第11話

 強い風が頬を撫でる。

 そこは不思議な場所だった。

 本当に〈愚帝の霊廟〉の中なのだろうか。

 エナの視線の先には、どこまでも続く夜の草原が広がっている。


 また風が吹いた。

 膝丈までの草が鳴り、風の通り道が見える。

 満天には星が煌き、落ちてきそうに大きな月が輝いていた。


「ここは我らの魂の故郷を模して創られた場所なのだ」


 ラッキーと名乗った狗はどこか得意げだ。

 創られた、ということはやはりここも迷宮の中だということなのだろう。

 どれだけの魔法、どれだけの奇蹟を駆使すればこのような場所を創ることができるのか。

 それらはいずれも人間世界ではとうの昔に失われてしまった技だ。

 今からこれを同じものを創ろうとしても、掌の大きさほども真似ることはできない。


 アリルはラッキーの背中で寝息を立てている。

 再会して、気が緩んだのだろう。

 ラヴリドが頬を舐めると安心したように気を失った。


 腹の傷は、大丈夫なのだろうか。

 深く抉られた腹の傷を見せられた時はエナも驚いた。

 怪鳥ガビダンの爪を受けて生きていた人間など、聞いたことがない。

 アリルの驚異的な生命力のお陰か、それとも幸運の成せる業か、今は小康状態というところだ。


 草原を歩きながらエナは歯噛みする。

 自分がもっと気を配っていれば、アリルがみすみすやられることもなかったはずだ。

 あれだけ大きな怪鳥の接近に気付かなかったのは、不注意というより外ない。


 暫く歩いていると、月明かりにうっすらと人工物らしきものが見えてきた。

 祭壇のようだ。

 磨き抜かれた純白の石壇には年老いた狗たちが円座になっている。


「珍しいこともあるものだな」


 一番奥に座った狗がしわがれた声を出した。

 咳混じりの言葉はひどく聞きづらい。

 どれほど長い時間を生きてきたのだろう。

 毛並みも荒れ、見るからに無残な姿だが眼の力は強い。


「人の子らよ、そなたらのおとないを歓迎する、と言いたいところではあるがな。ここは我ら狗たちにとっての〈聖地〉。本来は禁足の場所だ」


 エナは頷く。

 この狗たちが何者かはよく分からないが、敵に回すべきではない。

 立ち去れと言われれば、大人しく立ち去るのが筋だろう。


「ラッキーはまだ仲間内でも歳若い。気紛れを起こして人の子を助けたのであろうが……」


 老狗たちの視線が集まり、ラッキーが恐縮する。

 尻尾まで垂れてしまうのは落ち込んだ時の犬と変わらない。


 老狗たちが額を寄せ合って何事かを相談する。

 彼らが人を迎えることは極めて異例なのだろう。

 声音からは戸惑いの色がありありと窺える。


「しかし」


 エナが声を張ると、狗たちが注目する。

 言うべきは言わねばならない。

 躊躇ったり手を抜いたりすることでアリルを失うつもりはなかった。


「アリルは、私の仲間は怪鳥に襲われ、ひどい怪我を負っています。今すぐに追い出すことはご寛恕頂けないでしょうか?」


 怪鳥という言葉を耳にして、ガビダン、ガビダンと囁きの波が狗たちの間を伝わっていく。

 彼らにとっても怪鳥は恐るべき相手なのだろう。声の響きには恐れの色が濃い。

 もうひと押し、と思ったところで思わぬ援軍に助けられた。


「ワウ!」


 ラヴリドが一声吠える。

 まるで不甲斐ない後輩冒険者を一喝する熟練の戦士のようだ。

