第二話 面談

(1)

「ひろ、どんな感じだ?」


 長かった育休の終点が近付き、正式な職務復帰に向けて慣らし勤務に入ったひろ。久しぶりに腹の出ていない体型で出社し、さぞかし張り切って帰って来るだろうと思ってたんだが。スーツを平服に着替えてリビングに戻って来たひろの表情は、なんとも微妙だった。


「わたしのピンチヒッターやってたサブのさきちゃんが、すっごく腕上げてた。わたし、もう要らないんちゃうかなあ……」

「おいおい」


 何でも強気で押しまくるひろにしては珍しく、弱気の虫が顔を出してる。ブランクを抱えた焦りと気後れがあるってことなんだろ。まあ、それが当然だと思うよ。


「上条社長は、女性社員の結婚、出産、育児に伴ういろいろなハンデをどうやって平準化するか、まじめに考えてる。ひろのもそのテストケースってことなんだろ。あんまり考え込まん方がいいぞ」

「そうだよね」


 不安そうに息をついたひろが、空腹でむずがりだした月乃を抱き上げ、頬にちゅっとキスをした。


「ごめんねー。ママは、これからあんたにちょっと寂しい思いをさせるかもしれない」


 まあな。夜遅くならないと帰ってこないママに、隼人と月乃が不安と怒りを露わにするのは目に見えてる。特に隼人は、ママべったりになっちまったからなあ。今だって寝ているから静かだが、もし起きていたらかまってくれと大騒ぎするだろう。ふう……。


「これまでと全く同じってわけにはいかないよ。いろいろ試してみて、修正かけながらやらないと」

「そうだね」

「なんとかなる」

「そう?」

「なんとかしようと思ってる限りね」

「確かにね。はあ……」


 ソファーに腰を下ろして月乃に授乳する態勢に入ったひろが、ひょいと顔を上げた。


「ところでさ」

「うん?」

「事務所の方はどうなの?」

「特に変わらんよ」


 今度は、俺がでっかい溜息を連発する。


「はあっ。まあ、最初から分かってたことなんだが、やっぱりスーパーやパチンコ屋の新装開店と同じってわけにはいかないな」

「ふうん」

「大手の調査会社が、それほど大きくないパイのほとんどをごっそり持ってくんだ。特定のルートにコネでもない限り、依頼者殺到ってのはありえないね」

「なるほどなー」

「贅沢は言わない。月に数件、それくらいの依頼がコンスタントにあればいいんだが」


 口をへの字にした俺に、ひろがこそっと聞いた。


「これまでは?」

「均せば、月に一、二件がいいとこさ」

「うわ……いきなり倍以上を狙ったわけ?」

「まあな。実際のところ、事務所としてまじめに経営を考えるなら、それでも全然足りないんだよ」

「うーん」

「俺一人ならなんとかなるんだが、人を入れるとなるとなあ」

「そうそう、それなんだけどさ。どういうことにしたの?」


 ひろは、今後リトルバーズの幹部として人事権限を持たされることになるんだろう。採否の話が人ごとではなくなる。真剣な表情で身を乗り出してきた。


「俺が調査活動で事務所を空けている間の留守番が、どうしても要る。今までは携帯に転送させてたんだが、調査中に電話が入るとしゃれにならんのだ」

「どうして今までは平気だったの?」

「依頼がほとんどなかったから」

「あたた……」

「本気で打って出るつもりなら、まず受け入れ態勢の整備からやらんとさ」

「確かにそうだよね」

「まあ、事務仕事はたかが知れてる。単純な電話番でいい。それが一人」

「うん」


 いや、電話番の方はどうにでもなるんだ。問題は……。


「あと、俺が子供たちのケアでどうしても帰らなければならない時に、代わりに現場に出られる調査員が一人」

「そうか。最低二人必要ってことね?」

「そう」

「当ては?」

「人材か? カネの方か?」

「あ、お金の問題もあるのかー」

「っていうか、カネが全部のネックだよ」


 ああ、頭痛がする。振ればカネの出てくる壺がどっかにないかなあ。バカみたいな妄想を慌てて振り払う。


「カネの問題さえクリア出来れば、人材はどうにでもなるよ」

「そうなの?」

「口の堅さと根気があれば、他になにもなくても出来るからね」

「事務員にも根気がいるの?」

「もちろん。仕事がなければ、あとはどうやって時間を潰すか考えないとならん。暇に耐える根気がいる」

「うわ、信じられない」


 さもありなん。ひろは、三分じっとしているだけで足が腐りだすように感じるだろうなあ。ひろには絶対に出来ん。ははは。


「勤務内容や運営の方針は、走りながら考えていけばいい。でも、カネの問題だけはまだまるっきり見通しが立てられないんだよ」

「うーん、じゃあそれにどう対処するわけ?」

「人件費をぎりぎりまで切り詰めるしかない。俺は基本無給計算なんだよ。入ってきた収入を職員に支払って、残額が俺の取り分。収入がゼロなら俺がどっかから借りてでもそれを払わないとならないから、当分俺はただ働きだな」

