第二十三章 ストレイシープ
(1)
社を辞めてから一か月ちょっと経って。思ってたよりも順調に怪我の回復が進んだ。
お母さんの干渉から早く逃れたいわたしは、まだリハビリの途中だったけど実家を出てアパートに戻った。いつまでも実家でのたくっていると、お母さんがまたぞろ良からぬ策略を企むから。ただ……。正直言って、どかあんとぶちかましてしまったことの代償は大き過ぎた。わたしがすぐに就活出来る状態だったら、そんなに強い焦りはなかったと思う。短期のバイトで繋いで、その間にじっくり職を探せばいいやって考えられるから。でも、この手の状態じゃ出来るバイトがない。
指でつまむとか、手を添えて軽く押さえるとか、そういう動作はなんとかこなせるようになってきたけど、まだ力を入れて握る、ぐっと掴むっていう動作は無理。ちょうど、利き手が左右逆になったような状況になってる。そうすると、何をするにしてもてきぱきとは出来ないんだ。障害を持ってる人たちの苦悩や苛立ちが、よーく分かる。
当然のこと、何も出来ないわたしには稼ぎがない。高野森製菓で働いてお給料をもらえたのは、二か月分だけだ。自爆でこさえてしまった怪我だから、不慮の事故ってわけじゃない。傷害保険すら使えない。学生の時のバイト代を貯めてた分が、まだ辛うじていくらか残ってる。それが尽きたら、もうギブアップだ。このアパートの契約を切り上げて、実家に戻るしか道はなくなる。それだけは、絶対にイヤだ。お母さんの傲慢な態度は、あのクソハゲ教授と何も変わらないんだもの。わたしが自分の稼ぎで暮らしていれば、お母さんからどんな理不尽な要求を突き付けられてもはね返せる。でも、今はその武器がない。わたしは丸腰なんだ。
ああ……わたしも、ぬいくらいに徹底的に自分を押し通せればいいんだけどね。さすがに、そんなガッツはない。
「ふう……」
リハビリが進んで、右手の握力が生活に支障がないくらいに回復するまでにはまだしばらくかかる。そこをどう凌ぐか。
「出費をぎりぎりまで抑えて、なんとか耐えるしかないよね」
ぱたん。すっかすかの冷蔵庫を開けて、中を見回す。無造作に転がっている五本の缶ビールが、じわりと哀愁を漂わせている。
「これも五つ、か。一本飲んじゃおうかな」
わたしは辞めたんだ。辞めさせられたわけじゃない。自分の意志でそう決めて、きっぱり実行したんだ。何も恥じることなんかない。でも、五本の缶ビールがわたしに非情な現実を突き付ける。たった五人しかいない会社。そこからわたしだけが零れ落ちてしまったんだって。わたし一人が。一人だけが。
削れる自分がもうどこにも残ってない。だから零れ落ちるしかなかったんだって。もしわたしが、白田さんや黒坂さんのように替えの効かない存在だったら。自分でそう思えたら。わたしは、どんなにぶち切れても自暴自棄にはならなかっただろう。
そうなの社長。わたしはね、社長に絶望していたんじゃない。何も残せない。何も変えられない。ちっぽけな、無力なわたしに絶望してたの。社長が、わたしを追いかけてくれること。あの時わたしがそう願っていたのは、社長のためじゃない。ごめんね。あれは、わたしが崩れたくなかったからなの。もうこれ以上自分を見失わなくても済むのかなって、期待したからなの。単なるわたしのわがまま。ごめんね。ごめんなさい。
わたしは。冷蔵庫の扉をぱたんと閉めた。
◇ ◇ ◇
ぽつんと。部屋に一人きり。膝を抱えて。何もしないで。何も出来ないでいる自分が、どうしようもなくちっぽけでつまらない存在に思えて。わたしは……泣いた。
「うぐ……す。ぐすっ……すん。うっ……うっ」
これじゃ、立て直すどころじゃない。どんどん崩れていっちゃう。クソハゲ教授にぼろっくそに言われていた時よりも、もっと悪い。だって、あの時には出口が見えてたんだもん。卒業っていう出口が。それがわたしの希望だった。悪夢はもう終わるんだって。でも、今のわたしには出口がない。底なしの泥沼にはまってしまったみたいだ。どこにも光が見えない。ねえ、わたしはどこに行けばいいの? どうすればいいの? 誰か教えてよ。ねえ!
「ぐすっ……っく、ぐすっ……うっ……」
羊が一頭。めぇめぇと頼りなげに鳴きながら暗闇の中をあてどなくさまよってる。そこには狼はいない。危険なものは何もないのに。悲しくて。悲しくて悲しくてしょうがない。
誰か。誰かわたしの鳴き声を聞き付けてよ。大丈夫、こっちおいでって言ってよ。わたしをここから連れ出さなくてもいい。ほんの少しの光。そこに行けば混沌から抜け出せるかもしれないっていう、わずかな希望。それをかざしてくれるだけでいい。それ以上は何も望まない。ねえ……わたしを一人に……一人にしないで。
「ううーっく! ううーっ! ぐすっ!」
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