 するとこれまでの態度が嘘のように老狗たちは畏まり、平伏した。


「ははっ、仰ることは御もっともにございます」


 ラヴリドの言うことが分かるのだろうか。

 狗たちは低頭したまま、しきりに掌や鼻先を拭っている。

 そういえば犬が汗を掻くのも足裏と鼻先だけだとエナは誰かから聞いたことがあった。


「いやはや、我ら年嵩も祖たる御犬様にお逢いするのは稀なること。ご無礼のほどは平にご容赦頂きたい」


 申し訳なさげな老狗たち。

 それでも祖法は曲げられぬと言いたげな表情の一人がふと、エナの片手剣に目を止めた。


「済まぬが人の子よ。その剣を見せては頂けぬか」


 口調こそ叮嚀だが、有無を言わさぬ迫力がある。

 エナは剣の重みを確かめるように片手で持ち、傍らのラッキーに手渡した。

 老狗はラッキーから剣を手渡されると、捧げ持って九天の印を切る。

 刀身を改め、低い声で「やはりな」と呟いた。

 居住まいを正した老狗たちはエナに向き直り、深々と頭を下げる。


「おかえりなさいませ、〈首輪切り〉の子よ」

「〈首輪切り〉の子?」


 剣の銘が〈首輪切り〉だということはエナも聞き知っていた。

 家伝の剣の一つだが、何代前の誰が使っていた者かまでは憶えていない。

 ただ、家出の時に亡き父の部下が選んで持たせてくれたものだった。

 片手剣としても小ぶりで、エナの手にもよく馴染む。


「昔語りは後にしましょう。大恩人である〈首輪切り〉の子の仲間を死なせたとあっては我ら狗の末代までの恥」


 そう言うと老狗は一声吼えた。

 朗々と響く、惚れ惚れするような遠吠えだ。

 夜の草原の四方から、呼応するように遠吠えが返る。

 聞きつけた狗たちが、すぐさま集まりはじめた。

 その数は意外に多い。


 数十の狗がアリルの治療に当たる。

 手際はエナが驚くほどに良い。

 傷口を薬酒で洗い、貴重な血止めの薬草を傷口に貼りつける。

 総じて狗は器用なのだ。

 人の掌とは違う指の付き方をしているが、人より巧みに道具を扱う。


「昔、狗の父祖が一人の人の子と契約を交わした」


 治療を施しながら、老狗の一人が訥々と語りはじめた。


「〈律義者〉のカルリオネスは我らの手指の技に感服し、協力を要請した。父祖は渋ったが、話だけは聞くことにした。ので、話を請けることになった」


 カルリオネス。

 エナの知るカルリオネスと同じ人物だろうか。

〈愚帝〉と〈覇帝〉と〈律義者〉

 三つの綽名のどれが本当の彼を表すというのか。

 老狗は続ける。


「父祖が渋ったのは〈律義者〉の依頼があまりにも困難を極めたからだ。狗の手先がいくら器用であっても〈封印廟〉を永劫の未来まで維持し続けることなど不可能だからな」


 アリルの血が止まった。

 狗たちの治療は的確だ。

 だが、それでもアリルの顔色は戻らない。血を失い過ぎたのだ。

 エナはアリルの掌を強く握った。

 爪が食い込み、力を入れた場所が白く染まる。


 死なないで欲しい。

 生きてもう一度目を開けて欲しい。

 アリルは、エナの仲間だ。

 ただ梯団の仲間だというわけではない。

 秘密を共有できるかもしれない、掛け替えのない仲間だ。


「請けるはずのない仕事を請けたのは、カルリオネスが破格の対価を提示したからだ。当時、外の世界で数を減らし続けていた我らの父祖のために、安住の土地としてこの〈永遠の夜〉を創り上げた。彼はまさに〈律義者〉であった」


