その104 昏い日々
起こったことをまとめてみよう。
まず、新任の化学教師が現れて。
彼の名前は、
話の引き出しが多くて、色んなアイディアを持っていて、いわゆる”できる男”って感じの人で。
ふわっとした髪の毛が洒落ていて、すっきりした目鼻立ちをしていて。
歳は22歳。
大学は卒業したてだが、そうとは思えないほど、何事にも堂々とした態度の人だった。
それは、推薦入試も間近の時期で。
恋なんか、冗談じゃないと思っていた。
凛音は冷静な娘だった。
自分の将来が嘱望されていることも知っていた。
育ての親の祖父も、「鳶が鷹を生んだ」なんて言ってくれて。
一つ一つ、積み木を積むように、生きてきたつもりだった。
教師と生徒、なんて。
ドラマの世界でだけ起こることだと思っていたが。
そうすることが当然の権利だとばかりに。
そうあることが、お似合いだとばかりに。
彼は、凛音の隣に現れた。
曾我岳人は、とてもキスの上手い先生だったように思う。
▼
起こったことを、もう一度思い返してみよう。
ある日のことだった。
曾我先生が、”ハク”とアダ名される少女のことを話題にしたのは。
「あの娘はね、いつもはだんまりだけど、本当はとても賢い娘なんだよ」
彼女は、目立つ子じゃなかった。
いつも教室の隅っこで俯いて、本ばかり読んでいるような。そんな生徒だった。
「でも、勉強はあたしの方が……」
「確かに、そういうところに才能を発揮するタイプじゃないな。だが、君たちの年頃の娘にしては、よっぽど気がつく子だよ」
曾我先生は、どこか妹を褒めるような調子で、そう言った。
何気ない会話に過ぎなかった。曾我先生も、言葉以上の意味を込めたつもりなどなかったはずだ。
それなのに。
凛音の心に、もやもやとした嫉妬の火がちらついたのは、何故だったろう?
それまで、先生は色んな言葉で自分のことを褒めてくれたが。
たった一度でも、”賢い”とか、”気がつく”とか、そういう風に言われたことはなかった。
あるいは、それだけ自分が
だが、何故だか、その時だけは、曾我先生が他の女生徒を褒めることを許せなかったのだ。
――魔が差したとしか思えなかった。
たまたま先生に託された、数学のテスト用紙。
彼女の答案が、たまたま目について。
――なんであたしは、あの時あんなことを……。
高3の秋。大切な時期のはずだった。
“ハク”だって大学受験が控えているはずで。
それなのに。
気がつけば凛音は、そばにあったゴミ箱に、“ハク”の答案をそっと滑りこませていたのだ。
▼
それから先に起こったことは、……思い出したくもない。
ちょっとした騒ぎになった。
状況から推測した結果、誰かが盗んだ以外に考えられないことが判明したためだ。
自分のことは、意外なほどに疑われなかった。それだけ、クラスメイトや教師から信頼されていたのだ。誰が悪事を働こうとも、凛音だけは、……とか。そんな風に思われていたらしい。
疑われたのはむしろ、他の生徒たちだった。
それだけ、”ハク”にちょっかいを出していた生徒は多かった。――なにせ、彼女はあれで、けっこう目立つのだ。内気であることは罪ではないが、極端に周りと距離を置くのも角が立つ。クラス単位の共同体において、そうした生徒は、奥歯に挟まった異物に他ならないのである。
”ハク”は、追試を受けることになった。
受験前。余計なことなど、なるべく考えたくもない時期に。
それからしばらく、凛音は外からの情報を遮断する。
受験勉強は、現実逃避にうってつけだった。
だが。
それから二ヶ月も経った、ある日のこと。
たまたま同級生に聞かされた話では、――結局”ハク”は、追試を受けずに済んだという。
なんでも、自力で答案を発見した、とのことで。
背筋が凍った。
”ハク”は知っていたのだ。自分が彼女の答案を捨てていたことを。そうとしか考えられない。そうでなければ、見つかるはずがない。
彼女はずっと見ていたのだ。
優等生ぶった自分が、みんなの前で平気で嘘をつく姿を。
▼
受験、だとか。
大学、だとか。
今では、遠い昔にみた夢の中のできごとのように思えるが。
それでも”ハク”が自分をどう見ているか、想像に難くない。
――自分に悪意を持つ者の一人。
――屈辱を与えた者の一人。
それが、こんな世界にいて、どれほど残酷な行為を生むだろう。
これまで、なるべく自分が正しいと信じたことだけをして生きてきたつもりだが。
凛音は、正当な理由による反撃に、ほとんど耐性がなかったのである。
もし”ハク”が復讐を望むなら。……自分は、どうするだろう。
そうなってもまだ、みんなの望む”姐さん”でいられるだろうか?
