第8話

「いいかげんにしていただきたい。ここは我々の学校の敷地内なのですよ。

 そんな物騒な武器は片付けてください。それに、私から言わせれば、今のは当たった愛仁君が悪い」


 俺を守る為か、天さんは執事をなだめようとして、それが無理だとわかると今度は煽り出した。


「そうだぞ、和太成部。銃を下ろせ。試合中だ」


 へえ、この人、和太成部って名前なのか……、なんて俺が思っていると、その声の主が、俺の視界の隅で立ち上がる。


「愛仁様!」

「うむ」


 しかめっ面で首を一回鳴らし、愛仁は自分の無事を荒れ狂う執事に示した。


「そ、そうだぞ! お前が悪いんだ!」


 俺は被害者に便乗し、自分の正当性を示すことによって、復讐者の怒りを収める作戦に出た。

 が、銃を収めた後も厳しい表情に変化は見られない。


「しかし、やられたよ。腕に負荷を与えていた、ってだけでも十分驚いたけど、それすらもフェイントで、本当の狙いはワタクシをおびき寄せ、直撃させることだったんだね」

「ああ! 目には目を、歯にも目を! だ! 俺はハンムラビみたいに甘くねえぞ!

 やられたら、その人が一番困る所に報復するのが俺の主義だ!」


 愛仁が俺の行動について話をしてきたので、俺も少しテンション上げて応える。


「……その言い方、やっぱり肘の事を怒ってるのかな?」


 痛みにしかめていた眼差しが、どこか淋しいものに変わる。


「ああ、そうだぜ」


 便乗。


「これが、あの日、俺の受けた痛みと悲しみだ」


 と重々しく言ってみる。本当は全然恨んでないけど、まあ、こういう事にしておけば、今の一撃も割と同情的にみんなが見てくれるかもしれない。

 それを狙っての発言だ。そうだ、あくまで、肘のお返しだったんだよ。


「いや、逆恨みにも程があるでしょ……」


 最大の味方だと思っていた蛭女による裏切り発言。しかも正論。無視するしかない。


「いや、まあ、今の一瞬は楽しかったよ。ワタクシを見てくれているのだと感じられた気がする」


 おお、愛仁……。俺を擁護してくれているのか。何か気持ち悪いし意味不明だが。

 てなわけで、水に流してサーブの構えをとる。


「『15―0』」


「え? なんで? なんで王ちゃんちゃっかりとサーブ打とうとしてるの!? 何のお咎めも無しなの!? 野放しにしていいの!? あれ? しかも王ちゃんが得点したことになってる! アレが初得点? あんな危険球、普通なら失点とかじゃないの!?」


 と、どうやら俺の処遇に不満があるらしい蛭女が大声を上げ、周囲に問い詰めている。声の大きい蛭女の意見が正しいような気がしてきた野次馬もいるようで、困惑した空気が漂う。

 そんな空気で割って入ってきたのは天さんだ。


「さっきも言ったけど、ボールに当たる方が悪い。

 いいか? まず根本的に、テニスってのはラリーが始まったらボールに触っちゃダメなんだ。

 何でかは、わかるよな? それを良しとしてしまうと、例えばボールを投げ返したり蹴り返したり、あるいはボールを一旦持って、それから自由に打てたりも出来てしまうんだ。

 だからボールに触るのはダメ。で、当てられたってことの問題なんだけど、それも、テニスってのは例えば野球みたいな狭いバッターボックスってのはなくて、コートの中を自由に走り回れる。

