(3)

「店の外に出てきたトラッパーとトレーナーは特定出来るんだけど、一番肝心なセンサーが潜ったままなんだ。そこはガサ入れを待つしかない」


 今出来ることを先にしておこう。関係者を集めての協議は、ガサ入れの後でかまわない。それより、明日のミスト殲滅の実効を上げたい。ミストを放棄しつつある連中は、すでにガサ入れの時の対応シミュレーションを十分重ねていると見た。それなら、俺たちが連中のシミュレーションでは想定していないアクションを起こせないと、じつを取れない。


 なによりファクトの補強が最優先だ。検体を直接採取出来なかったのは痛かったけど、連中が即効性を求めてヤクを強くしたのを逆手に取らないと、左馬さんたちに危険を冒してミストに乗り込んでもらった意味がなくなる。


「左馬さん、済まん。この事務所は元は飯場でね。トイレがないんだ。すぐ近くにコンビニがあるから、そこのトイレで検体を確保してきてほしい。俺が付き添う」

「分かったっ!」


 恥ずかしいも、まだ怖いもない。まさに、決断したらまっしぐら。なんのためらいも怖じけもなく、事務所を出た左馬さんが俺よりも先にすたすたと歩き出した。その姿は、まさにミストに乗り込む前のオーラ爆発の姿。すげえ……。


 最近のコンビニは、へえーこんなものまで売ってるんだというくらい品揃えがいい。そこで紙コップと蓋の出来るサーモカップを買って、採尿してもらった。その場でバイク便の兄ちゃんを呼んで、超特急で江畑さんに送る。これで、ガサ入れまでの間に検査結果が出れば、ファクト二つでいける。よーし!


 検体を送れば、左馬さんの役目は終わり。まだ恐怖心があるのなら、自宅まで付き添おうと思ったんだが……。コンビニを出たところで、コンビニの壁面に貼られた町名表示をしげしげと見ていた左馬さんが、大きな声を上げた。


「ええーっ?」

「どうした?」

「ここ、うちの近くだー」

「へっ?」


 な、なにぃ?


河西かさい町の大きな三叉路」

「ああ、あれか」

「そこを丘の方へ少し上がったところに、マンションがあるでしょ?」

「二、三年前に建ったでかいやつだな」

「そう。そこに住んでるの」


 おわあ……俺になんか未来永劫縁のない、高級マンションだぜ? さすが部長格。稼ぎがまるっきり違うよなあ。現実を目の前に突きつけられて、あっという間に意識が水面下に沈んだ。俺にとっては、麻薬よりこういう劣等感の方がたちが悪いよ。とほほ……。へたへたにしょげた俺を見て、左馬さんが首を傾げた。


「どしたの?」

「いやあ……俺なんざ、稼ぎがちょぼちょぼ以下で、住んでるアパートからも立ち退きを迫られてるからさ。なんか……ね」

「えー? 探偵って、儲かるんじゃないの?」

「大手ならな。フレディとか、俺が前に勤めてた沖竹の所長とかは、月収が七桁以上だよ」

「うわ……」

「でも、俺の稼ぎは月六桁乗りゃあいい方さ」

「……。でも、仕事好きなんでしょ?」


 左馬さんが、俺の顔をまじまじと覗き込みながらそう聞いた。俺は即答する。


「三度の飯よりもね。ただ……」

「うん」

「今回の案件で店じまいする」

「えっ? どして?」

「食っていけないからだよ。これまでは出て行く方をぎりぎりまで絞り込んで、乏しい稼ぎでもなんとかやり繰りしてきたんだ。でも今のアパートを追ん出されたら、他のどこに住むにしても稼ぎが全部住居費ですっ飛んじまう」


 ふうっ……。


「どうにもならん」


 男のくせに情けないと呆れられるかと思ったんだけど、左馬さんは俯いてじっと黙り込んだ。


「うまく……行かないものね」

「まあな」

「事務所は借りてるの?」

「ロハでね。どこかできちんと貸借契約を結びたかったんだけど、今はそれどころじゃない。先に自分の暮らしを立て直さないと、まるっきり身動きが取れん」

「リビルド……かあ」


 そうだよな。左馬さんの表現はぴったりだ。光岡さんが持ち込んだ今回の件は、今までなあなあでこなしてきた生き方を強制的に打ち切る車止めになっている。俺がそれを外して先に進むためには、どこかで俺自身の生き方を解体、再構築しないとならないんだ。俺らが殲滅しようとしてるミストの連中の方が、よっぽどリビルドを真面目に考えてる。それって、どうにもおかしいよな。がっくり来る……。


