第六話 取っ組み合い

(1)

 午前八時前。小林さんが出勤してくるまで、まだ少し時間がある。俺はインスタントコーヒーを淹れ、自席で飲みながらいつもの手帳を広げた。びっしり書き込んであるのは調査結果ではなく、プランだ。絵空事が嫌いな俺には似合わないんだが、絵空事を現実に変えて行かない限り望んでいる未来はやってこない。


「どうするか、だな」


 佐伯さんの案件が最終報告まで済んで、事務所で請けた仕事という意味では片付いた。同時進行だった複数案件は、大きな山を一つ越したことになる。だが、俺の中ではちっとも片付いていない。佐伯さんのアフターケアが、全く進んでいないからだ。


 最終報告の時、彼女のリスタートに関するいくつかの提案をした。それは組み立てキットのカタログみたいなもので、どれを選んでどんな風に実行していくかは、彼女自身に決めてもらわないとならない。佐伯さん自身のデリケートな問題が絡むので、俺が一方的に押し付けるわけにはいかないんだ。だから俺は、提案以上のアプローチはしなかった。


 佐伯さんは、やっと安定し始めた今の生活環境を大きく変えることになかなか踏み切れなかったんだろう。勝山さんの部屋を出た後なんの音沙汰もなく、俺も一切催促をしなかった。迷いや戸惑いが彼女の感情を支配している間は、俺も次のアクションを起こせない。俺はひたすた待つしかなかったんだ。

 だが昨日佐伯さんから電話があり、今回の件の後始末をしたいという申し出があった。園長さんの付き添いはなく、子供は園に預けて一人で来るという。これで、勝山さんのところではできなかった突っ込んだ話を、膝詰めでやれる。最終報告を済ませてから二週間、か。タイミングを逸して再調整しなければならない部分もあるし、冷却期間を置いたことでこなれた部分もある。俺もここで一区切りつけて、リスタートと行こう。


 手帳を机に置いて席を離れ、事務所の窓から街路を眺める。すっかり初夏の様相になったな。たくましい緑衣に覆われた街路樹が、互いに勢いを比べあっている。まさに無心の生。俺たちの苦悩なんざ、どこ吹く風だ。


「ふうううっ。季節がどんどん進んでるのに、俺はちっとも進歩しとらんな」


 そう。俺は今回の佐伯さんの件で、深刻な経営判断ミスを犯し続けていたことにやっとこさ気付いたんだ。佐伯さんは間違いなく崖っぷちなんだが、俺も同じように崖っぷちなんだよ。間違いなく、ね。


◇ ◇ ◇


 中村探偵事務所では、アフターケアは出来ない。しないんじゃなく、出来ない。それが俺の基本認識で、どうしてもケアが必要な場合はフレディの力を借りることが多かった。

 麻矢さんのケースでは、ケアを受ける対象が麻矢さんではなくトミーだった。それも、必要だったのは仕事の斡旋と住居契約時の身元保証だけで、ごく短時間でケアが終了した。光岡さんの時。治療やカウンセリングはリトルバーズ主導だったし、退職後はご両親が受け皿になった。ケアが、すぐに俺たちの手を離れたんだ。

 しかしどちらのケースも、アフターケアはフレディのボランティアではない。必要経費を俺が支払う形にして、フレディにケアを委託したんだ。麻矢さんの時も光岡さんの時もね。案件を解決する以上にコストも手間暇もかかるケアを無料でやってくれなんて、俺は口が裂けても言えないよ。二件ともケアがすぐに終了したから俺の金銭的な持ち出しはほとんどなかったが、それはあくまで結果論なんだ。


 ケアが善意で裏打ちされていても、契約はあくまでも契約だ。フレディはその原則を絶対に曲げない。でかい組織を動かしている経営者として、契約の枠内で物事を処理するという基本線は決して崩さないんだ。

 俺は、そういうフレディの契約第一主義をずっと見てきたはずなのに、なぜかアフターケアのところだけはフレディのポリシーを甘く評価していたんだ。それは善意の延長線上にあるってね。


「甘かったよなあ……」


 そんなわけないだろ。フレディはとても心の暖かいやつだと思うが、JDA所長として社を動かす時には恐ろしく冷徹なんだ。リスクの大きいこと、コスパの悪いこと、利益率を下げること……そういうものは事業の中に入れないし、すっぱり切り捨てていく。じゃあなんでコスパの悪いアフターケアを切り捨てず、逆に売りにしてきたんだ? 俺はその理由を激しく見誤っていた。堅実だが、調査業者の手腕としては平均的なJDA。他社との差別化をはかり、競合力を高めるためにケアを組み入れてある……そう考えてしまったんだ。

