その185 見知らぬ少女
眼下に広がっていたのは、それはそれは異様な光景でした。
なんというか。かんというか。
笑わないで下さいよ?
「文明崩壊後の世界、……的、な?」
うん。
自分で言っておいてなんですけど、ちょうどパチッと当てはまる表現です。
どうも、あっちこっちにタイヤを抜かれた車やらトラックが積まれていて、即席のバリケードが築かれてるみたいなんですよ。
まるで、外から襲い来る”何か”を恐れるように。
異常事態が発生していることは間違いありません。
いくら鈍い私でも、これほど大規模な工事が身近に行われていて、気付かないはずがないのです。
ぶるぶるぶるっ、と、悪寒にも似た身震いをしました。
ふと、隣に視線を向けると、私の混乱はさらに深まります。
「…………うわ」
何者かの手によって、マンションの隔て板が破られていたのです。
現在、私のおうちとお隣の田中さんのおうちを隔てるものはなく、自由自在に行き来できる状態。
田中さんというのは、私の住まうボロマンションの隣人。頭ハゲ散らかした陽キャ勢のおじさまです。
彼が善人だということはわかっていますが、さすがにこれは……。
私はおそるおそる、ベランダから田中さんの部屋を覗き込みました。
そしてそこに、何かを引きずったような、ドス黒い血の痕を見かけて、――
「はっ、…………はっ、……………はぁっ……!」
ばくばくと心臓を跳ね上がらせて、逃げるように自室へ戻ります。
そのままベッドに倒れ込み、オフトゥンを頭から被って、必死に今見た光景を忘れようと念じました。
何か、とんでもない事件が起こったらしい。それは間違いない。
そして、何らかの理由で、田中さんは傷つけられた。
部屋の痕跡から推察するに、そうとしか思えません。
彼は無事でしょうか?
お布団にくるまれながら、むんむんと考え込むこと、数分。
それだけ時間を掛けて、
「警察……けいさつを呼ばなきゃ……!」
ようやくそんな、当たり前の考えに思い至ります。
とはいえ、電話が通じない今、どうすりゃええねん、という。
そんなときでした。
どんどんどんどんっ!
と、ちょっと乱暴にマンションの扉が叩かれます。
「せんぱあああああああああああああああああああいっ!」
耳慣れぬ声。
「せんぱぁい! あーそびーましょー! 池袋のヨドバシから、ボードゲームをたくさん仕入れたんです! やりましょお!」
私は少し首を傾げて、ドアスコープ(ドアにくっついてるのぞき穴みたいなやつ)で外を確認。
そこにいたのは、小柄で、どことなくハムスターっぽい印象の女の子でした。
見覚えの……ない人です。明らかに。
私は扉を挟んで、震える声でそうっと応えました。
「……………どなた?」
「私ですよう!
「あさだ……さん?」
「?」
彼女はまるで、自分がそこにいるのが当たり前みたいな顔をしています。
私にはそれが、異様で仕方がありません。
「ええと、センパイ、ですよね?」
「違います」
ここは断定しときましょう。
私は、この世の中に存在する何者にも”センパイ”と呼ばれたことがありません。
産まれてこの方、部活やサークルみたいなものに所属したことがありませんから。
「でも、その声」
「失礼ですが、人違いされているのでは?」
正直、私の声ってあんまり特徴的じゃありませんからね。
一時期声優を志したけど、あっさり諦めた理由がそれ。
声質ばっかりは弄くりようようがない才覚ですからなあ。
私の言葉に、ドアスコープの向こう側にいる少女はずいぶんと哀しげな顔をしました。
「あのその……ひょっとして私、何か気に障るようなこと、しました……?」
「いえいえ。だから人違いだと」
「うそです。私がセンパイの声を間違うわけありませんもん。それに、お部屋だってセンパイが言ってたところだし」
「勘違いが重なることはよくありますよ」
あくまで新聞勧誘を断るような私の口調に、彼女なりに感じ入ることがあったのかもしれません。
麻田梨花さんとやらは、ちょっと泣きそうになって、
「あの……何か、私がいけないことしたなら、傷つけるようなこと言ったなら、その……謝りますから……扉を開けていただけませんか?」
「扉を開けて、どうするおつもりで?」
「顔が見たかったんです。それだけです。それ以上は望みませんから」
「はあ」
私は、寝起きのぼさぼさ頭だとわかっていながら、扉を少しだけ開けます。
もちろん、扉にチェーンを掛けて。必要以上開かないように。
見知らぬ少女が、こちらをのぞき込みました。
「やっぱり! センパイじゃないですか! どうして……」
「どうもこうも。こちらにはあなたの顔に見覚えがないのです」
すると麻田さんの、餌を取り上げられたペットのような表情は跡形もなく消え去り、
「……それ、本気ですか?」
どこか覚悟を決めたような、――そんな、落ち着いた顔つきになりました。
「ええ、まあ」
「間違いなく、――私の顔に見覚えがないんですね?」
「はあ。……どこかで会いました?」
もちろん、学校のどこかですれ違った、という可能性は否定できませんが。
「……私、これから学校のみんなに相談してきます」
「はあ」
「だから、これが何かの冗談ならすぐに言ってください」
「冗談でも、悪戯でもありませんが」
っていうか、誰だろ。
学校のみんなって。
「……わかりました」
麻田さんは、このくらいの修羅場など慣れっことばかりに、
「すぐに戻りますから。センパイはひとまず、おうちで待っていてくださいね」
「あの、ちょっと」
「……なんでしょう」
「では、できればで良いんですが。……お隣さんの様子がおかしいので、警察を呼んできていただけますか?」
「?」
「さっき覗いてみたら、血の痕があって、……部屋も荒らされているようなんです」
「荒れている……?」
彼女は「それの何がおかしいのか」と言わんばかり。
私は念のため、こう付け加えます。
「どうも私の部屋、停電中らしくて、電話が通じてないみたいなんです。だから……」
すると麻田さんは、その言葉で万事承知した、とばかりに優しく微笑みます。
「……はい。任せてください」
彼女の言葉は、幼子をあやすお姉さんのよう。
「私のパパ、その警察なんです」
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