「ふう……。まあ、全ては明日だ。そのあとこの件にきちんと落とし前がついてから、俺自身のことを考えるよ。今は、まだ他に気を散らしたくない」

「そうね」


 マンションの近くまで送ろうかと聞いたんだけど、近いからいいと断られた。まあ……確かに必要ないだろう。もういつものエネルギッシュな状態に戻っていたからね。


 事務所に戻らず真っ直ぐ帰ると言ったので、一つだけ確認させてもらった。


「ああ、左馬さん。申し訳ないけど、携帯……あ、スマホか。それを見せてくれないか?」

「……。必要なの?」

「必要。左馬さんは、普段音楽を聴きながら通勤してる?」

「いや、外から入る情報が遮断されるっていう感じが嫌いなの」


 分かる。自分の世界を作って中にこもるというアクションが好きじゃない。自我を誰からも見えるようにしたい。それが彼女の基本スタイル。そして自分の特性や主張をしっかり活かせるのが、営業っていう職種なんだろう。そういうところもストレートだよなー。おっと、思考が脱線するのはまずい。そんな暇はない。


「でも、左馬さんがミストから出てきた時にはイヤホンをしてたんだ」

「えええっ?」


 バッグに手を突っ込んだ左馬さんが、自分のスマホを見て絶句してる。


「こんなの、付けた覚えないよ。わたし、イヤホン自体持ってないもん」

「捨てた?」

「うん。スマホ買った時にすぐ捨てた。要らないものは手元に置かない」


 はっきりしてるなあ……。


「じゃあ、これはトレーナーが装着し、左馬さんにセットしたということになる。その意味するところは?」


 スマホの液晶画面を確認していた左馬さんが、何かを見つけて顔色を変えた。


「ちょ、ちょっと。これ、なにっ?」


 突きつけられた画面を見て、俺は何度も頷いた。


「やっぱりな」


 左馬さんが震える指で指し示しているアプリのアイコン。味も素っ気もないオレンジ色の真四角で、RXという名前が付いてる。もちろん左馬さん自身は、そんなの入れた覚えなんかないんだろう。


「それがトリガーの起動装置さ」

「トリガー?」

「そう。あいつらは、ミストでしか直接調教出来ない。そして暗示をかけられてる女性たちは、最初はトレーナーが側にいないと複雑な命令をこなせない。それじゃ、効率が悪くてしょうがないんだ。一人のコントロールに何時間もかかってるようじゃ、調教の手間がかかり過ぎてスクリーニング出来ない」

「スクリーニング……って」


 怒りが再燃したんだろう。固く両拳を握りしめて、ぶるぶると体を震わせている。


「つまり調教のプロセスを、出来るだけルーチンにしたい。自動化させたいってことさ」

「あっ!」


 目を皿のようにして、左馬さんがアプリを凝視した。


「ちょっと貸して」


 イヤホンを外し、念のためにスマホの音声をミュートして、怪しいアプリを起動した。画面に小さなウインドウが開いて、ファイルの一覧がずらずらっと並び、その一つが勝手にブリンクして何かが再生され始めた。


「やっぱりな……」

「これ、どういうことなの?」


 左馬さんが、気味悪そうにそれを見つめている。今は音声を切っているから実害がないけど、こいつを左馬さんが聞いたらトリガーがかかるってことだな。


「まだ俺が実際に聞いて中身を確認したわけじゃないよ。でも、連中は動画配信サイトにノイズを混ぜた自作曲をアップしてるんだろう」

「きょ、曲ぅ?」

「調教を受けている女性は、必ず定時にアプリを起動するように暗示をかけられているはず。アプリが立ち上がると、それぞれの女性用に用意されたファイルにアクセスし、それを聞かされるのさ」

「この変なのが……そのアプリ?」

「そう。ファイルは公開されてるけど、一般の人がもしそれを聞いてもノイズだらけのつまらない音楽だよ。でも、そのノイズの中に調教に必要な命令が仕込まれてるんだろう。アプリは、ファイルにアクセスさせて命令を拾い出すフィルターになってると思う」

「うわ」

「そうすれば、最初にミストでトラップにかかってしまった女性を、いつでもミストに呼び寄せられるようになる。さらに。暗示の効果が上がれば、スマホを通して女性を遠隔操作出来るんだ」

「そんなことが……」

「事実、出来ちゃうんだよ。光岡さんはそれにまんまとやられたってことさ。左馬さんのと同じものが、光岡さんのスマホにもインストールされてるはずだよ」

「うう」

「トレーナーは、ミストに来いと指示を出すんじゃない。定時にアプリを起動しろと命ずるだけで済む。それなら第三者に聞かれても、怪しまれない」

「そ、そこまで!」

「恐ろしく巧妙なんだよ」


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