「はろーはろー!」
部屋のドアをノックする音。
”ハク”だ。
「もうそろそろ出発なんで、準備してください」
「……ああ」
情けないことに、声は少し枯れていた。
「部屋、入ってもよろしい?」
「……どうぞ」
すると”ハク”は、無理のある作り笑顔を浮かべつつ、室内に足を踏み入れる。
「整理された部屋ですねー。ザ・優等生ってかんじ」
「……ありがと」
呟きながら、旅行用の鞄を引っ張りだす。
「こことも、今日限りでお別れだけどね」
「わかりませんよ? 世の中が平和になったら、また住むことになります」
「どうだか」
「そしたら、またみんなで学校に通えますね」
「バカいっちゃいけない。あたしら、本当はもう卒業してる時期なんだよ」
「あー、……言われてみれば。私、まだ気持ちだけ女子高生のつもりでいました」
のんきな娘だ。
「まぁ、卒業証書ももらってないし。一応、ぎりぎり女子高生で通るんじゃないかい」
「たしかに」
くすくすと可愛らしく笑う”ハク”。
「あ、そうそう、忘れないうちに言っておこうと思うんですけど。……昨日言ってた“あのこと”って、ひょっとして凛音さんが私の答案を捨てた一件ですか?」
何かのついでのように核心を突かれて、凛音は顔を逸らす。
「やっぱ、気づいてたのか」
「そりゃまあ。だって、状況的に凛音さん以外ありえませんでしたから。それに、教室から職員室までのルートを考えて、どのへんで答案が捨てられたか予測するのは難しくありませんでした」
言いながら、名探偵のようにえへんと胸をはる”ハク”。
「ま、そーいうことなら、気にしなくていいですよ。もうぜんぜんおっけー。私もさっきようやく思い出したくらいですから」
「……どうだろうね」
「あれだけ日々優等生ぶってりゃ、むしゃくしゃして悪事を働きたくなることくらいありますよ」
優しい言葉に、思わず伏し目になる。
「っていうか、たかが試験じゃないですか。どーでもよくありません?」
「ただの試験じゃない。受験前にやった試験だろ。……あんただって、気分悪くしたんじゃないのかい」
「それがですねー。私にとっては、いつもの試験と同じだったんですよ」
すると、”ハク”は苦笑しながら、
「私、大学受験しませんでしたから」
「……なんだって? どうして」
”雅ヶ丘高校”はそこそこの進学校である。大学に行かない生徒は珍しい。
「そうするだけのお金もありませんでしたし。卒業後は、しばらくのびのびした後、テキトーに就職するつもりでした」
ぽかんと口を開ける。
「……それ、よく親御さんが許したね」
「私、天涯孤独の身の上ですから」
初耳の情報の連続だ。
「あんた、ひょっとして、可哀想なお家の子?」
「そんなの、今時珍しくもないでしょう?」
それはそうかもしれないが。
「あともう一つ。我が”雅ヶ丘高校”では、長期にわたる避難生活により、鈴木朝香先生指導のもと、エコノミークラス症候群に対する予防策を実施中です」
「というと?」
「やるべき仕事はたんまりあるってことですよ」
――鈴木朝香先生。
たしか、関西弁をしゃべる体育の教師だったか。
「校舎内の土地をひっくり返して、農業を初めてみる、とか。それが嫌なら、ほつれた洋服を繕う仕事とか。小学生以下の子供たちの面倒をみる人も必要だったかな。あとは、お料理する手が足りないって、梨花ちゃんが言ってた気がします。もちろん希望するなら、物資調達班に加わっていただいても結構ですよ」
「なるほどね」
「ま、そういうことですから。過ぎ去った世界のことなどキッパリ忘れて、凛音さんも少しは前向きになっていただきたく」
「……ふん」
悔しいことに、実際、前向きになり始めている自分に気づき始めていた。
「おーい! 凛音―! そろそろ出るぞー! じーちゃん先にバス乗ってるからなー!」
自転車屋の外では、少しだけ元気を取り戻した祖父が呼んでいる。
「じゃ、行きましょうか」
「……うん」
昏い日々が、終わりを告げようとしていた。
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