(6)

「先ほど言いかけましたが、私の探偵稼業は、今の業態を維持しようとする限りもう先がありません」

「あの……どして?」

「今住んでるアパートの家賃は、二万。そこを退去しろと言われてるんです」


 がたっ! 光岡さんが、ソファーから跳ね上がった。


「そんな安く借りられるアパートがあるんですか!」


 そっちかーい。俺は思わず苦笑した。暗示が解けても、光岡さんの基本は天ボなんだろう。まあ……いいけどね。


「私はどんなにおんぼろでも寝起き出来ればそれでいいんですが、この辺りで訳ありの安いところを探しても、最低倍はかかります。今までのライフスタイルは、もう維持出来ないんですよ」

「そっか……」

「稼いだ分を家賃と生活費で全部使い尽くすようになったら、何かあった時が私の人生の終わりになってしまいます。ここで、一度リセットをかけないとならない。そういうタイミングで光岡さんの案件が来た。天の配剤なんでしょう」

「わたしは……どうすれば」

「その前に」

「ええ」

「今の時点で私が推測していること。その中身を最初から筋立ててお話します。それを、あなたがご存知のことと擦り合わせさせてください」

「分かりました」

「話し合いが深夜に至るかもしれませんが、ここで手抜きは出来ません。帰りはタクシーを呼びますので、どうかお付き合いくださいね」

「ええ」


 聞き取りの結果を書き留めた手帳を見回しながら、話を切り出す。


「一番最初に、私が現時点で仮置きしている結論からお話しします」

「はい」

「光岡さんは、非常に深い暗示をかけられています」

「暗示……ですか」

「そう。世間一般には催眠術なんていう言い方をしますね。でも、催眠じゃない。暗示です」


 しばらく考え込んでいた光岡さんが、こくっと首を傾げた。


「なぜ、わたし……なんでしょう?」

「最初に、光岡さんに確認させていただきました。あなたは非常に男好きする容姿なんですが、あなた自身は異性への関心がありますか、と」

「はい」

「で、光岡さんはないと言いましたよね? それも、即座に」

「はい。興味ないです」

「興味がないんじゃない。嫌ってますよね?」

「……。はい」

「容姿の優れた人には、いろいろな誘惑が降ってきます。それは人間性の評価ではなく、人間をモノとして見る評価。光岡さんは、そういう汚れた視線が我慢ならない」

「その通りです!」


 くっきりと意思が示された。


「今の会社を選択されたのも、そういう意図が背景にあるんじゃないですか?」

「よく分かりましたね? そうなんです」

「女性の多い職場なんでしょう?」

「八割が女性です。管理職も全て女性です」

「なるほどね。でも、それが裏目に出たんですよ」

「はあ!? う、裏目って……」

「男性に対して媚びない女性は、逆に男性の支配欲を掻き立ててしまうんです」

「うっ」

「光岡さんは、『商品』の素材としてとても上物だと見られてしまったんですよ。一人を好み、群れない。ということは、人付き合いが限定されてるということ。自分を安売りしない人は、それだけ他人との接点が少ない。人間関係が限られているんです。つまり、良からぬ輩が光岡さんに手を出しても、あなたから外に漏れにくいということになります。事実、漏れていませんよね?」

「……はい」

「容姿が整っているのに、それを誇示しない。ケバさや、だらしなさがない。つまり、おしゃべりで低俗な連中が光岡さんに絡みにくい。それは、光岡さんが原石として素晴らしいというだけじゃない。光岡さんに絡んでプライベートをべらべらしゃべりそうな不快害虫を心配しなくてもいいということなんです」

「あ……」

「そして。大人しいけれど、決して誰にでも従順というわけではない。意思は強い。芯はしっかりしている。逆に言えば、それをがっちり押さえ込んでしまえば、あなたに外的抑圧を加えた時の効果が切れにくい」