 だから、そもそも当てようと思っても当てられない、当たらない。

 それに対して、ボールも比較的柔らかいし遅い時もあるから、簡単に『当たりに行く』ことは出来ちゃうんだ。

 故意にってことだよ? そして、それが故意かどうかを見破る方法はない。

 だから、まあ総合的に見て、当たる方が悪いってことで失点するようにしているんだ」

「へぇええ~! そうなんだ~! やっぱり王ちゃんは正しいんだ! 仁君は悪いヤツなんだ! いっけ~! 王ちゃん!」


 蛭女は平等だなぁ。

 例え敵でも味方でも、正しい方を応援するんだね。可愛い。


 さらに都合の良い事に、野次馬から向けられた俺への眼差しが温かいものになった。

 俺への不信感が消えた、というか。まあ、天さんの長々とした解説と蛭女のデカイ応援のおかげでもあるのだろう。


 気分は悪くない。俺は心置きなくサーブを打つ。


 ……アレ? で、どうすりゃいいんだ? 俺の計画としては、ここで愛仁は立ち上がることなく決着していたんだ。

 それがどうだ? 愛仁は普通に立ち上がってる。

 まあ、やっぱりちょっと人間の意識をトばすには威力が足りなかったんだろうけど、問題はそこじゃない。今後のプレイだ。


 愛仁を襲った肘の痛みももう引いたハズだ。引いてしまったハズだ。アレは一過性のもの。

 もちろん、コレは俺の慈悲ではなく、一過性の痛みを起こさせるのがこの試合中での限界だっただけ。

 何故なら故障というのは、この一過性の痛みを無視して何度も何ヶ月も無理をした場合に起こるのだから。

 俺がそうだったように。だから、この試合中では、この『一過性』が限界。


 もう一回直撃を狙ってみるか? いや、できるわがけない。あの一撃は確かに効いたハズだ。警戒するに決まっている。また肘に負担かけて、痛みが走って、驚いて、打ち損じて、ネット際までノコノコと走ってきて、俺の球に当たってくれる? まずないだろう。避けられるポイントが多すぎる。


 結局、一回コッキリで、見破られたり防がれたりしたら通用しなくなる、そんな作戦なのだ。そんな作戦でしか闘えないのだ。


 と、迷い浮き足立っている俺に、強烈なレシーブを愛仁は叩き込んできた。

 一旦、この思考はカットだ。俺は例の通り喰らいつき、『壁』で返す。

 打球の行く末を見届けて、『構え』と『戦況』からコースを予想し走り出す。変化があったのはここからだ。


 愛仁の打球が猛烈な勢いで迫ってくる。


「速ぇえ!」


 ギャラリーが驚いたのはそっちか。

 だが、真に驚くべきはそこじゃあない。

 そう、コースだ。愛仁は俺の走っているコースへ打ってきたのだ。全力で。

 変えてきた。肘に負担をかけないように、俺が向かっている最善のコースへ打ってきた。


 当然、俺は通常の、反応してから走る選手より早く打点にたどり着く。だから俺はゆったりとした丁寧な構えをとることができる。愛仁からしてみれば、もうそれは止むを得ない問題なのだろう。

 そして、この俺の丁寧な構えごと突き破るつもりなのだ。


 それでいい。それが正解だ。俺ならそうする。

 考えた結果が、思考停止した人間と全く同じ行動になることなんて世の中ザラにある。


 さあ、来い!


 って、うわ! もうだいぶ来てる!


 迷いを捨てた打球は、余裕を持ってポジションに着いている俺をも焦らせる。

 だが、反応できない俺ではない。全国を制覇した、反射と反応は残ってるんだ! ラケットの真ん中で捉える!


 ギュワッと、ガットが悲鳴を上げラケットが軋む。ボールが、まるで生きているようで、俺の大事な領域を抉りとっていく気分だ


 これはもう、サーブに準ずるスピードと威力だ。

 だが、姿勢を整えれば、鍛えた『壁』で、返せない、程、で、は、ない!

