第8話

 簡単に言うと、『壁』の練習は驚く程順調に行った。

 練習方法としては、天さんが向こうのコートからボールを打ってくる、それを打ち返すだけ。非常にシンプルだ。

 注意点は、自分の力を使わないこと、つまりスイングを極力抑えること。

 それだけだ。


 もちろん、最初から上手くいったワケではない。失敗もあった。

 体重の移動について、試行錯誤をした。

 たまたま、上に逃がすというコツを掴み、どんどん上達していった。

 弾く、という壁の本質を理解した。

 次は弾く方法に悩んだりした。

 ハエ叩きの要領ではダメだった。

 何度か色々ためしてみて、肘と手首の角度を固定し、握る力だけを弱めて、ゆったりとスイングするという型にたどり着いた。

 この方法が一番だった。

 慣れない左手でも、肘や手首を『固定』することは簡単にできた。

 打球コースにも角度がつけることが出来るようになった。


 始めは、真正面に打つことしか出来なかったが、打ち方が安定してからは、体の向きなどを調整してトントン拍子で角度をつけることができた。


 最終的には約直角まで、自然な反射ぐらいが再現可能になっている。


 ここまで三日かかった。

 生きた球とは程遠い、この『壁』を修得するのに三日かかった。

 これで丁度、テニス選手としての復活から約半月たったことになる。

 さて、ここまでは半月近い期間の、日常と練習の様子を描写してきた。しつこいぐらいに。


 それなのに、何故ここにきて、急に、ダイジェスト風になったのか、それを説明せねばなるまい。

 あのしつこさはどこに消えたのか。

 端的に言うならば、それは俺が集中していなかったからだ。

 天さんに見放された事実が意外にショックで、集中がキレてしまったのだ。

 殴られた後というのは、痛さで頭が満たされて、目の前の物事に集中がしにくい。

 逆に痛みで目が覚めるということもあるが、そんなことは稀だ。

 少なくとも俺には怒らなかった。


 俺の集中は削がれていた。

 では、俺にとって何がそんなに不満だったのだろうか。

 この練習をすることのどこが見捨てられたということなのか。


 この『壁』は、いわば、アイドルの行う口パクのようなものなのだ。

 自分の力ではない。しかし、その場その場では何とかなってしまうかもしれない。

 確実に実力はつかない。

 それに頼ってしまう。

 成長が止まる。


 こんな『壁』をマスターして、慣れてしまって、依存してしまっては、確実に成長は止まる。

 もちろん、成長が止まる、なんてのは極端な例だ。

 しかし、天さんは、この極端な例を俺にさせようとしている。

 天さんは自分たちが勝ち上がるために、それを俺にさせようとしている。

 さっき、蛭女が『壁』について、『打ち崩すことができない』と認識していたが、どうやら天さんは、角度やコース、タイミングを巧みに利用させることによって打ち崩すことまで『壁』でさせようとしている。

 俺に『壁』を駆使させようとしている。


 自分たちが、少しでも勝ち上がるために。

 仕方がないのかもしれない。

 このままでは夏まで、マトモな球は打てないと判断したのだろう。

 だったらいっそ、成長が止まるという副作用を持つ『壁』を完璧にマスターさせ、少しでも早急な安い戦力として使い捨て用としているのだ。


 天さんに見限られたのだ。その上、この仕打ちだ。

 全体的にうわの空になっていても仕方がないだろう。


「よし、だいぶ綺麗に返せるな」


 そんな天さんの声も耳から耳へと抜けていく。


 だが、いつまでも腐ってはいられない。


 日常は続く。

 時間は進む。

 明日は来る。

 何も答が出ていなくとも、待ってはくれない。


 そいつは、やってきた。

 黒いおもちゃの様な車。


「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、!」


 その中から響く、笑い声。この迫力は……。


 奴しかいない。

 すぐに俺は理解した。


「くっ! この、ロールス・ロイスは……!」


 少し遅れて天さんが、顔をしかめて、その車に反応した。

 俺は自動車に詳しくないから、コレが何なのかわからないが、ロールス・ロイスという名前は聞いたことがある。

 この天さんの様子は恐らく理解している。


「ウオ! いつの間に!?」

「バカな! 敷地内だぞ!?」

「くぅ~! こ、このぉ! ロオオオルス・ロイスはああぁ!」


 さらに遅れて邪先輩、次二郎、蛭女の順でリアクションした。

 コイツらは多分、全く理解できていない。

 だが、こんな理解の早さなどまるで意味がない。

 今から現れる男はそれほどまでに大きい存在だ。


 かつて最強と評されていた俺と同等以上の実力を持っていた男。

 高校テニス関係者がこぞって最も注目していた男。


「やあ、王くん」


 という声の主とは別に、初老の紳士が運転席から慎ましく出る。

 スムーズな動きで後部座席側の扉に近づき、無駄のない動きでレッドカーペットを敷いた。

 そんなカーペットを踏みにじり、先ほどの声の主が、あの男が出てくる。


「会いに来たよ」


 来てしまった。とうとうこの時が来てしまった。

 高い身長と筋肉質でありながらの痩せた体型に、清く正しい印象を持たせる整った顔立ち。

 恵まれた家柄に似合った、恵まれた身体と心がそこにある。

 捻くれて復活した卑しい俺のラスボスにふさわしい男。


“神”五宮愛仁のおでましだ。


「さあ! 戦おう!」


 その日は突然やってくる。




第三章 正しい身体の使い方(実践編)に続く

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