(3)

「ふわわわわ……」

「あれ? みさちゃん、眠そうだね?」

「まあな。ここんとこどうも隼人のご機嫌斜めが続いてて、夜中の散歩が常態化してるからな。さすがにきつい」

「ごめんねえ」

「いや、ひろが睡眠不足になるとおっぱいが出なくなるからな。隼人が人工乳嫌いだと、こんな弊害が出るんだなあ」

「そうなのよねー。託児するようになったら、大変だー」

「なんとか慣らさんとな。粉ミルクのメーカーを変え、品を変え、だ」

「ふー……」


 俺もひろも食べ物に好き嫌いはないんだが、まさか隼人がグルメだとは思わなかった。もっとも、母乳に勝るものはない。隼人の嗜好は極めて真っ当なんだろう。ソファーにどすんと腰を落とした俺は、腕を組んでしばらくぼんやりと考え込む。その格好を見たひろが、すかさず突っ込んできた。


「ねえ、みさちゃん。何か事件?」

「いや、そういうわけじゃないんだが。ちょっと気になることがあってね」

「へえー。なに?」

「隼人の散歩で夜に公園に行くと、いつも居る女の子がいるのさ」

「夜中なのに?」

「ああ」

「小さい子?」

「いや、小さい子なら俺がすぐに通報してるよ。高校生くらいだな」

「ふうん。その子は、みさちゃんと話してるの?」

「必ずちょっかい出しに来るんだよ」

「……。何を話してるの?」


 ほう。珍しく、ひろが妬いてるな。


「他愛ないことだよ。隼人のことが多い」

「え? みさちゃんじゃなくて?」

「ああ。特に俺に興味があるっていう感じじゃないね」


 ひろが、それを聞いて首を傾げた。


「ねえ、みさちゃんはそれに付き合ってるの?」

「ははは。さすがに勘がいいな」

「……」

「どうも気になるんだよ」

「何が?」

「俺は……その子にどこかで会ったような気がするんだ。それもずっと昔ではなく、な」

「でも、みさちゃんの扱った案件の中にはそういう年頃の子のはないんでしょ?」

「ない。強いて言えば、岸野くん絡みのフレディの扱った案件があるにはあるんだが、その関係者ではない」

「うーん」

「それ以外は、思い出せるものが何もないんだ。でも、どうしても引っかかっててな」

「そっかあ。何か事件性があるとか?」

「見る限り、虐待されているとか家出してるとか、そういう雰囲気ではないんだ。その子がいつも言うように、気晴らしの散歩の感じだ。口調は明るいし、話し方も今時の女子高生そのものさ。だからこそ逆に、違和感が拭えないんだ」

「ふうん」

「そういう子が、なんで夜中に人気のない公園をうろうろするのかがね」

「確かにね」


 まあ、ここでぐだぐだ考えてもしょうがない。


「明日はいよいよイブだけど、何か手伝う?」

「いや、クリスマス以降の分まで買い物しとかないかんから、本番は25日にする」

「あ、そうか」

「まあ、イブにしっぽりやるのは、隼人がもっと大きくなってからでいいさ。分相応にやらんとな」


 ひろが、俺のセリフを聞いて苦笑した。本当ならイブにムーディーにやりたいんだろうが、準備をするのは俺だ。無理を言えないと思ったんだろう。


「それより」


 俺はぐずり始めた隼人に目を遣って、溜息をついた。


「イブくらいゆっくり寝かせてくれると、俺もひろも嬉しいんだがな。なあ、隼人」


◇ ◇ ◇


 クリスマスイブ。俺は翌日の準備に追われた。チラシの束を手にスーパーを梯子し、山のような食料と日用品を買い込んだ。ひぃひぃ言いながらそれを持ち帰り、冷蔵庫とストッカーに収納してから、ディナーメニューの仕込みに入る。いつもは和食が基本の我が家でも、さすがにクリスマスに鰺の干物とお漬け物というわけにはいかんだろう。ちょっとがんばるべいと、スタッフドチキンに挑戦することにした。


 羽をむしった丸鶏の腹の中に香草や具材を詰め、下味を付けてグリルでじっくり焼き上げる予定だ。二人分にしては若干量が多いが、食べきれなかった分は解体して冷凍すればいい。台所でばたんばたんと賑やかに作業する俺を、隼人を抱いたひろがわくわく顔で見ている。


「ほらー、隼人。パパが何かおいしいものを作ってくれるみたいよー。まだ食べられなくて残念ねー」


 どてっ。まあ……いいけどよ。


「ひろ、隼人の授乳が終わったら、ツリーのデコレーションをしてくれ」

「ええー? わたし、そんなセンスないよう」

「んなもん、適当でいい」


 どてっ。今度はひろがぶっこける。


「本体はもう箱から出して立ててあるから、後はオーナメントをぶら下げるだけだよ」

「ううー。分かったー。どうなっても知らないよー」


 飾り物をぶら下げるのに、うまいも下手もないと思うが。まあ、雰囲気を出すだけさ。


 授乳を終えて隼人をベビーベッドに寝かせたひろが、さっきはぶつぶつ言ってたのに楽しそうにツリーの飾り付けを始めた。隼人は、ベッドの上で回るメリーのクリスマスソングに合わせて踊るかのように、小さな手足をぱたぱた動かしている。俺は作業の手を休めて、その様子を複雑な心境で眺める。


