#7 東京行きのスロウ・ボート
「ざっと十五万円ある、ナカタ君」
翌日、サチコは僕に言った。それが売り上げのすべてだった。僕はお金のことなんか全く考えずに続けていたけど、その金額を聞いてなんともがっかりしてしまった。経費を抜くと、いくらも残らない。
「高速バスで東京旅行ぐらいいけるよ」
「東京旅行か。そういえばそんな話してたな」
僕らは東京旅行の計画を考えた。予算が予算だから、一番安いバスの料金を調べないといけないし、まともな宿代が出ないのでマンガ喫茶に泊まろうなんて話した。二年前の観光ガイドを回し読みした。サチコは子供っぽく見えるから水族館は中学生料金でごまかそう。そんな会話。
ぼくらの東京旅行の計画は、話せば話すほど具体的で巧妙なものになっていった。そして実現の可能性はどんどん薄れていった。
僕らは一向に出かけようとはしなかった。二人ともヒマでヒマでしかたがなかったし、荷物を準備すればすぐ出かけられるのに、出かけない理由はいくらでも見つかった。
「ところでさ。養殖、来年もやるの? 来年はうまくやれるかな」
「いや、来年はむりだね。ウシガエルの飼育は禁止になるんだ。この商売は今年で終わりさ」
サチコは新聞記事の切り抜きを見せてくれた。サチコが言ったことがそのまま書かれていた。要するにウシガエルの養殖は違法になるということだ。
「まあ、やりようはいろいろあるさ。せっかく水槽があるんだし、秋冬の間にいろいろ考えてみようよ。スイレンの栽培なんて仕事になりそうじゃないかい?」
また金がかかるプランだ。
「そう、か」
「残念?」
「すこし」
タケ君が死んだ。
結婚式を一週間後にひかえた朝のことだ。工場から家に帰る途中だったという。夜勤明けの朝、大きな交差点で、彼のバイクはあるべき軌道を大きくそれた。
僕らの東京旅行予算は香典に消えた。
タケ君と結婚するはずだった女の人が親族の席に座っていた。彼女の腕の中で赤ん坊がむずがっている。棺桶の中のタケ君の死体には、死化粧で隠された縫い目がふたつあった。
どうか骨を拾ってあげてくれ、と頼まれた。
北海道のような形をした骨を一つ拾った。
葬式の帰り道、僕はサチコに言った。
「かなめ石をひっくり返そう」
「は?」
「ひっくり返すんだよ、あの石を」
「ちょっと何を言っているのかわからないけど」
サチコは顔をしかめる。こいつにそんな常識的なことを言われたのは初めてだ。自分でも何を言ってるかよく分からなかった。僕は強引にサチコを引っ張って家に戻った。喪服を脱ぎ捨てて、倉庫からシャベルや手押し車やロープ、とにかく岩をひっくり返すのに使えそうな道具は全部出した。
「ひっくり帰ったら、この町出よう!」
サチコはぽかんとした顔をする。
「ナカタくん? え? あ、うん、まあいいけど」
僕らは子供のころと同じように穴を掘った。すぐに穴は、むかし僕たちが掘ったのと同じぐらいの深さに達した。あのときは手を血だらけにしなければならなかったのに。大人の手では簡単に掘り進めてしまえる。
頭の上でビワの木が鳴っていた。ざわざわざわざわ。
全身汗まみれになりながら、暗い穴にスコップを差し込み、冷たく湿った土をかき出すことを繰り返した。かなめ石の地下に埋まった部分は、地上部とそっくり同じ形をしていた。
穴が腰まで埋まるぐらいの深さに達するころには、日は沈んでいた。満月だった。月明かりの下で、材木置き場から丸太を盗んできた。真っ暗なビワの木の下で、石の下に丸太を差し入れた。
僕たちは飛び上がって丸太の端につかまり、体重をかけた。僕もサチコも体力の限界で、ぜいぜい息をしている。汗に塗れたサチコの額が、少し光って見えた。丸太の端がわずかに沈む。
「動く」
僕とサチコの乗った側が沈めば、かなめ石がその分だけ浮き上がった。今度は気のせいではない。石は土からゆっくりと持ち上がっていた。白い石肌が土の中からずるずると出てくる。まるで産卵するみたいに。
「浮いた」
かなめ石は水平になった丸太の先端で、倒れずに静止していた。それは完璧な上下対称の形をしていた。
僕とサチコは互いの息のにおいを感じながら顔を見合わせた。
次の瞬間、丸太が折れた。
丸太は雷のような音を立てて折れ、かなめ石は地響きをたてて土の中に戻った。
「終わった」
サチコが宣告するように言う。
「でも、まだ」
「終わりさ。あきらめよう。ナカタ君。ぼくらは十分やったよ」
かなめ石は、完璧に元のままの位置に戻っていた。何事もなかったかのようにそこに存在していた。もう石は持ち上がらないだろう。すべては終わったのだ。
「もう一度挑戦したって、もう無駄だよ。ぼくにはわかるんだ。きみにもわかるだろ。これはそういうものではないんだ」
汗が目に入って、涙がぼろぼろ出た。口の中が塩辛かった。
翌日、サチコは僕の家にきた。彼女はまたモリを手にしていた。
「もうカエルは採らなくていいんだろう?」
「ぼくらが食べる分だよ。ナカタ君なんかかわいそうだから、からあげでも作ってやろうと思って」
その日も僕たちはカエルを狩った。
探した。見つけた。狩った。探した。見つけた。狩った。
その日は不思議な日だった。いくらでもカエルが見つかったのだ。カエルたちは逃げるようなそぶりも見せず、まるで順番でも待つように僕らに殺されていった。なぜだろう。たぶんこの世界の何かが、昨日とりかえしのつかないような形で変わってしまったんだろう。
カエルたちの澄んだビー玉のような目が、僕らを丸く映し出している。殺せ殺せ。ピンク色のバケツが、カエルの脚で満たされていく。
「うちの子はわんぱくだね」
カエルを突き刺しながら、サチコは冗談を言う。
「笑えないよ、それ」
「そうかな」
僕は笑う。
「変なナカタ君だよ」
いつも変なサチコはそういって笑い、カエルをモリの先端に刺す。
「ひっさつ!」
「何が必殺だよ」
またカエルが流れ星になる。
友よ、東京はあまりに遠い。
アースウインドアンドフロッグ まくるめ(枕目) @macrame
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