第5話
始業ベルが鳴ると蛭女は教室に戻ってきた。
もう許してくれているらしい。偉いぞ! 蛭女!
その後の授業は一日中、最後までなんだか退屈だった。
もちろん、授業内容が復習中心というところに問題もあるかもしれない。が、あれだけの持論を一方的に展開したのだ。
もっと清々しい時間を過ごせてもいいはずである。
そう、俺には暴れる場所が必要なのだ。蛭女の言うとおりだった。
驚いたのは授業中、うっかりと俺はテニスの事を考えていた。
もう夢中になりつつある。
もしあの時、蛭女に引っ張られていなかったら、俺はどうなっていたのだろう。
俺は蛭女へ密かな感謝をした。
「映像を何度か見たが、やはり制御が苦手なようだな」
さて、待ちに待った部活の時間だ。
開始早々に俺は天さんから苦手なところを突かれた。テニスコートのベンチで。
どうやら、ここがミーティングに使いやすいらしい。
「そうですね。自分の腕なのに、棒みたいっていうか、とにかく不自由です。左手。全然回転がかからない」
「……で、アウトばかり、ということだな。ミスる時の殆んどがアウトだ」
アウトとは、コートの外に出てしまうミスのことを言う。つまり飛び過ぎという意味だ。
「あー、それはですね。どうせミスるならネットに引っ掛かるより飛ばしてアウトにするっていう俺なりのこだわりの所為ですね」
「うむ。そのこだわりには同意だ。ネットを越えないと始まらない」
天さんは腕を組み大袈裟に頷く。
「で、力入れすぎちゃうんですよ。でも、右腕なら全力を込めても回転掛けて飛距離は押さえれましたから……」
「そうだな。力の量を問題ではない。むしろ左腕は非力なぐらいだ。
そしてリキんでいるわけでもない。リキみすぎるとこんどは下にボールが飛んで行くからな。
その症状は今のところはない。課題は力の入れるタイミングとラケットコントロールってところだな」
「そっすね」
とは言うものの、なんとも形容しがたい違和感はつきまとうわけで、そんな簡単な話でないことは知っている。
「よし、今からは……」
「その対策ですか?」
「いや、朝の練習では判断できなかった部分があってな、それの確認がしたい」
「あ、ボクもまだまだ問題はある気がします」
なんかゴマ摺ってるみたいになったが本心だ。
「じゃあ、さっそく取り掛かるとするか。しかし……」
天さんがにやりと微笑みながら俺を見る。
「しっかり昼の間に自分の分析をしてきたじゃないか」
「もう、テニスに夢中でしょうがないんですよ」
俺は冗談っぽく笑いながら、実は本心を言った。
*
「よし、跪け」
さっそく確認の練習に取りかかるのかと思ったらこの命令である。
「ははあ」
天さんの有無を言わせぬ口調に、俺は従うしかなかった。
俺は今コートの一番後ろ、ベースラインにいる。
天さんは相手コート……ではなく、こちらのコートで俺の三メートル先の斜め前にいる。
「何をしている! 右足を立てろよ! 普通に考えればわかるだろ!」
「ひ、ひぃ!」
怒られた。足を素早く入れ替える。
俺は『跪く』なんてポーズは花束を渡す時ぐらいにしか行わない。
で、俺は右利きだ。花束は右手で持ち、左手を添える。だから左足を前に立てる格好になる。
言わば跪くときに左足を前に立てるのはクセであり常識的なものだった。
なのに怒られた。「普通に考えれば~」なんて屈辱的な修飾までされて。腹が立つ。
だいたい、俺がラケットを左手で持っているもんだから、俺が本来右利きであることをうっかり忘れていたんだろ? 本当は。
で、強く怒っちゃったに違いない。だとしたらトンだ怒られ損だ。天さんの説明不足だ。
「よし、その姿勢でこの球を打ってみろ」
天さんが小犬に向かって投げるように、ボールを下から優しく放った。
きゃいん。きゃいん。そうです。ボクは卑しい小犬です。
そんな事を考えながら、俺はラケットを振る。打つ。
「……な!」
ボールが飛ばない!
