(5)
「今、私が言ったことを手帳に記録されてますか?」
「あ、しまった……」
「いえ、かまいませんよ。それは、あなたに異常を感じ取ってもらうための小道具ですから」
「小道具……ですか」
「そう。今の会話のやり取り。私の調査には必須のことですから、私は必ずメモを取ります」
開いた手帳を、光岡さんに向けて開いた。
「普通はね、あなたがそれを認識した時点で、自分が記録する必要なんかないじゃんて思う。コピーして、確認させてって。私が最初あなたの免許証をコピーしたみたいに」
「あ……」
「でしょ?」
「はい」
「でも、私が最初に記録を取ってくださいとあなたに『命じた』こと。あなたが、それに逆らえなくなっているんですよ」
光岡さんが、再びぼーっとするモードに入った。俺はちょっと強い口調で命令を出した。
「光岡さん! 服を脱いでください!」
まるでロボットのように、光岡さんが着ていたジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスのボタンに手をかけてそれを……。
「そこまで!」
「え? あ!」
自分の状況に気付いた光岡さんが、慌ててブラウスの胸元を手でかきよせた。
「そう言うことなんですよ。ヤバいなあ」
俺は持っていた手帳をぽんと机の上に放り投げ、頭を抱え込んだ。どないすべ。
「ううー、こらあ私の処理能力を超えてます。へっぽこ探偵にはどうにもこうにもキャンノットだなあ」
「そ……んな」
「いや、光岡さんが最初に望んでいた依頼は承けられますよ。あなたが退勤後にどんな男の後にくっついてラブホに行くかなんか、苦もなく分かります。でも、それだけじゃあ、何の意味もないでしょう?」
「……はい」
「ううー。普通は、何かを解決するために分からない事実を明かさなければならない。でも、光岡さんの場合は逆。事実はほぼ明らかになっていて、それを元にどうするか、対策を立てないとならない。そらあ探偵の仕事じゃないです」
「じゃあ」
「警察の仕事ですよ。でもね」
「はい」
「警察じゃ、あなたの訴えをまともに聞いてくれないでしょう」
「どうして、ですか?」
「あなたに、いやいや男の後を付いていく素振りがないからです。それは、あなたと男との合意の上だろうと言われても反論出来ない。つまりね、警察では、あなたが記憶を失っている間の行動をまともに解釈してくれないんです」
「はい」
「それだけじゃない。もしあなたが記憶を失っているのが分かってて自力で被害を回避する努力をしないのなら、それはあんたが好きでやってるんじゃないか。そう思われてしまうということなんですよ」
ぼーっとしてる。そういう態度の変遷を見ていると、相当強固にマインドコントロールされてるってことなんだよな。参ったな……。
俺は、光岡さんの手元からさっと手帳を取り上げた。そのアクションで、光岡さんがはっと我に返った。
「あ、あの?」
「あなたがもし、誰かにその手帳を渡せと言われたら」
「はい」
「渡してしまいますよね?」
「あ……」
「もう一度言います。これは、私が業務として承けられる案件ではないです。そして、本来その任に当たるべき警察がまともに取り合ってくれないであろう、とても厄介な案件です」
「どうすれば……」
俺はしばらく苦悶した。そして、覚悟を決めることにした。
「最後がこれまでで一番の難題……か」
「え? 最後……って?」
「私は、探偵の縛りを外さないと一切動けません。あなたの依頼を断るか、私が探偵を止めて付き合うか、どっちかしかないんです」
光岡さんの落胆の表情は、これまでで一番強かった。
「付き合いますよ。最後までね。潮時だ」
ふう……。
「どこかでピリオドを打つなら、こういうきっかけもありと言うことなんでしょう」
俺の返事を聞いた光岡さんが、さすがに慌てた素振りを見せた。
「あ、あの、あの! ど、どういう?」
「光岡さんの話しにくいことまで話をさせてしまったので、私の事情もオープンにしましょう」
「は?」
「この件をなんとかするためには、これから一切の隠し事は出来ない。少なくとも、光岡さん側に立つ人には全ての情報をオープンにしておかないと、誰も身動きが出来ないんです」
「??」
光岡さんには、まだ分からないらしい。