 俺の両親は、学校行事だけでなくクリスマスとか初詣とか、そういう世間一般のイベントにも全く関心がなかった。親がしてくれないものに、俺らが期待を寄せようがない。この日はみんなが賑やかに過ごすんだなと羨ましくは思っても、だからと言って親に何かしてくれと要求したことはなかったんだ。そりゃそうさ。親の返事は、いつも決まってこうだ。


 『カネはやるから、それで自分の好きなものでも買って食べろ』


 俺がクリスマスに親からもらいたかったもの。それは……ごちそうとかケーキとかプレゼントとか、そういう即物的なものじゃない。家族で何かをして心から楽しむ。そういう団らんの暖かい空気が……欲しかったんだ。でも、俺の両親にはそういう感覚が欠如していた。子供を放棄しないぎりぎり限界のところで、俺や姉貴を取り扱ったんだ。それは、心からのケアじゃない。ものを扱うのと同じ、トリートだ。


 もちろん、親には親の言い分があるだろう。それは俺にもある程度は理解できる。なんだかんだ言っても、俺たちは食うに困る生活はしなくて済んだ。学校もちゃんと出してもらったし、俺も姉貴も社会人として独立するところまで順当に行った。それは親の助力なしでは困難なこと。充分感謝するに値するだろう。この前電話した時に、お袋に言った通りだ。


 ただ、俺の両親はその基本方針を俺らに何も説明しなかった。だから、本当は親なりに心配りをしてくれていたのだとしても、それは俺たちに何も伝わらなかった。親には、早くから俺たちの自立を促すという意図があったのかもしれないが、俺たちの目には親の姿勢が間違いなく放置に映ったんだ。


 姉貴は、そのネグレクトに近い親の態度の直撃を受けた。親から何も引き出せない無力感が、姉貴のダルな性格の根幹になってしまった。フレディも……これから姉貴のネガに苦労するだろう。俺は、親からはもらえなくてもきっと誰かからもらえるだろうと考えた。そして今、ひろという最高のパートナーを得て欲しいものを存分にもらっている。

 それでも。俺はひろが羨ましい。一人娘として親の愛情を独占し、親の愛情がうっとうしく感じるくらいに蜜壷の中にどっぷり浸かって来て。それがあいつの無類の屈託のなさや真っ直ぐな性格のベースになっている。


 俺はその正反対だ。愛情欠乏症の後遺症に苦しみ、何かものを見る時についいろんなバイアスをかけてしまう。探偵という商売でなければ、俺は社会への適合に苦労しただろうなと思う。沖竹のところを辞めたこと、会社組織のしっかりしているフレディの社で居心地の悪さを感じることには、そういうのが間違いなく影響している。


 俺はでかい溜息を一つ、ぽんとシンクの中に放り捨てて、料理の下ごしらえを再開した。


「いつまでガキのつもりでいるんだ、俺は」


 そうさ。ない、ない、ない、ない、ない……。どんなに言い続けたところで、ないものがが魔法のように現れることなんかない。なければ創るしかないんだ。


 親のことをくそみそに言っておきながら、俺とひろの共同生活は俺の親のとそう変わらなかった。ただ、子供がいたかどうかの違いだけだよな。俺がとちれば、隼人に俺の二の舞いをさせることになる。それだけは……絶対に避けなければならない。

 隼人が生まれて、夫婦から家族になった。だが、俺はまだ家族のふりをしている。家族を繋ぐ愛情が真実かどうかをまだ勘ぐっているからだ。独りの頃の悪い癖はちっとも直っていない。物事を斜めに見て距離を取ろうとする悪癖が抜けていない。


 だから。このクリスマスが、俺たちが本当の家族として過ごしていく上で大事な礎石になるように、と。密かに……祈る。


◇ ◇ ◇


 さすが、キリストさんの粋な計らい。俺がそう思うくらい、隼人の機嫌がすこぶる良かった。起きている時は大人しかったし、よく眠った。ここのところぐずりっぱなしの隼人に悩まされていた俺たちは、さすがクリスマスイブだなと感心したんだが……甘かった。


 災難のきっかけは、あろうことかクリスマスツリーだった。ひろが気合いを入れて飾り付けたツリーは、ひろの謙遜が嫌みに感じるくらい見事な出来映えで、せっかくだからツリーを入れて三人で写真を撮ろうと。余計なことを考えちまった。


 三脚を立ててカメラをセットし、ひろが隼人を抱いてツリーの横に座った。俺が部屋の明かりのリモコンをオフにして、真っ暗な部屋の中がきらきらとツリーのイルミネーションで満たされた途端に……隼人が爆発してしまった。


 初めて見たきらびやかな電飾に怯えたか、激しく興奮したんだろうと思う。これまでにない激しい泣き方で、もう写真を撮るどころの騒ぎではなくなった。抱こうが、あやそうが、ベッドに寝かそうが、音楽をかけようが、メリーを回そうが、おっぱいを飲まそうが、どうやってもだめ。結局、二人して悪戦苦闘した挙げ句。いつものように俺が真夜中に散歩に連れていくことになってしまった。


 まあ、パーティーの本番は明日だ。今日が本番でなくて、本当に良かったよ。やれやれ……。

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