第十八章 暗号解読

(1)

 ばたん! どさっ! アパートに駆け込んで、カバンを放り投げ、その中からノートと手帳を出して座卓の上で広げた。


「偵察終了ー」


 最後の偵察先だった御影不動産河野支店から戻ってすぐ、まだ記憶がほかほか湯気を立ててるうちにすぐに解析作業を始めることにする。三冊目のノートに今日の偵察の戦果をずらずらっと書き出して、それをじっくり眺め回す。


「うー、と」


 わたしが社長の命令を受けて、クレーム受付用の回線に流れ込んでくるノイズをさばくようになって、まだ三日。まるでそれを待っていたかのように、ありとあらゆる不愉快なアクションが『わたしに』なだれんできた。それは電話だけではなく、白田さんや御影っていう女からのちょっかいって言うのも含めてね。訓練なしでいきなり実戦だったから、戦況も誰が敵か味方かも分からないまま右往左往してたけど。わたしは、いきなり敵視されたことよりも、その事情や背景が何も分からないことの方がずっとイヤだった。


 何の理由もなく人を攻撃するやつ。敵がそういう人格崩壊者なら、その人から徹底して遠ざかればいい。社を辞めるということも含めてね。でも、少なくとも社屋に出入りする関係者には極端に偏った性格の人物がいないんだよね。工場から一歩たりとも出ない超偏屈の出木じーさんは別として、他は社長も含めてみんな穏健なんだ。そういう穏健な人たちからは、推論に必要な情報がなかなか出て来ない。

 隠してるってわけじゃないと思う。表現がマイルドだから、その奥にあるものが見えにくいんだ。無責任な噂話とか、人の悪口とか、えげつない皮肉やツッコミとか、ネガな表現からその人の奥底にある思考や感情が分かるっていうのはよくあること。でも、温和な人からはそれがあんまり出て来ないんだよね。しかも、みんなの持ち場がばらばらで一緒に居る時間がうんと短い。それが情報不足に輪をかけてた。わたしは、推論を組み立てるのに必要な事実ファクトが全然足りないことに、ずーっといらいらしてたんだ。


 びっしり書き込みで埋まったノートを、じっくり見回す。社長の命令を受けた直後と違って、今日一日でそれまで全く分からなかった関係者の情報をいくつか入手出来た。その事実の判明に伴って、わたしの心象が大きく変化してる。


「うーん、そうなんだよなあ」


 いくらわたしが冷静に判断したつもりでも、初めの頃の推論には根拠のない思い込みがいっぱい混じっちゃったんだ。それは仕方なかったんだよね。社長の使った『敵』っていう言葉が、わたしを知覚過敏にしてしまったっていうことなんだろう。今日トーチカを出て情報収集をしたことで、新しい情報をゲット出来ただけじゃなく、厄介な思い込みをかなりリセット出来たの。


『SCH』『MK』『SR』


 キーになるこの三人の性格や背景が分からなかったことが、そもそも苦戦の原因だった。そして、今でもそれらが全部判明したわけじゃない。だけどまともな推論を立てるなら、可能な限り事実を骨組みにしないと話にならない。憶測だらけの推論じゃ、『論』じゃなくて単なる妄想になってしまうから。


「さてと。まずは……と」


 さっき書き出した、三人の略号をじっと見つめる。


 これまでの推論には、わたし個人の感情ノイズがたくさん入り込んでしまってる。何より先に、そのノイズをきっちり除去しないとだめだ。これまでの推論を解体して、ばらばらの部品パーツに戻して、ゴミをきれいに洗い落として、それから改めて組み立て直そう。


「よおしっ!」


 ばんぱんと座卓を叩いて気合いを入れた途端に。ぐうううっ! お腹が景気良く鳴った。ちぇ。気合い入れた途端にこれかよー。そうは言っても、空腹には勝てない。シャワー浴びて、晩御飯食べてからにしようっと。


 スーツを脱いでハンガーに掛ける。下着姿でハンガーに掛かったスーツをじいっと見つめて、思わず苦笑した。


「あんたさあ。就職して初めてがっつり活躍したよね」


◇ ◇ ◇


 晩御飯を食べて、シャワーを浴びて。スウェット姿で頭にタオルを巻き、開いたノートを見下ろしながらじっくり考え込む。まず、そもそものところからしっかり考え直さないといけない。そう、社長がわたしに情報整理を命じた動機のところから。


「そこが推論の端緒。一番重要なところだもんな」


 社長がわたしにテレルームでの情報整理を命じた『直接の』動機は、社長に関する情報の漏洩防止。社長の情報を一切持っていないわたしにすら『位置情報を漏らすな』と命じてるんだから、うちの社にとってそれは最高機密トップシークレットになる。そして、白田さんしか社長への電話取り次ぎをしてないんだから、情報を漏らしてる犯人は白田さんしかありえない。社長がわたしとテレルームをセッティングしたのは、白田さんを社の公式連絡網から外すことが目的だ。


「んー、でもさあ」


 わたしは首を傾げちゃう。自分の居場所をマスクするってことは、社長のプライバシーを守るためには確かに重要かもしれないよ。でも、社長は社の代表者だよね。社長と話をさせてくれというコールが来たら、その要望が不当なものでない限り、社の人間はアクセスを拒否出来ないでしょ。社長は外出していて不在ですと答えるにしても、急用や重大な案件の場合、社長の携帯に直接電話を入れたいっていうリクエストは当然来るよね。その内容が社長個人ではなく社に関することなら、社長はそれに受け答えする義務がある。


「つまり、白田さんが社長の居場所を漏らすことが不当なのではなく、白田さんは社員として当然のことをしてるんだよねえ」


 白田さんをスパイ扱いすること自体が、とんでもなく筋違いだよ。それに、自分の居場所を明かされることがどうしても嫌なら、社長の命令に従わない白田さんをクビにすればいいじゃんか。でも、社長は白田さんや黒坂さんを微妙に立ててる。二人には、わたしと違って大きな裁量権を認めてるんだよね。勤務時間の配分やバイトの雇用。社長はそれに一切口を挟んでないもの。


 つまり社長は白田さんに、『僕が外出中は、連絡して来ないでくれ』って命じていない。いや、命じることが出来てない。そこが。社長の指揮権の不全が。どこをどう考えたってめちゃめちゃ変なんだ。


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