俺が打った球はネットの遥か下の部分に向かっていった。
朝はあれだけ飛びすぎていたのに、跪いたとたんこの失態だ。
これは予想外であった。
「うむ、やはりそうか」
天さんは顎に手をあて頷いた。俺が驚き焦る中、何かに納得しているようだ。
「映像を見て思ったのだがな、ラケットコントロールのクソさに隠れて、上半身の動きもかなりクソな気がしていたのだよ」
「上半身……。それで跪かせたんですね?」
「ああそうだ。だが、こんなのは左腕の使いにくさに比べて些細な問題だ。
要するに慣れが関係している。これまでと体の向きが違うから戸惑ってるのだろう」
天さんがネットの下で転がっているボールを拾う。
「むしろ私は朝練の時、下半身の力と体重移動だけでアレだけ飛ばした事に関心している」
天さんは構える。
「さあ、今度は中学までの上半身の動きを思い出し、左の向きに最適化させて打ってみよう」
そう言って放る。
俺は大まじめに打つが、しかし飛ばない。何回やっても飛ばない。
「いや、だから……。
今まで右向きでやってたことを左に置き換えるだけでいいんだよ? 体幹はしっかりしてる。出来るはずだろう?」
天さんが我慢できずに感情を曝け出した。
「そんなこと言われても……。わかんないですよ……」
俺は困ったような顔で言った。実際困っているのだ。
上半身がクソなのは身に沁みたし、出来ないのが悔しい。
そんな俺の困った顔を見て、天さんは何か思いつく事があったのだろう。こう切り出した。
「お前、普段……、当時、どういう風に打っていた?」
「どういう風? ですか」
質問の意図が見えない。
「うーむ。どう言えばいいか。
そうだ! 俺が初心者だとして、俺にどうやったらお前の様な強い打球が打てるのか教えてみてくれ」
ああ、フォームとかコツみたいな、技術的な話か。納得。
「えーと、こう、バッ! としてグッ! とやってからぐぁわんとしてボクのブデュンからのビロロロローをこうしてドォォォォォン! ですね。デェアア!」
俺は精一杯的確に伝えた。小粋なジェスチャーも混ぜて。これでいいですね? という意味をこめて天さんを見る。
天さんは俺を睨んでいた。そして、何かを悔やんでいた。
「……そうか、とんだ『天才型』だったか……。それも、ここまで極端な……」
俺は褒められた。でも、何も言えなかった。
「しかたない! 取りあえず続けるぞ!」
焦るようすで天さんが投げる。
俺はそれに全力で応えようとした。慣れない姿勢で力一杯スイングをする。しかし、無情にもボールは下へ行く。何度も何度も。
「めげるな! 続けるぞ!」
天さんは自分に言い聞かせるように叫んだ。
まるで、自分の選択を、俺にこの部の命運を賭けようとしている自分の選択を正当化したくてたまらないかのように。
ただただ続けた。俺も全身全霊で応じた。そして、それは間違いではなかった。
もう何球目なのか忘れたその時、俺の打った球がゆったりとコートに入った。
「よし!」
天さんはボールの行方を確認した後すぐに俺へと向き直り、
「よし入ったな! 違い、……違いはわかるか?」
「違い、ですか……? う~ん……」
天さんが普段の様子からは想像もつかないほどグイグイと捲し立ててくる。
俺も考えようとしているが、戸惑いからまともな答えが浮かばない。
「難しいかな? 『天才型』の凄嵯乃には」
また言われた。悪意を感じた。
やっぱり嫌味なのか。その『天才型』というワードは。
俺が何も言わないのを良い事に天さんは続ける。
「やはりお前は極端な『天才型』のようだ。『天才型』っていうのは、なんとな~くで出来ちゃう人の事を指して言うんだよ。
感覚でプレイしているんだ。だから、お前にどんなことを考えて打ってるのか聞いてみたんだよ。
で、説明できなかっただろ? 擬音だらけだった」
説明できてなかったのか、俺。
「それは、お前のような『天才型』はなんとなくの感覚で打ってるからなんだ。
そして、凄嵯乃はむしろ俺達のような凡人がどうして強烈に打てないのか理解が出来ないんだろう?」
「はい……」
俺は天さんの真剣な言葉に、正直に応えることしか出来なかった。
「何か思い当たる節があるのかい?」
「……後輩が、育ちませんでした」
「そうか、そうだろうね。それは辛いだろうね。お前のアドバイス通りにやったって、誰も出来ないよ」
天さんの声が少しだけ穏やかになった。
「しかし、そんな『天才型』も利き腕を失えば感覚頼みのプレイが出来なくなってしまう……。
こんな悲惨な状況になってしまう。俺はお前ならスグに左打ちに慣れてくれると思っていたのだが……。
ひょっとしたら、凄嵯乃に期待するのは間違っているのかもしれない」
残念そうでありながら、攻撃的で冷たい視線が向けられる。なんだ? これはクビか? 戦力外通告か?
