん……」
イブだってのに、またぞろえげつない質問をー。ったく。
「そうだな。俺なら、だが」
「うん」
「なぜ浮気したのかを探る」
「……」
「それが……俺が探偵だってことなんだよ」
「そ……っか」
「逆に、もし俺が誰かと浮気してるのを女房が嗅ぎ付けたら」
「してるの?」
「あほ! 仮の話だ」
「へいへい」
「女房も、それがなぜかを探ろうとするだろう」
「ふうん……」
「そう出来るから俺らは夫婦になったし、そう出来ることが俺らの信頼関係ってものだと思う。もし浮気の理由が夫婦の信頼関係を損なうようなものだったら」
「うん!」
「別れるしかないだろ?」
「そっか……」
俺はゆっくり顔を上げ、粉雪を吐き出し続ける夜空を見回した。
「俺はね」
「うん」
「絶対っていうのは信じない。永遠に続く愛情とか、絶対裏切らないとか、そんなのはあり得ない」
「ええー? そうなの?」
「そうさ」
女の子が、
「絶対ってのがないからこそ」
「うん」
「出来るだけしっかりしたものにしようと、しっかりさせて長く続けようと思うのさ」
「あ……」
「だろ?」
「そっかあ。そういう考え方もあるんだね」
「俺の持論だ。人に押し付けるつもりはないよ」
俺は、あーあーと小さな声を出してきょろきょろ辺りを見回している隼人を見下ろしながら、話を続けた。
「こいつに関してもそうさ。隼人を絶対に立派に育て上げる。宣言するのは簡単だけど、思惑通りになんか行くわけないよ」
「うん」
「うまく行かなかった時にそれを悔やむんじゃなく、その時その時に俺がこいつにしてやれるベストを尽くす。俺に出来ることはそれしかないし、こいつに渡せるのはそういう考え方しかないかなと思ってる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます