(2)
「みさちゃん、おめでとう!」
「フレディ! 花、ありがとなー」
アポを取っていた客が来る前に、フレディと姉貴が子供連れで新事務所を覗きに来た。
ケチな沖竹所長は、開所祝いの花どころかおめでとうの電話一つ寄越しやがらない。まあ、それが所長だからな。その点、フレディは本当に気配りが行き届いている。花だけでなく、ご祝儀まで包んで持って来てくれた。俺をバイトで使い続けてくれたことだけでも感謝してもし足りないんだが、本当にありがたいことだ。
「またプレハブか」
「カネがないからね。軌道に乗るまでは忍の一字さ」
「ふうむ」
「俺が最初に勤めていた沖竹もそうだよ。所長は、俺のレベルをはるかに凌駕する猛烈ドケチだからな」
「そうなのか?」
「社員数が俺のいた頃の十倍になってるのに、未だにおんぼろ貸しビルに入ったままなんだぜ?」
「ははははは! そこらへんはマネージメントポリシーの違いだな」
「ああ。所長はいつも実を取る。それが恐ろしいほど徹底してるんだよ」
「なるほどな」
「ロマンなんざこれっぽっちも飯のネタにならんと、つらっと言い放つ人だからさ。俺は、あそこまでは乾き切れん」
「はっはっはっは!」
巨体を揺すって、フレディが賑やかに笑った。フレディが抱いていた絵美ちゃんが、その振動で目を白黒させた。絵美ちゃんは、容姿が姉貴そっくり。今から成人後が予想出来る美幼女だ。
「絵美ちゃんも、どんどんかわいくなってきたよなあ」
「目の中に入れても痛くないよ」
フレディが、でれでれと目尻を下げる。血の繋がりがないと言っても、フレディにとっては大事な娘。下の息子、
姉貴は、子供達を連れてうちによく遊びに来る。梅坂ばあちゃんの激辛指導に時々悲鳴をあげ、息抜きしに来るってことだ。うちの二人の子とは、男女の順序が逆なだけで年回りが全く同じだから、気兼ねなく家族ぐるみで付き合えるっていう感じだ。ただ……上二人の性格が正反対なんだよな。
うちの隼人は、今からもう自己主張が激しくて、その上やんちゃだ。ひろの方の血が、恐ろしいくらい強く出た。それに比べて、絵美ちゃんは大人しくておっとり。ぼけっぱあの姉貴似だな。なので子供二人だけにしておくと、隼人が絵美ちゃんに何こそしでかすか分からん。隼人のしつけや教育は、これからどんどん難しくなるだろう。隼人の思春期に大きな苦労が待っていることを、しっかり覚悟しとかないとな。今までは人ごとだった、子供絡みの諸々のトラブル。それが……我が身のことになるだろう。頭が痛いよ。
「さて。そろそろ……」
「ああ、例のか」
「そう。開所したここの、最初の試練だ」
「ねえ、みさちゃん。いきなり事件なの?」
姉貴が無遠慮に口を挟もうとしたから、軽くいなす。
「まあな。重大ではないが、重大なこと。気が重いよ」
「なにそれー?」
姉貴が呆れている。いや、そんな風に達観出来ればいいんだけどさ。
「じゃあ、俺たちは席を外すよ。また、ゆっくり」
「ああ、ありがとなー」
賑やかにフレディの一家が退出して、事務所は静けさを取り戻した。
「ふう……子供絡みの案件は、どう転んでもあとでいろいろあるんだよ」
◇ ◇ ◇
フレディたちが去って十分もしないうちに、アポを取っていた客が到着した。それも、一人ではない。一家四人プラスワン。五人の大所帯だ。彼らがさっきのフレディたちのように賑やかに来たのであれば、俺も諸手を挙げて歓迎するんだが。逆だ。これから葬式が始まるんじゃないかってくらい、全員沈み切っている。
ちなみに、彼らは依頼人ではない。なので、俺には一銭の儲けももたらさない。依頼がないならとっとと帰れと言って追い返せないところに、俺の究極の弱みがある。とほほ……。
「お疲れ様です。どうぞお上りください」
彼らがドアを開ける前に引き戸を全開にして入室を促した。旧事務所では開け閉めの度に錆びた引き戸の滑車が大仰にわめき立て、やかましいことこの上なかったんだが、静かすぎるっていうのもこういう時には考えものだね。
新古品と言っても、什器や家具は見かけ上ほぼ新品。お客さんは、全員やや遠慮がちにぴかぴかのソファーに腰を下ろし、不安そうに室内を見回している。俺はその間にお湯を沸かし、人数分のカップを並べて紅茶を淹れた。今度はシンクがあるからこういう作業がやりやすくなった。トレイにカップを並べ、それをガラステーブルの上に置いて、それぞれに配膳する。
「どうぞ」
「済みません。ごちそうになります」
五人の中では一番年かさの実直そうな中年男性が、俺に向かって深々頭を下げた。
さて、と。俺は事務机の上に乗せてあった名刺入れから数枚の名刺を引き抜き、全員に手渡した。まだインクの匂いがかすかに漂う名刺を手に、それぞれが名刺を凝視している。
「今日はわざわざ当所にご足労いただき、ありがとうございます。小林さんのご一家と、立会人としてJDA所員の岸野さんにお越しいただきました。岸野さん、お手数をおかけして誠に申しわけありません」
「いえいえ」
俺が深々と頭を下げたことにかえって恐縮したように、岸野さんがぱたぱたと手を振った。
「ご面倒かとは思いますが、後ほどジョンソン所長に今回の件の報告を上げていただければ」
「承知いたしました」
表情を引き締めた岸野さんが、改めて丁寧なお辞儀をした。俺と岸野さんとは、初顔合わせではない。三年くらい前、俺がとある事件に絡んだことで知り合いになっている。だが岸野さんと俺との間には直接の利害関係がない。岸野さんの息子とはいろいろあったけどね。
小林さんご一家の対面に着座し、改めて全員の顔をゆっくり見回す。
ご主人は、見るからに気が強そうだ。岸野さんの話を聞く限り、俺が俺がと前に出るタイプではないようだが、持論を簡単に取り下げない頑固オヤジだろう。奥さんはかなりの美人だが、ひどくやつれている。心労だろうなあ……。夫のごつさに楯突けるようなガッツは微塵もない、典型的な支え妻。俺にはそう見える。パワーバランスが偏って見える組み合わせだが、夫婦仲はとてもいいと聞いている。夫が堅実な常識人であれば、奥さんとしてはそれに文句を言う筋合いはないんだろう。
二人の子供のうち、下の男の子は高二。中高とバスケをやっていて、スポーツマンらしいはつらつとした雰囲気と礼儀正しさを兼ね備えている。当然のこと、お父さんの覚えはいいだろう。問題は……。
「ええと。小林
「……」
返事が返ってこない。じっと俯いたままだ。俺は、ふうっと一息吐いてから首を何度か横に振った。
「まだ腐ってるって……ことか」
俺が心の中で言うのではなく、本人の前で直接言わなければならないこと。そこに、彼女が抱えている大きな闇と問題がある。
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