 違う。違うんだよ。JDAが売りにしているアフターケアは、調査業の業界標準に近くて、大なり小なり「業務の一環として」どこでもやってるんだ。JDAはその仕様をきちんと整備しているに過ぎない。調査が堅実であるように、アフターケアも堅実。そういうことだったんだ。


 俺のしでかしていた誤解の出どころは、沖竹での勤務経験だ。沖竹では、ケアに全くタッチしていなかったんだ。どけちの所長は、リスクの大きい案件を引き受けることでケアを切り捨てるデメリットを補い、利益を確保していたんだろう。JDAが優れているのではなく、沖竹があまりに異端だったんだ。

 その沖竹から独立してマイペースに探偵業をやってた俺は、業界標準というものに全く無頓着だった。


「そういうところがへっぽこなんだよなあ。はあ……」


 一人探偵として身一つでやっていた頃には、経営をまじめに考える必要がなかった。結婚前はバイト、結婚後はひろの稼ぎで生活がまかなえたからね。探偵としてはごついプライドを持っていても、経営者としてはプライドどころかその欠片すらなかったんだ。

 自分を縮めて環境に合わせるのが俺の基本方針だった。その意識が今でもべったりへばりついて離れてくれない。だから、思考を広げればすぐに考えつくことになかなか気付けない。そこが佐伯さんとそっくり同じなんだよ。はあ……。


「いや、たそがれてる場合じゃないよな」


 足早に席に戻って、改めて手帳を広げる。中村探偵事務所がアフターケアを業務に組み入れていなかったのは、紛れもなく事実だ。じゃあ、これからどうする?


 まず、原点に立ち返ろう。俺の本心としては、最後までしっかり面倒を見たいんだよ。汚いものばかり見なければならない探偵っていう商売で自分まで真っ黒けにならないようにするには、最後に依頼人の笑顔を見るのが一番だからだ。調査後のアフターケアまでやるということについては、俺はむしろ推進派なんだよ。

 それなのに、なぜ俺がアフターをおざなりにしてきたか。一人じゃとてもそこまで手が回らないからだ。資金、人材、経営者としてのスキル……足りないものだらけで、それが事務所の運営を歪めていることはもう分かっている。そして、もっとも優先して整えなければならない欠損パーツは間違いなく人材だ。だが、その人材を確保するためには資金が要る。資金難と人材難の負の堂々巡りをどこかで切り離さないと、先が全く展望できない。


 通常業務の遂行でさえ二重苦でやりくりが難しいのに、もっとコストフルなアフターケアなんかとてもとても。それに俺は調査業が本業であって、カウンセラーやケアワーカーのプロではない。素人の付け焼き刃でかえって依頼人に迷惑をかけるはめになるのはどうにもまずい。

 そう。いつもそこで止まってしまってたんだ。しかも思考が止まってしまうことを、仕方ないと達観していた。


 でも、事務所の新装開店からろくでもない案件がトリプルで降って来て、それが「仕方ない」で済まされないことを思い知った。弱小でひーこら言ってるのは俺の事務所だけじゃないよ。でも、ここまでろくでもない案件しか降ってこないところはそうそうないだろう。

 俺の仕事の出来が悪い? いや、解決率は水準以上だと自負している。割に合わないとか時間単価の低い案件であっても、俺に頼んでよかったという最終報告書を渡して依頼人に満足してもらう。それが直接依頼のリピにつながらなくても、効果的な宣伝にはなる。きっと次の依頼を連れて来てくれるはず。俺は、これまでそういう発想できっちり調査を遂行してきた。


 じゃあ、これまでの方式に十分な宣伝効果があったか? まるっきり効果ゼロではなかったとは思うが、おそろしく効果が低かったことは否めない。それがずっと前から分かっていたのに、俺は原因究明をまじめにやらなかったんだ。

 原因は一つしかないよ。俺が考える『解決』の中身が、顧客側から見た場合に水準を満たしていないからだ。顧客が満足していないから、成果が二次的に波及しない。足らない部分がアフターケアだったんだ。それじゃあ、いくら調査を完璧に遂行しても宣伝にはならないよな。


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