その276 スーツケース
「あの、――ニセニャッキーさん?」
「ん?」
「わるいんですけど、私たちをにがしてもらえませんか?」
「逃がすって、泥棒のおめーらを?」
「はあ」
「そりゃダメだ。だって、泥棒を捕まえるのはあーしの仕事だし、仕事をするからおいしいご飯が食べられるんだもの」
「そこをなんとか」
「ふむ……」
「おれいはします」
「おれい?」
「はい。なんでもします」
ニャッキーマスクを被った女性は、少し悩ましげに腕を組み、
「それじゃ、ライカにおめーらを突き出したあと、ゆっくり考えることにするよ。――泥棒がくれるお礼が、どんなもんだったか」
「……ちっ」
引き下がるわけにはいかなかった。自分の背には、水谷瑠依が隠れている。
恐怖を勇気でかき消して、美言は戦槌を握りしめた。
重量2~3トンほどのそれは、それを持つ美言にほとんど重さを感じさせない。
――やる。潰す。殺す!
そして戦槌を、まるで子供が棒きれを弄ぶようにして振り回す。
風を切る轟音が倉庫内の空気をかき混ぜて、ニャッキーが身にまとっていた虎柄のマントがはためいた。
「あーっ、ちょっと、あんまり暴れんなよ。あーしが怒られる」
「だ・ま・れ!」
間髪入れず、少女はニャッキーの頭に戦槌を叩き付ける。
轟音と共に、室内が震えた。
戦槌は倉庫内の床を破壊しただけで、手応えがない。
見ると、ニャッキーがぴょんぴょんと、ボールが跳ねるように二度跳躍し、それだけで十数メートルほど距離を取った。驚くべき敏捷さ。――やはり”プレイヤー”だ。
「今からでも、ちゃんと謝ったら許してやるけど、どーする?」
論外であった。
藍月美言は、新たに手に入れたこの武器を、決して失う訳にはいかない。これを失うくらいなら死を選ぶ。と、そこまで思い詰めていた。
心なしか自分が身にまとっている黒金の鎧も、そうすべきだと叫んでいるように思える。
「こい」
美言が叫ぶと、……刹那、ニャッキーの姿が跡形もなく消えた。
「――ッ?」
辺りを見回す。何かのトリックで、棚の裏にでも隠れたのかと思ったのだ。
背中から衝撃があったのは、その次の瞬間。
内部にいる美言まで響く一撃だ。
「うわあああああ!」
高さ3メートルの巨体が、思いっきりたたらを踏む。そのまま近場にあった棚に突っ込み、きっちり整頓されていた大量の”実績報酬アイテム”が床に散らばった。
その時、アイテムの中の何かが作動したのか、ぷしゅー、と、目くらましになる白い煙が辺りに充満する。
美言はとっさに煙の中に逃げ込みながら、
「この……ッ!」
小さく毒づいた。
幸い、受けたダメージはそれほどでもない。痛みなどもない。
美言は態勢を立て直し、振り向く。ニャッキーのやつ、どうやらテレポートのような技を使うらしい。加えて、鋼鉄の鎧を吹き飛ばす馬鹿力まで持ち合わせている。
――せめて、もう少し”ロボット”のれんしゅうができていれば……!
どう考えても分が悪い戦いだった。だが勝たねばならない。それ以外の道はない。
再び、戦槌を力任せに振り回しながらニャッキーの姿を捕捉。
その頭目掛けて、渾身の一撃をお見舞いした。
「なんどやっても、同じだ!」
叫ぶニャッキーは、半身を引いて戦槌を躱す。
そして鎧の顔面目掛けて、強烈なパンチを繰り出した。
眼前に迫る鉄拳を見て、――
「うっ……!」
死んだ!
と、一瞬だけ思い込む。
だが、破壊されたのは鎧の顔面。操縦席にいる美言の顔があるのは、その少し下だ。
美言の眼前にあるモニターに、背部装甲と頭部カメラのダメージを示す簡略図が表示されている。
鎧の頭部はいまの一撃で吹き飛ばされて、天井に突き刺さっているようだ。
――あんなの、まともにくらったら……っ!
ぞっと背筋に冷たいものが流れて、美言は一度戦槌を床に落とし、飛びかかってきたニャッキーに掴みかかる。
しかし彼女は忍者のように両腕をすり抜けて、棚から棚へと跳び、距離を取った。
次に、――例のあのテレポートをしてきたときが最期だ。
――くそ。くそ……!
歯がみする。
こんなところでやられるわけにはいかない。
それでは意味がない。
この武器は、……たぶん、ただの人間が”プレイヤー”や”敵対生命体”に対抗するための、数少ない……。
「――お姉ちゃんッ!」
その時だった。瑠依が、自分の足元に何かを放り投げたのだ。
床を滑るように投げ渡されたのは、先ほど見かけたスーツケースだった。
美言は目を見開いて、
「ばかばか! なんでにげてない!?」
今の彼女には、血塗られたドレスがある。一人でも逃げ切れたはずなのに……。
「そんなの……放っておけないからに決まってるよ!」
投げられた革製のケースは、今も中身に閉じ込められた何かが暴れていて、がたごとと揺れている。
「鍵ごとケースを壊して!」
「なに……?」
「いいから!」
もはや美言には、それをする以外に手段はない。
美言は右拳を叩き付けるような形で、スーツケースの鍵を破壊。
「おい、――おまえら何やって……!」
異変に気付いたニャッキーが、例のテレポートでケース付近に現れる。
そして、美言は目の当たりにした。
彼女の首から、一筋の紅い液体が噴き出したところを。
スーツケースの中から、一匹の鳥……いや、虫めいた生き物が飛び出したのだ。
「なッ……!?」
何が起こったかもわからず、ニャッキーは傷口を押さえる。
倉庫内に、瑠依の絶叫が響いた。
「やった! くそ”プレイヤー”め! 死ね!」
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