その113 闇の中
次に意識を取り戻したのは、漆黒の闇の中であった。
目を開いたり、閉じたりして。
とりあえず何も見えないことを確認する。
手足は。
……縛られているらしい。
訳もわからないまま、懸命に両腕を動かす。
すると、拍子抜けするほどあっさり束縛が緩んだ。
両腕の縄を解くと、次は足の番である。こっちはそこそこきつく縛られていた。
少し苦心した末にそれも解いて、冷静に当たりを確認する。
窓一つない、地下の一室。
そういう印象の場所である。
どうやら、リュックは奪われてしまったようだ。……もちろん、ヘルメットも。
手早くポケットを探ると、非常用のマッチが残っていることに気づいた。
焦れる手つきで火を灯す。
「……ここは……?」
恐らく、元々は電源の管理を行っていた場所らしい。ボタンがいっぱいついた謎の機械が、たくさん備え置かれている。
出入り口は、一箇所だけ。
頑丈な鉄の扉があって、当然のように施錠されていた。
「あーくそ、何がどうなって……」
その時である。
「ぐぬぅ……」
何者かの声が聞こえたのは。
まず俺が警戒しなければならないのは、当然”ゾンビ”だ。
身構えながら、声のした方向に注意を向けると、
「……あっ」
部屋の隅っこに、ボロぞうきんのような男が倒れている。
その男の顔には、見覚えがあった。
「爺さん!」
さっき俺が水を分けてやった、ホームレスっぽいお年寄りである。
「ぐ、ぐぐぐ……」
爺さんの顔は、びっしょりと汗で濡れていた。
「そ、その声は……あの、優しい少年かね」
どうやら、声だけで俺のことをわかってくれたらしい。
あの時は全身鎧をまとっていたからな。勘のいい爺さんで助かる。
「何があった? ってか、いま、どういう状況かわかるか?」
その頃には俺もさすがに、一服盛られたことには気づいていた。
だが、その理由がわからない。
悪意のある何者かと勘違いされたのだろうか。
いや。それなら、興一が俺の身元を保証してくれるはずだ。
「なんてこった。君まで捕まっちまったのか。この世にゃ、神も仏もないらしい」
「どういうことだ?」
爺さんはその質問を無視して、
「やれやれ。話じゃ、もっといい場所だと聞いたんだが。くそっ。人間、一度イカレちまうと、その先は下り坂ってところか」
そこで俺は、違和感に気づく。
明かりでぼんやりとちらつく、爺さんの姿。
それに、決定的な何かが足りないように思えたのだ。
やがて俺は、――その事実に気づいて。
「……なあ、爺さん、……足はどうした」
そのホームレス風の男は、右足が切除されていた。人為的なものであることは間違いない。傷口が、包帯で乱雑に縛られていたためだ。
「ああ……これかい?
「喰われた、って……」
混乱する。
”ゾンビ”……が、こんなにお行儀良いはずがなかった。
「まさか」
「ああ、ご想像の通り。ここいらじゃ、よっぽど肉に飢えているらしいな」
酷い熱にうなされた夜のように、頭がガンガンする。
「ぶった切られた自分の脚が、大鍋で煮こまれてるのも見たよ。塩と胡椒で味付けされてな。……まったく! いっそ殺してもらった方が気楽だったんだが。連中、
この五ヶ月の間、”ゾンビ”どもにグロ耐性を鍛えられてなければ、失神していたかもしれない。
「ハァ、ハァハァハァハァハァ………ッ」
動悸がする。呼吸が早くなる。目の前がちらつく。
爺さんの姿は、決して他人ごとじゃない。未来の俺の姿だ。
そう考えただけで、視界がぐにゃりと歪んで見えた。
ただでさえ暗くて息苦しいその部屋が、とてつもなく不吉な空間に思える。
とにかく、ろうそくを吹き消す必要があった。
一瞬でも、無防備な姿を晒すのは危険に思えたのだ。
爺さんはすでに、口をつぐんでいる。
話しかける言葉も無いと思ったのか。
あるいはまた、気を失ってしまったのか。
暗闇の中、俺は呟く。
「それでも、……手も足も出ない訳じゃない」
ほとんど、自分に言い聞かせているつもりだった。
何の因果か、束縛が解かれている今なら、あるいは。
連中が”保存食”を取りに来るその時が、……最後のチャンスだ。
▼
扉が開かれたのは、それから一時間ほど待たされた後のことだった。
部屋の防音は完璧らしく、外からは足音一つ聞こえないまま、突如として扉が開かれる。
「――!」
視界に映る人影は、二人。
いずれも屈強な大男である。
俺は、音もなく背後に忍び寄り、そのうちの一人に飛びかかった。
遮二無二そいつの首に腕を回すと、
「……なっ! ばかな!」
男は驚いてひっくり返る。
(良しっ!)
同時に、思い切り腕に力を込めた。……もちろん、殺すつもりで。
人殺しはしたことがないが。
大丈夫、”ゾンビ”で慣れてる。きっと俺にはできる。
だが、甘かった。
掴みかかった男が、俺の想像していた以上の力で反撃に出たのだ。
「この……ボケがぁ!」
男が思い切り地面を蹴り、背中に取り付いている俺を壁へと叩きつける。
「がはっ……!」
呼吸困難に陥るほどの衝撃を受け、両腕の拘束が緩んだ。
(まずい……このままでは)
頭の中ではそう思いつつも、全身に力が入らない。
「おい! さっさとこいつ、黙らせろ!」
「あ、ああ!」
そこで、俺の眼前にスプレー缶のようなものが突き付けられ、ぷしゅ、と、何かが噴霧された。
同時に、眼球に激痛が走る。
「ぐぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ありったけの悲鳴を上げ、両目を抑えた。
死にかけたゴキブリのように、床をのたうち回る。
服の袖でそれを拭おうにも、もはや手遅れだった。
涙がとめどなく溢れてきて、顔面が焼けるように熱を持っている。
「くそがッ!」
どす、と、腹部に追加の鈍痛。
俺の拘束から逃れた男が、苛立ち紛れに一発、蹴っ飛ばしてくれたらしい。
「おい! 縛られてるはずじゃなかったのか!」
「あの気色悪いオタク野郎がわざと緩めたんだろ。そうに決まってる」
「あのガキ……つぎ会ったら、目玉を繰り抜いてやる!」
「それより、さっさと縛り付けろ! 二度と解けんようにするんだ!」
その後、改めて縄で縛り付けられた頃には、完全に逆らう気力を失っていた。
吹きつけられたのは……たぶん、護身用の唐辛子スプレーってやつだろう。
その痛みが引いてくれることだけが、その時の俺の、唯一の望みだった。
「どうする? やっぱ先にこいつを……」
「いいや、やめとこう。反撃するくらい元気だってことは、長生きするってことだ。それなら、死にかけたやつの方から調理にかけた方がいい」
「けっ」
男の一人がつばを吐く。
「しゃーねえ。爺さんの臭い肉で我慢するか」
「ああ……」
そして、ホームレス風の爺さんが無力に引きずられていくのを見た。
扉が閉まる。
部屋に差し込む明かりが消え、暗闇と静寂が訪れる。
俺は待った。
ずっとその場にいて、待ち続けた。
そのまま、……半日ほど経過したはずだが。
爺さんは、戻らなかった。
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