 バン! という、あそこまで抉りこまれていた割に、高く快い音がして、放たれた打球は愛仁の方へと飛んでいく。成功だ。


「返した!?」


 というのはギャラリーからの驚き。


 やはり左腕の動きを最小限に留めている『壁』なら、愛仁の本気のストロークも返せる。

 もちろん、ドンピシャでポジションに着き、余裕を持ったフォームで迎え撃たないといけないが。


 よし、これでいくか。


 ラリーを続けようぜ、愛仁。長い長いラリーを。

 『気絶狙い』なんて俺はもうしない。正真正銘のラリーをしよう。

 俺はコースを予測し、お前は本当に打ちたいところに打つんだ。愚直に。

 俺達の気が合ったのなら、俺も必要以上に走り回ることはない。そうすれば、俺もさっきまでのラリーよりミスも減るしな。

 でもって、お前も怪我はしない。長くなるぞ。長いラリーだ。屈辱だろ? こんな俺と長いラリーなんて。


 ホントーは、さっきの一撃喰らう前からも、お前は俺の走った方向に打つべきだと知っていたんだろ? なんとなく。

 でもプライドが許さなかったんだろ? わかるぜ。今の俺なんかと長々ラリーをするなんて。

 で、結局お前は俺とのラリーを早々に終わらせる為、逆を打つようにしたんだ。

 肘をひねって。負担をかけて。


 それはお前のミスだ。相手に合わせたプレイをしようとして、自分のすべきことを見失ったお前の罪だ。

 次二郎にも似たような説教したぞ。お前にしては情けないプレイだ。


 今なら断言できる。やっぱりお前は、弱いヤツと闘ったことがない!

 だから戸惑っていたんだ。弱いヤツとの闘い方を知らないから。

 お前は公式戦でも、県大会からしか顔を出していない。

 練習試合も強い学校しか相手にしていない。選抜にも出なかった。

 お前は、自分より、遥かに弱い相手と闘ったことがないのだ。

 そして、こんな固定観念を持ってしまったのだろう。いつの間にか。


『弱い相手に本気を出すようではいけない』、『五割程度の流すような試合が出来ないといけない』、『神経をすり減らさない、リラックスした試合が出来ないといけない』という固定観念を。


 でも、それらは十分、『相手にしてる』ってことなのだ。

 確かに、自分より、『ちょっと』弱い相手ならそれも構わない。


 だがな、愛仁よ、世の中には『想像を絶する』ザコってのが存在するんだ。『相手にする必要のない』ってレベルのザコが。

 この、俺のようにな。

 実力差が遥かにある相手に、そんな固定観念で固執していては、足をすくわれるぞ。

 例えば顔面狙われたり。


 思えば、お前は由緒正しい家系に生まれ、優秀な人間に囲まれここまで育ってきたのだ。

 一応、世の中には想像を絶するバカなんてのもいる、と頭の中では理解してもいたのだろう。

 でも、その実感はなかったに違いない。


 だから、そうしてそのまま大きくなってしまい、全ての人間を救いたがるような、偽善的でお花畑な発想をする大人が出来上がってしまうのだ。

 想像を絶するバカを知らないから。

 救う必要のないバカを実感していないから。

 でも、そんな人間は確かに存在する。


 この、俺のようにな!

 愛仁! 俺は、お前にはそんな大人になって欲しくないぜ。

 だから俺が修正してやる!

 もうちょっとだ!

 今の愛仁は、俺を相手にすることなく自分のテニスをし始めている。俺の一撃を喰らって。


 さあ、実感させてやろう! 救ってはいけないザコってのを!