「つまりね、光岡さんのプライバシーを、光岡さん側に立つ全員が共有することになる。それなのに、光岡さんがサポーターのことを何も知らないという状況には出来ないんです。それはあまりに不公平だからね」
「不公平……ですか」
「ええ。情報差があまりに大きいと、光岡さんがサポーターに不信を覚えてしまいます。対策がうまく行きません。なので、光岡さんにも私の個人的な事情をよく知っておいていただきたい。その上で、依頼するかどうかをよくお考えください」
「ありがとうございます」
ふう……。
「ええとね。わたしは二十七の時に大手の調査会社から独立して、今の事務所を立ち上げました」
「はい」
「それから七年ちょっと。小口の依頼を細々こなしながら、なんとか今までこの稼業をやってきたんです」
「そうなんですか」
「ええ。でね。そろそろ、しんどくなってきたんですよ」
「お仕事が、ですか?」
「いいえ。この仕事は大好きですよ。私の天職だと思ってます。でもね」
「ええ」
「稼ぎが……ないんです」
「あ」
「うちは大手に比べて、良心的以下の価格破壊レベルの依頼料しか取りません。私のポリシーとしてその料金体系に固執しているわけじゃない。安くしないと、こんな弱小事務所には客が来ないからです」
「うわ……」
光岡さんが、初めて驚いたという表情を見せた。俺は腕時計を見て時間を確認する。九時をかなり回ってる。そうか。そろそろ魔法が解けてくる時間なんだ。俺の予想を裏付ける変化が、ちゃんと見えてきた。
「それでもね、入ってくる分が少なければ、出る方を絞ればいいこと。独立前から、私の生活費は家賃込みで五万です」
「ちょ! そんなこと、可能なんですか?」
おお! リアクションが大きくなった。本格的に縛りが解けてきたらしい。
「可能だから、私が生きてて、ここにいるわけです。もちろん、収入が五万しかないということじゃないですよ。でも、いずれ今の業態では立ち行かなくなる。規模を上げるには手元資金が要る。それを貯めないとならないから」
「ああ、そういうことかー」
俺は、ひょいと光岡さんを指差した。
「光岡さん」
「はい?」
「今、何時ですか?」
光岡さんが、バッグからスマホを引っ張り出して時間を確かめた。
「九時三十分くらい、ですね」
「ご自身の変化に気付かれていますか?」
「あ!」
光岡さんが、慌ててきょろきょろと周囲を見回した。
「あなたは、待ち合わせから先ほどの打ち合わせの時間までの二時間ほど、ほとんどぼーっとされてました。私とどんな会話を交わしたか、覚えておられますか?」
しゅんとなった光岡さんが顔を伏せた。
「部分的にしか……」
「ですよね? つまり、いつもはもっと強い抑制がかかってる。その間のことを全く覚えていられないくらいの、ね。今日は、会社を出られてからすぐこちらに来られたんですよね?」
「はい」
「ですから、その抑制がかからなかった。それで、まだらにでも記憶が残ってるんです」
「……あの、なぜ……抑制……ですか?」
俺は、さっき光岡さんがメモを取っていた手帳を渡した。
「私とのやり取りを、よーく読んでみてください」
最初は落ち着いて文面を追っていた光岡さんは、その後真っ青になり、最後は涙をこぼし始めた。
「うー……」
暗示から外れて、感情を取り戻した……か。手帳を返してもらって、机の上に放る。突っ込んだ説明をしなければならない。椅子に深く座り直して、背筋を伸ばす。
「光岡さん。この件、あなたが想定しているよりずっと根が深い。ヤバいんですよ。あなたをたらし込んでる男を特定して、その事実を携えて警察に相談する。そういうレベルじゃない。あなた一人ではどうにもならないところまで来ています」
「どうすれば……」
「それを、これから考えましょう。そのためには」
俺は、机の上に投げ出してあった二冊の手帳を重ねて、ぱんと膝に叩き付けた。
「光岡さんより、私が覚悟を固めないとならない。今の立場のままでは動けませんので」
「どうして、ですか?」
「私一人ではどうにもならないからですよ。光岡さんが窮地を脱するにはサポーターが要るんです。どうしてもサポートチームを組まないとならない。そのためには、私が今の立場に留まるのはまずいんです」
光岡さんが、俺をじっと見つめる。
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