(2)
フレディ、江畑さん、上条社長。今後の段取りを緊急に打ち合わせないとならないチーム員に情報と俺の行動予定を知らせて、やっと一息つけるようになった。でも、俺には片時も気を抜いている暇はなかった。光岡さんからの聞き取り。今日ミストの周辺で俺が見て、聞いて、感じ取ったこと。連中の起こしたアクション。それを全部重ね合わせて、俺の妄想に過ぎなかった最初の予想をゼロから全部組み直す。俺が開いている手帳の上は、瞬く間に蟻が這い回る隙もないくらい、真っ黒になっていった。
俺の頭の中。その大半を占めていたのは、怒りではない。今後連中が再稼働するのをどう阻止するか……その一点に絞られていた。すでに起こってしまったことを、時間を逆回しして元に戻すことは誰にも出来ない。今そのことを
貧乏探偵としてヒマネタをしこしここなしていた間に、すっかり錆付きつつあった思考能力。その錆をグラインダでがりがり削り落としているような、奇妙な緊張感と刺激、冴え。俺は、睨みつけている手帳以外何も目に入っていなかった。
その集中が、とんでもない奇声で突如ぶっ壊された。
「ぱ、ぱんつーーーーーっ!!」
どっごおん! 回転椅子の上であぐらをかいていた俺は、回転椅子ごと派手に横転して、部屋の中をごろごろ転がった。
「いでで……な、なんだあ?」
床から上半身を起こすと、真っ青になった左馬さんが股間を両手で押さえて立ち尽くしていた。
「お、正気に戻ったか」
自分がどこにいるか分からなくて、混乱しているんだろう。左馬さんの口からは、何も言葉が出て来ない。そのまま、腰が抜けたように床にへたり込んだ。
「済まん……」
俺は、その場で両手を床について床に額を擦り付けた。
「俺の見込みが甘くてね。左馬さんとフレディの調査員さん、両方とも危険な目に遭わせてしまった。本当に申し訳ない」
やっと状況が少し飲み込めたんだろう。
「あの、ここは?」
「俺の事務所さ。左馬さんは、ミストに入って早々に強烈な麻薬を飲まされた。そこでオチてしまったんだ」
「おち……た」
「トレーナーが、暗示をかけながら左馬さんをミストから連れ出した。それをすぐ追尾して、トレーナーから切り離してる。麻薬を盛られた以外は何もされてないよ」
ほっとしたんだろう。左馬さんは、それを聞いた途端に大声で泣き出した。
「わああん! うわああん! わああん!」
「済まん。申し訳ない」
俺は、ひたすら謝るしかない。
「床は冷えるから、ソファーに腰かけてくれ」
腕を掴んで引っ張り上げ、肩を抱いてソファーに座らせる。事務所の隅に置いてある段ボール箱からミネラルウォーターのペットボトルを引っ張り出し、それを手渡した。
「事務所には水を引いてないんだ。こいつで我慢してくれ」
「あ、ありが……と」
まだしゃくり上げてはいたけど、少し気持ちが落ち着いたんだろう。ペットボトルの蓋を勢いよく外した左馬さんは、喉を鳴らしながら水を一気飲みした。豪快だなあ……。
「ふうう……まだくらくらする」
「本当に、予想外のことばかりだよ」
はああっ。俺はもう一度回転椅子の上であぐらを組んで、手帳をにらみつける。
「こんな行き当たりばったりは、絶対にごめんだ!」
「でも、しょうがないんでしょ?」
「今回はね。でも、どっかに予兆があったはず。それに誰かが気付いていれば……もっと早くに手を打てた。後手後手だよ。くそっ!」
目が覚めた時の強烈な恐怖心が薄れて、徐々にいつもの状態に戻ってきたんだろう。身を乗り出した左馬さんが、直に突っ込んできた。
「それで、証拠は確保出来たの?」
「当初採取する予定だった、検体の確保に失敗した」
「えっ?」
「フレディのところの調査員さんも、左馬さんと同じさ。まんまと薬を盛られちまった。二人組みだったから、暗示をかけられるところまでは行かなかったんだけど、二人を切り離しにかかってるんだよ」
「う……わ」
「ベテランさんは囮を脱出させるのに精一杯で、検体を採取出来なかったんだ」
「じゃあ、証拠は確保出来なかったの?」
左馬さんの落胆ぶりは、はんぱじゃなかった。結局、何一つ役に立たなかった……そう思ってしまったんだろう。いや、左馬さんに体を張ってもらった意義はものすごくでかいんだよ。検体の確保とトレーナーの確認、目的を両方達成出来たからね。