 と、俺が息巻いている間に、俺の打った打球は、愛仁の真正面に飛んでいき、愛仁はそれを難なく打ち返す。

 すでに俺は、きっと打ち頃で快感だろうな、なんて考えながら、コースを予測して走りだしてる。


 俺に迫ってきた球の威力は凄まじい。1打ごとに興奮と驚きの歓声が湧き上がる。

 冷静になれば、ここまで威力が出せるのか。恐らく、テニスに関する全能力において愛仁の方が上。

 だから、余計なことを考えず、全力で打ち込めば、それだけで俺にとっては脅威なのだ。

 冷静になって、強い球を打つことに専念し、冷静になったからこそ、最高速度が叩き出せる。

 コチラとしては、一向に突破口が見えないので困ったものだ。


 ……なんてのは、呑気な悩みだった。


 愛仁のテニスは俺の想像より、もっと激しく徹底していた。

 俺は今更、それを実感することになる。


 俺は何とかやってきた最高速度の球を打ち返し、その打球は愛仁の方へと飛んでいく。

 で、打ち返される。それをまた打ち返す、繰り返し。


 そこで、あることに気づく。ある疑惑が生まれる。汗が吹き出す。

 走ってて暑いのが理由ではない。焦りからだ。


 でも、その走ってて暑いってのも、焦ることの理由だからまんざら間違いでもない。

 そして、さらなる繰り返しの中で、疑惑が確信に変わる。


「ハァ、ハァ……! なんで!? 畜生! ハァ……!」


 このラリー……、走っているのは、俺だけだ。


 自分のコートのどこに打たれるか、打つべきか、相手の気持ちになって予測してから走っている。

 そこに愛仁は打ち込んでくる。

 さっきまで逆に打ち込まれてたから、それに比べれば、一打ごとの走る量は減っている。


 俺自信、楽になっているハズなのだ。


 問題は相対的な話。


 愛仁は、このラリー、一歩も動いていない。

 走ってないだけでなく、歩いてもいない。

 理由は簡単。俺の球が愛仁の真正面にしか飛んでいかないからだ。


「なによコレェ!」

「ぐ……、どうなってやがる!」


 と、ヒステリックな声が聞こえる。外野の言葉が理解出来る時点で、あんまり集中できてない証拠だ。

 ダメだぞ、俺。こうしている間にもラリーは続き、俺の体力はどんどん削られている。


 あと、もう一つ地味に驚いたのが、次二郎まで声を上げたことだ。結構真剣に見てくれてたんだな、と嬉しく思う。


 ただ、「どうなってやがる」なんて疑問は、疑問にすらならないほど明らかな理由があって、それは、俺が愛仁の目の前に返しているからだ。

 こうしている間にも俺は愛仁の真正面へ返し続けている。


 問題は俺だ。なんで俺は愛仁の方に打ち込んでいるのだろう。

 この「なんで!?」という言葉を口にしてから、ちょっと意識して考えている。


 で、その答えを見つけるための鍵はすぐに見つかった。


 無意識だ。


 だって、長いこと愛仁の正面に返していることに気付かなかったのだから。

 それはつまり、俺が無意識に愛仁の方へと打ち返しているということ。

 ちょっと実験してみよう。意識的に、愛仁のいない方へと打ってみる。

 といっても『壁』を使わないわけではない。『壁』を使って、反射角を打球につけるだけだ。


 腰を落とし、より集中して、慎重に、打つ!


 ビリっとした感触が腕に来る。ラケットで捉えたのだ。後はやや引っ張り気味にラケットをそらす。

 振るのではなく、そらす。より慎重に『壁』を成功させるために。球は俺のラケットから離れた。


 その瞬間に理解した。制御できていない。


 予感した通り、球はコートの外で跳ねた。


 俺の『壁』で打った球はアウトした。


「アウトォォオオオオオオ!」


 と審判がやかましくアナウンスする。嬉しいのか?

 とにかく、やっぱり『壁』に反射角を加えることは失敗した。


 当然これは異常な事だ。反射角を加える『壁』なんてのは、愛仁に一撃喰らわせるまで、ずっとやってきたことだ。

 だからこそ、お互いが結構走っていたのである。

 それが今、出来なくなってしまった。

 失敗した。

 しかも体がそれを理解している。

 だからこそ、失敗を恐れて無意識に角度をつけないようになってしまった。


「おや? 今のはワザとじゃ、ないよね? 気づいた、ってことかな?」


 俺は悔しくて小さく頷く。

 気づいてしまった。

 これは技ではない。現象であるのだと。

 この現象の原因は実力差だ。


 例えば自分にとって、超強力な球が来たとき、それを、せめてミスることなくコート入れよう、ミスることなくコートに入れる事を優先しよう、と思ったなら、その最善の方法は面を合わせることである。

 面を合わせる、とは向かってくる打球の軌道に対して、垂直にラケットの面を置くことを言う。

 これが出来れば、球はラケットの真ん中に当たり、球はブレない。


 さらに打球の飛距離がコートに収まりそうにない、と感じたなら、前に押し込むようにスイングした方がいい。

 弾く、という感覚と真逆の方法、押さえ込む、という打法をとるのだ。

 これで飛距離は落ちる。もちろん速度も落ちるが。


 さて、俺は今のポイントで、この両方の要素を持ったスイングをしていた。


 するとどうなるか?