そんな目で見られると……、俺の中のクズが疼いてくるではないか。
俺はやや早口でしゃべり出す。
「あのですね? ボクが今やっとゆっくりだけどマトモにボールが飛んでいったのは、天さんの球出しが丁度良かったからですよ? 打ち易かったんです。初めて」
これは遠回しに今までの球出しの悪口だ。
責任転嫁からの皮肉。うむ。今日も俺もクズっぷりが冴えわたっている。さあ、どんな反論がくるか?
そんなクズの視線の先にいる天さんは、とても神妙な顔つきで考え事をしていた。
アレ? なんかマジになって考えてます?
「……そうか! 間合い! 打点だな! 確かに細かくて気づきにくいのかもしれない! よし! 次はそこに注意してくれ!」
「は、はい!」
と快く返事はしたものの『マジですか!』という感は否めない。そんな前向きに俺の苦情を意見として取り入れてくれるとは。
しかし打点、打点か……。恥ずかしながら意識したことがない。
天さんの指摘通り、俺は今まで何も考えずに打ってきたようだ。
天さんが仕切り直して投げる。どうやらヤル気になったらしい。
クビになりたくない俺は、結構マジメに打つ! 打球は再びネットの下へ向かってしまう。ダメか……。
「イヤ、いい! それでいいんだ!」
俺の残念そうな表情を見るまでもなく天さんは励ます。
「跪くという姿勢の都合上、打点を合わせる事そのものがかなり難しい。
ポジションの移動が出来ないからな! あと俺の球出しとコートの凹凸が弊害になってるのも原因がある。
つまり何度かやってみてコツをつかんでみるしかない」
打点を合わせる為の練習の為の練習か。なんだか遠回りだ。
その為には今までの感覚に頼っていてはダメなのだろう。意識を集中して……。
打つ! また打つ! そして打つ!
結果として……、
「よし! だんだんと、ネットを越える比率は上がってきたな!」
「そっすね」
成功だった。
「分かったぞ。ズレていたのはタイミングだったのだ。恐らく、今まで何も意識しなくても、『打ちたい』という想いだけで打つタイミングは合っていたのだろう。
ところが左腕になって、スイングスピードにズレが起こった。体の感覚も不慣れなものになった……。
それが原因だな。スイングスピードの変化が原因でタイミングよく打つことが困難になった」
天さんが独り言のように分析結果をつぶやく。顎に手を当てて。
だけど、俺のことなのに俺が無視されているような気がしたから、何か言ってみることにした。
「ああ! ジジイを走らせるとすぐ転ぶのは若い頃のイメージで走ろうとする上半身に対して、まったく言う事を聞かない下半身が原因って言いますね!