「ファクトは確保出来る。検体は調査員さんの尿さ。これから超特急で分析に回す。江畑さんが手ぐすね引いて待ってるんだ」
「あっ! じゃあ!」
ばっと左馬さんが立ち上がった。
「そう。左馬さんの尿も立派な検体なんだ。採尿に協力してね」
「もちろんよっ!」
さっきまでの意気消沈が嘘のように、闘気を取り戻した左馬さんが肩をいからせた。
「実際に薬を盛られた調査員さんと左馬さんの尿を証拠にすれば。トラッパーを、麻取だけでなく傷害罪でアゲられる可能性があるんだ」
「それって、違うの?」
「全く違う。麻取なら、所持だけだと大した刑罰にならん。しかもミストに来ている被害者がユーザー扱いだ。何の咎もないのに犯罪者になってしまう。会議の時に言った通りさ」
「うん」
「でも、ミストに初めて来た調査員さんと左馬さんが自分の意思に反して薬を盛られたこと。それを証言すれば、麻取ではなく傷害罪での逮捕になるんだ。その男だけが間違いなく加害者になるから、ずっと攻め手が増える」
「そうか……」
「ただ、トラッパーは最初から切り代なんだよ。あの店のマスターは、自分の罪状が何であっても有罪になって失う時間や信用以上のものを金銭で得てるはずなんだ」
「ぐ……ぐうぬ!」
左馬さんの顔が、みるみる怒りで真っ赤になった。
「いや、それでもあいつはまだマシだよ。その背後がもっと厄介だ」
「背後……っていうと、センサーとトレーナー?」
「そう。左馬さんを連れ出そうとしたトレーナーは、間違いなくすけべじいさんだ。俺のプロファイリングが当たった。でも、そいつもトラッパーと同じで切り代になってる」
「うそお?」
「じいさんの目的は、極上の女を抱くことさ。トシがトシだし、金にはそんなに強い執着がないんだろう。その上、トラッパーと違ってじいさんの加害を実証することは出来ない」
悔しくて悔しくて。そんな風にぼろぼろ涙を流しながら、唇を噛む左馬さん。
うん。本当に心根がピュアだよな。挫折知らずで、真っ直ぐな感情と感性をずっと自分の中心軸から外さずに育ってきた女性。その対極にあるひねくれ者の俺は、左馬さんのあまりの真っ当さに溜息が出る。
「それでもね。トレーナーにはまだ隙がある。だから切り代なんだよ」
「隙?」
「そう。調教効果を確かめるための売春。ヤの字との交渉窓口になっているのはたぶんトレーナーだ。トラッパーは店を離れられないし、ヤクを扱っている以上売春にも絡んでいることは覚られたくないはず。罪科が重なると、刑がぐんと重くなるからね」
「うん」
「バイヤーとの窓口もトレーナーだろう。つまり、外のヤバい組織と直に接触する部分は、最初からトレーナーに絞り込んであると思う」
「じゃあ……」
「そいつを逆手に取れば、トレーナーを屈服させるのは難しくない。そっちはいいんだ」
「残るはセンサー?」
「ああ。そいつはあちこちに安全弁を作ってしまっているから、俺たちは何をどうやっても攻め込めない。そいつが首謀者であるにも関わらず、ね」
左馬さんの顔色が、赤から青に変わった。
「最終的にはそいつをオトさないことにはどうにもならん。また同じ悲劇が繰り返される」
「うん!」
「ただ、今の段階ではセンサーにつながる材料が全くないんだ」
「えええっ? 確認出来なかったのおっ?」
ううう、辛い。俺のギャンブルが外れたっていうのは事実だからなあ。
「出来なかった。もっとも、それは想定内さ。囮に対して動くのは、最初からトラッパーとトレーナーだけだと思ってたからね。用心深いセンサーは、何があっても動かないはず」
「……」
「それでも、店内にいる人物の行動監視が出来れば当たりが付くと思ってたんだ。ミストの店内の様子が外から見られないってのが最大の誤算だった。調査員さんと左馬さん、二人とも入店早々に一服盛られちまったから、センサーにつながる情報は全くゲット出来なかった」
「くっ!」
まんまと敵にしてやられた自分自身が悔しいんだろう。左馬さんが、全身をぶるぶると震わせた。そうさ。悔しいのは俺も同じだ。だが、そいつを反攻のエネルギーにしないと意味がない。
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