「とほほ、だね」

「しょうがないさ」


 尻ポケットから手帳を抜いて、白紙のページに『瀬戸際』と書く。順風満帆なんてことは未来永劫にない。だが、崖から転げ落ちることは許されない。足が徳俵を割りそうなら、陣を畳んで白旗を上げなければならないんだ。


「ただ、ずっとその形態ってわけにはいかない。その三名態勢の維持が不可能になれば、残念だが俺の探偵稼業は打ち止め。廃業だ」

「う……」

「ひろと出会った時の経営危機は、まだずっと続いてる。俺がその影響を甘く見てただけだ。だから、どこかにけじめがいる」

「綱渡りかあ」

「間違いなくそう。でも、投げ出す前に俺がしなければならないことはまだまだある。そのチャレンジが全部潰えるまでは諦めないよ」

「よしっ!」


 俺ではなく、ひろが鼻息荒く気合いをぶちまかした。おいおい。月乃がびっくりして母乳を吹くぞ。はははははっ。


 ほぼ二年近くに渡ったひろの無給期間。それは、ひろとの結婚後に俺ががっちり家計を管理して貯蓄してきた分と、フレディんとこでの俺のバイト代できっちりまかなえた。それも、大きな生活環境の劣化なしでね。

 日常生活の無駄を省き、ローコストでまかなえる生活スタイルに変えることで、有事に右往左往しなくても済む。これからは、ひろに何か起こらない限り極端に収入が細ることはないだろう。今後の貯蓄は、隼人、月乃の教育資金と収入がピークアウトした後の俺らの生活資金確保のため……ということになる。


 そっちはいいんだ。問題は俺のインカムの方さ。さすがに、もうフレディの厚意に甘えるわけには行かない。俺は、万一の時の後ろ盾を失ったんだ。しかも、事務所の新調で自己資金をほぼ使い尽くしてしまった。まさに背水の陣。

 これで探偵業の上がりがこれまでレベルなら、間違いなく俺は破綻する。業種が業種だから大儲けなんてことは絶対にありえんが、明日の心配をしなくても済むくらいの利益を出す方策は立てていかないと、この先どうにもならん。


 腕組みして黙り込んでしまった俺を、ひろが不安そうに見ている。


「ねえ……」

「うん?」

「どういう手を打つの?」

「まずは足元固めから。それしかない」

「てことは、メンバーを揃えるところから?」

「もちろん。事務員も調査員も、フレディのところから調達するつもりでいる」

「お給料、払えるの?」


 それは、至極真っ当な疑問である。ちぇ。


「払わん」


 どてっ! 月乃を抱いたまま、ひろがこけた。


「ちょっと! そんなの、ありえないでしょ!」

「それが可能じゃないと、最初から無理なんだよ」

「ええー?」

「考えてみろ。パートタイムにして勤務時間をケチるにしても、一人十万弱はかかる。かけることの二、だよ」

「月々二十万……」

「無理さ。どう考えてもね。一人雇用でもきついんだ」

「みさちゃん一人でも、十万ちょいくらいだったんでしょ?」

「そう。俺をゼロ計算しても、無理」

「ううー」

「でも、未来永劫その状態ってことはないよ。依頼をコンスタントに請けられるようになれば、逆にメンバー二人じゃ足りなくなる」

「む」


 月乃をおっぱいから離したひろが、抱き方を変えてげっぷをさせた。


「なるほどなー。最初はお試し。そういうことね?」

「それしかないんだよ。三人でやってみて、うまく業務がこなせそうなら、打って出る。でも、それでだめなら解散するしかない。お試しと言っても、だめもとじゃない。それでなんとか動かさなきゃならない」

「うわ」

「まあ、やってみるさ。動かさんうちから白旗上げるくらいなら、最初からトライしないよ」

「うん!」


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