上半身がギャップに耐えられなくってバランス崩すんです! 昔の自分に夢見て……、恥ずかしい奴らです!」
こんな事しか言えなかった。
「ああ、そんな感じだ。
そして、そのタイミングのズレを解消する為に、スイングを早めに始めるのでは間違いなのだ。
君はそれをしなかったのは偉い。それに対処する案として、『打点を意識する』という方法をとった。
それこそがアイディアなのだ。感覚と勢いを保ちながら、正確なタイミングで打つ。
そして、なんとか大前提である『ネットを越えてコートに入れる』ことを可能にした。まだ弱いがな。
でも素晴らしい視点の切り替えだった。視点の切り替えが上手いほど上達が早いと言っても過言ではないよ」
「あざっす」
でも褒められた時の対処がわからない。
「……で、どうだった?」
「はい?」
「これが本当の練習ってやつだ。上手くいった時と、上手くいかなかった時。その時は一体何が違うのか。
考え分析して試してみる。そうしてちょっとずつ自分に合った打ち方や技術を身につける。
体で覚えるとは間逆の行為だが、凡人で上手い人は皆これが出来ている。いただろ? 凡人でも脅威だった人が。
君とは全く違う方法で上手くなっていった人が」
そうかもしれない。いたかもしれない。
「育たなかった後輩を気に病む必要はないよ。
凡人には凡人の方法で上手くなることは出来たのに、それすら出来なかっただけなのだから」
「止めてくださいよ。そんな事を言われちゃ、彼らの事をアイツらが悪い、で片付けてしまいそうです」
俺にだって罪の意識はある。でもその貴重な一つが消えてしまいそうだった。
「かまわんさ。それより、どうだった? 本当の練習というのは」
天さんが俺の顔を覗き込む。
「ハイ、楽しかったです。今までのガムシャラに打ってた頃とは、また違った実感がありました。
まだまだ面白いことって一杯あったんですね」
「うむ。良い答えだ。……さて、タイミングという問題の発見と解決は成功したが、上半身の課題はまだまだあるように見える。
しばらくはその跪きスタイルで頑張ってもらうぞ!」
「はい! ……一ついいですか?」
さわやかな宣言の後で申し訳ないと思いつつも言わずにはいられないことがある。だから俺は水を差すように聞いた。
「この練習程度の球出しなら、蛭女にだって出来ると思います。蛭女と代わっていただけないでしょうか」
きょとん、という顔をした天さんは、多分俺の意図が読めないでいるのだろう。
だから俺は慌てるように付け加えた。
「あ、そのですね。天さん、ボクにつきっきりで、自分の練習できてないな~、なんて思ってですね。
練習のコツ、上手くなるためのコツは掴む事が出来たんで、また練習が次の段階にいくまではこの練習が続くようですし、蛭女でも大丈夫なのかな~、と思いまして……」
もちろん。
「あっはっはっは!」
急に笑い出す天さん。そうか、こんな声も出せたのか。
「ふふ、すまない。しかし、お前も一人前に俺の心配をするようになったか。実に頼もしい後輩だ。
だが、それもそうか。全国優勝が目標なのだから、俺にも勝って貰わなければならないということだな」
「えへへ、まあ、そんな感じですかね。天さんもしっかり練習して下さい」
「まあ、確かにこの程度なら蛭女君に任せても大丈夫だろう。では後輩に甘えて、私は私で精進でもしようかね」
そう言って、天さんは次二郎たちの方へと向かっていった。
「よし、じゃあ蛭女、今の会話の通りに頼むぞ」
もちろん、天さんに言ったことが本当の目的ではない。
「っよーし、王ちゃん! 行っくぞー!」
元気よく優しく蛭女がボールを放った。
きゃいん。
また放った。
きゃいんきゃいん。
きゃいんきゃいん。
こうして俺は再び犬になった。それも今度は蛭女が相手だ。最高だ。
これが青春だ。これが部活だ。
そう、全て計画通り。
さっき初めて天さんに下から優しく放られてから、常にこの状況、この構図を頭の隅に置いていた。
いや、最優先事項として取り組んできた。その為に手っ取り早い練習成果を出した。天さんを追いだす事に成功した。
俺はこの程度の事にここまでするクズなのだ。
あとこんな楽しみ方も出来る。
「ぐふっ!」
俺の打球が、暴発したかのように蛭女の腹に直撃した。
今は俺は左腕を使っており、さらにそれに慣れる為の練習をしている。暴発は仕方がない。
「ああ、スマンスマン」
結構強めに入った。回転は掛けていない。コートで打ったら間違いなくアウトのボールだ。つまり間違いなく痛い。
蛭女は折り畳まれたように腰を曲げ、腹を押さえている。
最高に俺のクズを刺激した。
「ううう~! ま、まったく~! 王ちゃんはヘタクソだな~。ちゃんとコートに飛ばさないとダメだよ?」
あくまで強気に出る蛭女。強気に俺を受け入れる蛭女。
俺と一緒に居たらダメになるな、と思った。勿体ないと思った。
「蛭女」
「? なに?」
「頑張ろう」
「うん!」
そして俺は、こんな事しか言えない。
日常は続く。
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