 答えは、現に起こっている現象のように、向かってきた方へとブレずに真っ直ぐ押し進んでいってしまう。


 もう一度言う。原因は実力差だ。

 愛仁の打球に臆し、愛仁の打球をラケットで捉えてから脳が無意識に、いや、この場合はそれ以前の、脊髄反射で面を合わせて押し返していたのである。


 感覚神経がボールの感触に危機感を抱いて、脊髄が運動神経に制限を働きかけた。

 左腕を、ただ球を入れる為だけの木偶の棒にするよう、制限をかけたのである。


 この現象を人は『ゾーン』と呼ぶ。


 相対する二人に一定以上の実力があり、それでもなお、二人の間には歴然とした実力差のある場合にのみ引き起こる現象。

 その現象が起これば、球は上の者が持つ領域に吸い込まれるようにして飛んでいく。


 認めよう。今の俺達には『ゾーン』が発生している。

 愛仁と俺の実力差がはっきりと存在し、かつ、中途半端に俺がうまい。

 右手を失い、すっかりザコと化した俺であっても、その球に対する嗅覚は衰えていなかった。


 身体が覚えていた。そして、その身体が怯えている。

 素人以下の左腕と全国クラスの無意識が生み出した悲劇。

 順当な方向へ愛仁が全力で打ち出したことにより『ゾーン』が生まれてしまった。


「ゾーンだぁ?」


 審判台のさらに向こう側から、多分天さん当たりの解説を聞いて、次二郎か邪先輩辺りが発したであろう、信じられないといった声が聞こえる。


 信じられない、と思うのなら、じゃあもう一度見せてやろう。しっかり確認しろよ。と、いう親心にも似た感情で、なんの対策も考えずにサーブを俺は打つ。

 しかし次二郎達が知らないのも、まあ、無理もあるまい。俺だって初めての体験だ。


 中学時代、俺は最強だった。今の俺と愛仁ぐらいの差があるザコとも無数に戦ってきた。

 俺のストロークに慌てふためくようなザコたちだ。でも、そういうザコは決まって制球すら出来なかった。

 つまり、一定以上の実力すらないのである。


 当然、『ゾーン』など起こり得なかった。『ゾーン』など、所詮は妄想の産物でしかないとさえ思っていた。


 それが今、こんな野良試合で起こってしまっている。

 これが、高校テニスか。

 全国には、今の愛仁よりも強いのがゴロゴロいるのだろう。

 高校テニス、面白そうじゃねえか。


 仕組みは理解したところで対処の仕方が全くわかっていない俺のコートに、愛仁の打球は容赦なく突っ切ろうとしている。

 俺は何とか追いつき、体重を後ろにかけて面を合わせ押し返す。

 完全に守りのフォームだ。

 だから打球は、やはり愛仁の方へと吸い込まれていく。

 鋭いコースを狙う、なんてのは夢のまた夢。この繰り返し。


 繰り返し、だからと言って気の緩みは許されない。全神経を集中していなければ、あるいは色気づいてコースでも狙おうものなら、あっという間にあらぬ方向への大ホームランだ。これで点が決まってしまう。俺のミスで。


 決まり方はもう一パターンある。気が僅かに緩み、大ホームランとまでは行かないまでも、甘い球を真正面に送り込んでしまった時、愛仁は叩き潰しにくるだろう。

 これで決まってしまう。


 愛仁にとって、俺との長いラリーは屈辱的かも知れないが、俺にとっては八方塞がりで困ったものだ。

 作戦もクソもない実力差によるゴリ押しに、俺はさすがに諦めようとしている。


「……」


 そんな中、追い打ちをかけるように愛仁は言った。


「結構、『ゾーン』に返すのすら精一杯、って感じだねぇ」


 甘ったるく、けれど高圧的な声だった。


「じゃあ、もうちょっとだけ弱くしても、王君は来た方向に真っ直ぐ面を合わせちゃうのかな?」


 何を言ってるんだ?

 コイツは何をしようとしているんだ?

