第八話 宿題

(1)

 さあ、鉄は熱いうちに打て、だ。


 小林さんとの激しいがちんこがあって、そのあとアフターケアの方針が決まり、佐伯さんは新しい流れに乗った。佐伯さんの頭と手足が動くうちに、宿題を片っ端からやっつけないとな。


 田中からむしり取った慰謝料が使えるようになったから、勤務環境を変える条件は整った。それでも佐伯さんは、自分から辞めるとはなかなか言い出せないだろう。

 ストーカー騒動でごたごたあったことは、職場には漏れていない。表面上は、子供の発熱が休んだ理由になっている。それはあくまでも佐伯さんの自己都合であり、店側はそんなの知ったこっちゃないんだよね。当然、シフトを突然乱したことに対する強い叱責や反発が、店長や同僚から出てくるはずなんだ。それなのに、逆風を匂わせる言葉が佐伯さんの口から一切出てこない。

 理由は二つ考えられる。一つは、佐伯さんが我慢しているということ。もう一つは、店長が佐伯さんを取り込むために弱みを握ろうとしていること。俺は、その相乗作用だと思うけどね。今のまま行くと、田中の屋敷にトラップされていた時と全く同じ図式になってしまう。いくら生活のためだと言っても、身売りを強要されるんじゃ働く意味がない。


 佐伯さんにぎちりと刻み込まれている自己抑圧の癖は、時間をかけないと改善しないだろう。外圧が緩まない限り強い自己主張ができないのに、外圧を跳ね返すには強い自己主張が要る。悲劇的な悪循環だよ。それなら誰かが佐伯さんの代わりに負の連鎖を断ち切ってやらないと、リスタートの準備がいつまでたっても整わない。

 フォローアップの最初の一手は、まずそれだ。俺にとっては業務の一環なので、宿題には当たらない。


 これは、佐伯さんにとっての宿題なんだ。今回は俺が店長との交渉を代行するが、それは俺の善意ゆえではなく、あくまでも佐伯さんの後学のためだ。やりたくないと逃げないで、しっかり勉強してほしい。


「じゃあ、行きましょうか」

「はい。よろしくお願いします」


 打ち合わせを終え、三人揃って事務所を出る。まだ勤務時間内だが、今日はこれで事務所を閉めることにする。俺と佐伯さんは車で佐伯さんの勤務先に向かい、小林さんはこれで帰宅だ。そして、小林さんにもちゃんと宿題を持たせてある。今日は都合により臨時休校だけど、自宅学習はちゃんとやんなさいよってね。単なる自習ではなく課題提出なので、小林さんはサボれないはず。まあ、最初の宿題はイージーなところからだ。慣らすしかないからね。


 佐伯さんを車に乗せた俺は、車を出す前に改めて意向を確かめる。


「佐伯さん」

「はい?」

「もう一度確認しますね。今の仕事はどうされますか?」

「……」


 しばらく沈黙が続いたが、アイドリングの音に紛れてしまうくらいのか細い声が漏れた。


「辞めたい……です」

「やっぱりね。店長のえぐいアクションが、露骨になってきたでしょ?」

「う。は……い」

「潮時ですよ。さっき事務所で話をした職業体験のスケジュールを立てるには、働きながらは無理ですし」

「はい」

「今の勤務環境が快適ならいいんですけどね。あの店長じゃあ、正直どうにもならないです」


 ふうっ。弱々しい吐息が漏れた。


「わたし……また騙されたんですか」

「いやあ、騙されたんじゃない。弱みを見せただけ。それには必ずつけ込まれますよ」

「うう」

「あなたの芯の強さや意地は、あなたにものすごく深く突っ込まない限り見えてこないんです。最後のぎりぎりにならないとわからないんじゃ、ね」


 くたっと意気消沈した佐伯さんに、エールを送る。


「これから、私が対応の実例を見せます。あなたは、私のやり方をよーく見ておいてください」

「え? なにかするんですか?」

「いやあ、佐伯さんが辞めるって言わなくても、向こうから辞めてくれって言いだすように仕向ける。それだけです」

「あ、この前の」

「そう。佐伯さんにはまだストーカーの影が付きまとってる。そういう事実を示すだけ」

「うん」

「それを、前回の打ち合わせの時以上に切り出しやすい状況が、今あるんですよ。まあ、見ててください」


 はっきり自分の意思を示せ! 確かにそうなんだけど、いろいろなしがらみがあってできないことは俺らにもある。その時にはどうすればいいのか。意思表示以外の手駒を駆使するしかないのさ。佐伯さんはネガティブな意思表示ができないだけでなく、持っている手駒の使い方があまりに下手くそなんだ。