 エナは悩んだ。

 唇を噛みしめる。ラヴリドがアリルの頬を舐めた。

 アリルのために、まだできることはある。

 だが。

 その覚悟が自分にあるのだろうか。


「そして〈律義者〉は父祖と契約を結び、カルリオネスは最初の〈狗使い〉となった」



   ■



 ラジンはひたすらに歩き続けた。

 壁のない部屋はない。終わりのない草原もない。

 そして明けない夜もない。


 膝丈の生い茂る草原はどこまで歩いても同じ景色で、同じ星空だ。

 ガフは文句を言わずについてくる。

 二匹の犬たちはむしろこの草原にきてから元気が良い。


 あの沼が何だったのか、今でもラジンは計りかねている。

 沈み込む感覚は確かにあったのだが、気が付けば夜の草原に転がっていた。

 穏やかな場所だ。

 はじめはここが九天のそらかと思ったのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。


 地上ではなかった。

 星を詠めるガフによれば、こんな星並びはありえないのだという。

 つまりここは九天でも地上でもない。

 それなら幽界かとも思うが、それならどうして腹が減るのだろうか。


 ラジンとガフはまっすぐ歩いた。

 いずれどこかに辿り着くか、その前に空き腹を抱えて動けなくなる。

 座して死を待つつもりは、ラジンにもガフにもなかった。


 途中で野兎を見掛けたので、狩る。

 捕まえるために、罠を使った。

 先輩から教わった知識の中には〈不朽回廊〉の罠以外の知識もあったのだ。


 第五階層から決して出ることのできない〈狗使い〉が何故、迷宮の各所で使える罠を学ぶ必要があるのだろうか。

 その問いの答えを聞く前に、先輩は死んでしまった。


 恐らく先輩も知らなかったのだろう。

〈狗使い〉には珍しく、口の軽い陽気な先輩だった。

 知っていれば必ずラジンに教えてくれたはずだ。


 火を熾し、兎肉を炙る。

 ぱちぱちを弾ける火の粉に、浮かび上がるガフの顔にはっとした。

〈狗使い〉として働いていた時にはなかった目の輝きがある。


 もう、奴隷ではないのだ。

 ガフの目にそう教えられたような気がした。

 炙った兎肉に、塩を振る。味付けはそれだけなのに、滅法美味い。


 口の周りを脂だらけにしながら、ラジンもガフも肉を貪った。

 骨は、相棒である犬に投げてやる。

 もっと兎を捕まえることができれば、肉も分けてやれるのに。


 寝て起きても夜は続いていた。

 やはりここは幽界なのだろうか。

 幽界の姿についてはいろいろな伝承を聞いたことがある。

 今では顔も思い出せない祖父母が炉端でラジンに語って聞かせてくれたのだ。


 幽界には黒い太陽が浮かんでいるのだという。

 昼なお暗いという話だったが、月があるかどうかは聞かなかった。

 死んだ人が生き返ったわけでもないのに、祖父母は何故そんなことを知っているのか、ラジンは尋ねたことがある。


「それはラジン。行って帰ってきた人がいるからだよ」

「死んで生き返ったっていうこと?」


 煎り豆を舐りながら尋ねるラジンの頭を撫でる祖母の手は骨張っていたが、温かかった。


「そうじゃないさ。行って帰って来たんだ。そして、持ち帰った。往きて帰りし者を勇者ブリンガーと言うんだよ」


 もしも自分が勇者なら、とラジンは考える。

 ラジンが勇者なら、ガフと犬二匹を元の世界へ持ち帰る・・・・のに。

 残念ながらラジンもガフも犬二匹も勇者ではない。

 一生関わることもないだろう。

 勇者なんていうものは選ばれた存在で、ラジンのようなただの人間には関係のない存在だ。


 ただの人間。

 草むらを歩きながらラジンはその言葉に密かな感動を覚えた。

 そうだ。今はもう、ただの人間なのだ。

〈狗使い〉でもなければ、奴隷でもない。

 いつまで寝ていても叱られないし、犬の手入れを念入りにやっても大人から怒られない。


 この素敵な発見をガフにも伝えよう。

 そう思って振り向いたラジンは、ガフが立ち止まって呆然と前方を指さしていることに気が付いた。


「どうした、ガフ?」

「ラジン。何かある」

「何かって、何さ?」


 ガフの指さす方を見て、ラジンも呆然とする。

 確かに何かあった。

 遠目にしか分からないが、何か祭壇のようなものが見える。

 そしてその祭壇は、眩く輝いているのだ。




   ■



「十天の境を正しく分かつ権能を授かりし勇者始祖トトリの血裔たるエナが九天九柱の大御神に畏み畏み御願い奉る」


 エナは決意した。

 禁を破る。

 アリルのために、決して破ることはないと九天に誓った誓約を、エナは犯すことにした。

 エナの全身が輝きを帯びはじめる。


 狗たちはただ、震えながら平伏していた。

 何が起こるか彼らは知っているのだ。


「誤りを正し、境界を正し、損ないを正す。この者アリルの有り得べからざる傷を正し、旧に復し、正しき姿を蘇らせしめよ」


【恢復】

 この魔法を、決して余人の前で使ってはならない。

 この魔法を、決して余人の為に使ってはならない。

 この魔法こそは勇者血脈の証であり、勇者の本質そのものだからだ。


 勇者とて人の子に過ぎない。

 どれほど鍛えても、どれほど技を練っても、どれほど魔法を極めても、所詮は人の子だ。

 それなのにどうして勇者は勇者として幽界から帰ってくることができるか。


 曰く、魔を見通す目を持つからだとされている。

 曰く、幽界との境界を潜ることができるからだとされている。

 曰く、【恢復】の魔法を持つからだとされている。


 勇者が【恢復】の魔法を使うのではない。

 【恢復】の魔法を使うものが勇者なのだ。


 勇者宗家を勘当され、家を出ねばならなくなったエナは勇者の子孫を名乗ることができない。

 それは何よりも重い九天への誓約だ。

 だから二度と人前で【恢復】の魔法を使ってはならない。

 その禁を、エナは破った。


「今ここに奇蹟の力もてアリルの肉体と魂とをあるべき姿に復さん。【恢復】!」


 エナの身体を包む光は柱となり、天井を貫く。

 全身全霊を込めた最大級の【恢復】だ。

 そして辺りは真っ白になり、何も見えなくなった。

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迷宮の子/蝉川夏哉 カドカワBOOKS公式 @kadokawabooks

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