 そう思ったが、すぐに理解することになる。

 それは、俺なんかとラリーを長々としたくない! という強い想いが生み出したアイディアだった。

 愛仁は強いストレスや苦境の中で真の力に目覚めるタイプの人間だったのかもしれない。


「いくよ……」


 何やら力を溜めている愛仁の下へ俺の打球が返っていく。

 決して俺の打球は緩んでいない。生きた球ではないが、しっかり速度も出ているし、高めのバウンドもしている。正真正銘の『壁』から出た球だ。


 愛仁は、その高めの球を、……叩き斬った!

 カットストロークだ。


 ラケットを斜めに握り、叩くように打つ打法。

 一見して斬っているようにも見える。カットの最大の特徴は回転だ。

 通常のドライブストロークのようにキレイな縦回転はかからず、回転の向きも変わり、さらに僅かな横の回転がかかる。

 当然威力も落ちるのだが……。


 ビシッっと、さすがは愛仁。カットでありながら、俺のコートへ矢のように突き刺さる。

 さぁ、ここからが問題だ。気を引き締めろよ、俺。


 カットがコートに着地するとその回転の性質から、当然、摩擦の方向も横向きに変わり、そして、バウンドが、乱れる!

 球は火花のように真左へ散った!


 真横!?


 なんつー回転だ!

 しかし、俺は全国区の超反応でなんとか喰らいつく!


「ぐっ……!」


 左手に響いた感触でわかる。

 この威力は、俺が『壁』で反射角を加えられる威力の限界値を超えている。


 つまり、俺は叩き下ろしのカットを相手にしても『ゾーン』へと押し返さなければならない。それが精一杯の限界だ。


 幸い崩れたこの体勢でも、何とか返せる!


 俺は全力で『ゾーン』へと返す!


 まだまだラリーは続くぞ、愛仁!


 打ってから気づく。

 俺のとんでもない勘違いを。

 足が震えて、気づいたら俺は叫んでいた。


「蛭女ぇ! よぉけぇろぉおおお!」


『ゾーン』の罠にかかり、返すというのは、つまり球の飛んできた方へ押し返すということである。面を合わせて。


 しかし、今、カットによって球のバウンドは乱れ、右から左へコートを横切るように飛

んでいる。


 バウンド以降に限って見れば、球は右横から飛んできたように見えなくもない。

 俺は当然、球の軌道に対して垂直に面を合わせた。バウンド以降の軌道に対して。

 俺の身体は当然それを押し返した。だから俺の打った球はコートの右横へと飛んでいく。

 蛭女のいる、コートの外。審判台の後ろのあの場所へ!


「――!!」


 俺は見ていられなくて目を瞑ってしまった。視界が暗い。いっそこのままでいたい。


 ……。


 サクン、という球が柵に当たった時の音がした。

 これは……、という期待半分で目をゆっくりとこじ開ける。


「はーっ!」


 安心から大きく息を吐いた。蛭女は華麗に避けていたらしい。誰にも当たっていない。


「うおー」


 と蛭女自身は若干驚いている。無事でよかった。


 危ない! って叫ばれると身体を硬直させるけど、避けろ! って叫ばれると思わず横に動くってのを、なんかワイドショーの防災スペシャルとかで見ていて、たぶんそれが思わず発揮されちゃったんだろうけど、おかげで助かった。

 馬鹿にしつつも見ていて良かった。


 だけど、安心したら収まるかと思っていた足の震えが止まらない。それどころか、喉の奥、いや、そこよりもっと下の方から何か熱くなってきて、


「ごらあああああああああ!」


 俺は爆発した。丁度握っていた何か長い物、なにこれ、ラケットなのか? を思いっきりコートへ投げつける。チタンで出来たラケットは、っぴょ~んと、おちゃらけて跳ねる。跳ねてる間に俺はコートを蹴り上げる。蹴り上げるっていってもここは土のコートじゃなくてオムニコートだからちょっと靴が擦れただけで、ほとんど空気を蹴っただけ。だからバランスを崩して後頭部からコートへ突撃する。そのままの勢いで左腕をコートに打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける! こんなとこ先生に見られたら殴られるだろう。まあ、もう先生はいないんだけど。


「おいやめろって!」




続く

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