 死に物狂いでやるなら、手駒を増やしてどう使うかってことにもっと死に物狂いになってほしい。我慢する、もしくは最後に逃げるという二択は、不毛な結果しかもたらさない。


「出ます」

「はい」


 不安と気後れに塗れて、助手席で俯いている佐伯さん。そういう彼女の気弱で自信なげな雰囲気が、勘違いするやつやろくでもない狼をこれでもかと寄せ集めてしまう。生活条件を安定させることで、顔が上がるといいんだがな。


 佐伯さんの代わりに一つでかい溜息をついた俺は、サイドブレーキを外してアクセルを踏み込んだ。


「最初の宿題は、さっさと片付けましょう」


◇ ◇ ◇


 佐伯さんが勤めているデリカテッセンの駐車場に車を停め、俺が先導する形で、客として店に入った。いらっしゃいませの声のあとで、レジにいた中年のおばちゃんがあざだらけの佐伯さんを見て顔色を変えた。


「ちょ……優花ちゃん、あんた、どしたん?」


 佐伯さんは、無言で顔を伏せた。俺は、店で一切口を開くなと言ってある。


「申し訳ありません。いろいろと込み入った事情がありまして。急ぎで店長さんにお会いしたいんですが」


 俺がそう切り出すと、おばちゃんがじろじろ俺を見回した。


「あなたは?」

「ストーカー被害者の保護活動に携わっている者です。相互の安全確保のために、現時点では私の身元が明かせないんです。申し訳ありません」


 ストーカーという言葉を聞いて、おばちゃんが大慌てで作業場に吹っ飛んでいった。三分もしないうちに、店長を伴って戻って来る。


 その店長というのが……まあ絵に描いたようなスケベ親父なんだよ。佐伯さんに職を斡旋したという高校の先生も、裏でこいつと結託して何かやらかしてるんじゃないのか? そう疑いたくなるくらい、佐伯さんを舐め回すような視線がどうしようもなくアブナい。視姦そのものだ。佐伯さんも、いくら生活のためとはいえよく我慢したよ。


「店長さんですか?」

「はい。佐伯さんに、何か」

「事態が切迫しているので、要点だけ取り急ぎ」

「なんでしょう?」

「これもんが、彼女につきまとっていまして」


 俺が頬を切るまねをしたとたん、店長の顔色が変わった。


「う……わ」

「そいつとの接触を断ち切るために、私どもの斡旋した部屋に避難してもらっていたんですが、居場所を嗅ぎつけられていたみたいで。昨日帰宅した時に、待ち伏せされて……」


 振り返って、佐伯さんの顔を指差した。さっき小林さんと全力で取っ組み合いした時の傷や打ち身の跡は、まだこれでもかと生々しい。現物は何よりの証拠さ。それは化粧や演技じゃないんだ。暴力の恐ろしさを何より雄弁に物語る。黙り込んでしまった店長や店員に、確認を取る。


「安全確保ができれば、またこちらで働かせていただきたいところなんですが」

「そ、それは」


 店長が、露骨に渋った。まあ、普通はそうだろ。


「ですよね? 私どもの方でも無関係なみなさんを危険に巻き込みたくないので、苦渋の選択ではあるんですがこのまま退職ということにさせていただきます。申し訳ありません」


 俺と佐伯さん、揃って深々と頭を下げる。


「あの……」


 レジにいたおばちゃんが、気の毒そうに優花ちゃんに声をかけた。


「大丈夫?」


 いつもならすぐに返ってくるはずの「大丈夫です」の声が、佐伯さんから出てこない。それで、案じてくれたおばちゃんだけでなく、その場にいたスタッフ全員に強い危機意識が共有されたと思う。


「今月分の賃金については、実働分のみお支払いいただければ。申し訳ありませんが、それだけよろしくお願いいたします。彼女のリスクを下げるため、私が収受を代行いたしますので」


 これがまるっきり口から出まかせの嘘なら心苦しいんだが、田中の一件は俺らが突っ込まないことにしただけで完全解決はしていない。リスクは極めて低くなったけど、ゼロになったわけではないんだ。俺は、必ずしも嘘はついてないんだよ。


 頭を深く下げた佐伯さんが、聞こえるか聞こえないかの小声で詫びた。


「すみません……お世話になりました」


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