 俺は、光岡さんに向かって一本ずつ指を折っていった。


「つまり光岡さんは、容姿だけでなく性格的な部分も含めて、極めて調教しがいがある女だと、目を付けられてしまったんです」

「調教……って。なんのために……ですか?」

「それは後ほど説明します」

「はい」

「手口の部分は、本筋には絡まないので話に織り込みながら説明します。それより、光岡さんを調教しようとしているやつの目的を暴かないとならない」

「目的?」

「そう。女の子をだまくらかして、ただでえっちしようなんていうガキのいたずらレベルじゃない。そんなばかばかしいことを、二か月もかけてするやつなんていませんよ」


 ぞっとしたんだろう。光岡さんが、青ざめて俯いた。


「二か月という期間は、光岡さんの自我を削り取るために割いた準備期間なんです」

「自我を……削る……ですか」

「そう。光岡さんは記憶を失っているんじゃない。何も覚えるなと強要されている。その強い暗示の効果が三時間ほど持続する。でも、その効果が三時間で切れてしまうと、裏で糸を引いてるやつの目的には届かない」

「目的……って?」

「人身売買です」

「!!」


 がたあん!! 真っ青になった光岡さんがソファーから飛び降りて、がっくりと膝を折った。


「まだ確定じゃないですよ。最悪のケースならば、です。でもね、単なる高級売春婦の養成だけで、こんな手の込んだ調教なんかしませんよ。国内なら、いつガサ入れが入るか分からないからね」


 俺は、手帳にいくつも丸を書き加えながら、ただの断片だった推測をつなげていく。


「まだ就職したばかりの大卒の女。交友関係が狭く、大人しく、容姿が整っていて、親元から離れていて一人暮らし。そういういろんな条件を満たす上玉の女を、光岡さんがよくお茶するところでいつも物色しているやつがいる。そいつが探査役。センサー」


 トラップの起点だ。


「そのセンサーが見つけたターゲットの女に一服盛って、暗示にかかりやすいような状態に持っていく役。多分、その店のマスターでしょうね。それが罠掛け役。トラッパー」


 そいつが引きずり込んで。


「トラップにかかった女が朦朧としているところに近づいて、介抱するふりをしながら強い暗示を何度もかける術師が、調教者。トレーナー」


 プロが調教し、仕上げる、と。


「そ……んな」

「トレーナーは、調教の効果を実地で検証する必要があります。思い通りになる上玉の女を安く抱けるぞとエサを撒き、客を取って調教の効果を確かめているんでしょう。調教を施している女に売春させて儲けを出すことが主目的じゃない」

「う……」

「暗示の効いている時間帯に、きちんと調教の成果が見られるようになれば、その女を日常から外す。失踪させると警察が動きますから、女に指示して会社を自主退職させ、見かけ上『正規に』表から裏へ移す」


 机の上の手帳を手のひらで覆った。そいつは、俺からも光岡さんからも見えなくなる……。


「裏に移してからは暗示を強化し、常時監視下に置いて徹底的に自我を削り取り、肉奴隷を完成させる。あとは、バイヤーとの交渉ですね。その女を合法的な手段で出国させ、海外で売り飛ばす。国際結婚という形なら、いくらでも可能ですから」


 光岡さんは、絶句していた。悲しいとか、怖いとか、悔しいとか、そういうレベルじゃない。なぜ自分が……そういう驚きが心を支配していたんだろう。


「完成品を作り上げるまでのプロセスは、あくまでもトレーニングです。なので、連中は中途で脱落した女を深追いはしないでしょう。でも、光岡さんの場合、自我の侵食がもう危険水準にまで達しているんです。先ほど、私が服を脱げと命じたことを無批判に実行しようとしましたから。誰からも暗示を受けていないのにね。しかも、その記憶がない」

「そうか……」

「さっき私が類推した彼らの調教ステップの、もう後段に入ってるってことなんですよ」


 ふうっ。溜息を一つ放り、それを挟んで手帳を閉じる。


「もちろん、今私が話をしたのはあくまでも推測。それも、最悪のケースを想定した場合のこと。単なるいたずらとか体目的なら、まだマシなんですけどね」

「あの……わたしは、どうしたら」

「そう。そこなんですよ」



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