第十六章 ほうれん草(二)

(1)

 午後の講義に出席する水沢さんと別れて、わたしは大型スーパーのイートインに移動した。紙コップに入ったコーヒーを飲みながら、三冊目のノートにあれこれ書き込みを加えて、ほっと一息つく。


「うん。彼女は……いいなあ」


 水沢さんが、谷口教授と御影って女の子の情報を教えてくれたのは、本当にありがたかった。わたしがどんなに冷静に谷口教授と話し合おうとしたところで、教授は学生とそんなに年の変わらないわたしをはなからバカにしてかかっただろう。それにわたしがぶち切れてしまったら、どうなっていたか分からない。水沢さんの情報で、わたしは教授がどんなに挑発してきても深追いしないってことを決めることが出来た。冷静になれたんだ。


 わたしが欲しかった戦果は二つ。一つは、教授にわたしへの攻撃を依頼した黒幕を特定すること。もう一つは、敵を牽制して昨日みたいな攻撃を仕掛けられないようにすること。特に敵攻撃の遮断は、わたしにとっても社にとっても最重要懸案だった。


 もし、わたしが教授の権威にびびって逃走していれば、教授の攻撃の第二弾、第三弾があったかもしれない。でも、わたしは水沢さんの情報を上手に使えた。権威を笠に着て人を見下すタイプなら、倫理や常識を元に抗議しても効果がない。証拠を突きつけ、矛盾を指摘し、感情を排して事実関係だけで争う。毅然とした対応を示し、こっちの覚悟を見せる。絶対に感情論に落とさない。そうしないと相手の術中にはまる。そう。わたしの欲しいのは情報と再発防止の確約だけで、謝罪や補償は一切要らない。だってわたし、谷口なんて人、まるっきり知らなかったんだもん。


 幸運にも、突如乱入してきたクソハゲ教授と一触即発の状態になった谷口教授は、わたしから意識が逸れた。現時点では、もしわたしへの攻撃を依頼した人物が谷口教授をせっついても、それには対応出来ないだろう。


 たぶん……あのクソハゲ教授とやり合うのは、谷口教授には荷が重いと思う。道理が通じない相手と会話するだけでも大変なのに、あのクソハゲはオリジナルの道理を振りかざして、何にでも当てはめる。しかも周りの制御を一切受けない。谷口教授は、クソハゲの暴挙をお金、社会的地位、権威、業績、そういう既存のツールで撃破することが出来ない。格下相手には通用した印籠がひとっつも役に立たないこと。谷口教授にとっては、それは未曾有の恐怖になるだろうなあ。


 でも、それはあのクソハゲにとっても同じことだ。学生相手のアカハラ。それがどんなに露骨であっても、これまでわたしたちの口からそれに対する抗議や非難の声が上がることはなかった。そりゃそうよ。うっかり教授の悪口でも言おうもんなら、徹底的に糾弾され、その後干される。そんなの、最初から分かってたもん。少なくとも卒業するまでは、教授の暴風雨をなんとか凌いでいかないとならなかったんだ。ガクセイの分際で横暴だアカハラだって騒ぐ余裕なんか、わたしたちにはこれっぽっちもなかった。


 それは、みりを見れば分かる。いかにみりが女傑だと言っても、先生と正面衝突したのはあくまでも科学的事実の部分についてのみ。事実でないことには納得できない、そう言い続けただけ。みりは、クソハゲの乱暴な指導方針や学生への横暴姿勢に嫌味や愚痴を漏らすことはあったけど、それを教授に直接抗議したり派手に逆らったってことはなかった。それは労力だけをべらぼうに消費して、実入りが少ないからね。

 ぬいにしたって、無視はクソハゲに対してだけじゃない。うちのダイガクっていう存在そのものを全否定してたから、その抵抗の矛先が教授個人に向くことはなかった。ぬいは教授に対してだけじゃなく、誰に対しても大学に在籍してる意義を主張しなかったんだ。クソハゲはそれを知っていたから、最後はぬいを適当に扱った。実質、黙殺したんだ。俺には、この脳足りんのバカ女にあえて突っ込む義理なんかないってね。


 つまり、教授の思うようにならない学生が二人いたって言っても、結局学生は教授の手のひらの上からは出られなかったんだ。クソ腹立つけど、全ての学生が教授の奴隷だってことは、これからも変わらないだろう。

 でも、谷口教授が相手だとそうは行かない。クソハゲ教授にとって、学生ははるかに格下だ。学生がどんなに反発したところで、力尽くで押さえ込める。でも、知名度も評価もクソハゲより高い谷口教授は、クソハゲにとってはとんでもない難敵。谷口教授と同じで、クソハゲも自分の得意ツールをそのまま相手に使えないからね。


 普通はさあ。教授クラスの人たちなら、社会性もそれなりに高いんだと思うよ。でもクソハゲと谷口教授は、社会常識に大穴が開いてる。それなのにプライドだけはいっちょまえにバカ高い。少なくとも、わたしにはそう見える。二人は、消耗戦がばからしいと気付くまでノーガードの殴り合いをするんじゃないだろうか。まあ、どっちに凱歌が上がってもわたしには関係ないし、その勝敗の影響はわたしには及ばないだろう。


「ふうっ」


 ただ。わたしが水沢さんを巻き込んじゃったのは、本当はまずかったかも知れない。なぜわたしを攻撃した首謀者が谷口教授だと分かったのか。それは、学生が谷口教授のことを漏らさなければ絶対に出てこないはずだった。覆面テスターの形式を取ってる課題で、その覆面を外しちゃうと課題の条件から外れてしまう。それを口実に、谷口教授が水沢さんを徹底的に吊るし上げる可能性もあったんだよね。それは、第二の『わたし』を生み出してしまうことになる。

 わたしは、これから定期的に水沢さんのステータスを確認した方がいいだろう。誰のケアも受けられずに磨り減ってしまったわたしの二の舞をさせるわけには、絶対にいかないから。


 わたしは、水沢さんから聞き取ったことを書き留めた手帳をぱたっと閉じた。それから腕組みをしてじっくり考える。水沢さんにとって、わたしはものすごく攻撃的なおねーさんという印象になるんだろうか? だとしたらそれは、わたしの実態とは違う。

 わたしの本質は羊。温和で、従順で、臆病で、様子見で、のんびり。それがわたしのキャッチフレーズだ。実際、今までのほとんどをそうやって生きて来たと思う。今のわたしがそう見えないんだとすれば。とんがって見えるんだとすれば。それは、わたしが自分を見失う瀬戸際にあるからだ。これ以上後退すると、もうその先は崖。崖から落ちて自分を失えば。わたしは、もう二度と自立出来なくなる。そんなの、真っ平よ!


 印象と中身のズレ。それはわたしだけじゃないよね。一見引っ込み思案で地味に見える水沢さんが、実は観察眼がとても鋭くて好奇心が強いっていうのも同じだ。表面に見えている部分だけが、その人を代表しているわけじゃない。そして表面に出る意志や感情は、慎重な人、控えめな人、大人しい人ほど限られている。


「そうか。なるほど。みんな羊、か」


 うん。今わたしが巻き込まれているごたごたも、きっとそういうのに関係しているんだろう。五人の社員のうち、どうしようもない曲者は、出木のじいさんだけ。あとは、社長、白田さん、黒坂さん、わたし。そしてバイトの御影も含めてみぃんな控えめで地味なんだ。そうしたら誰かが率先して互いの意思疎通をリードしないと、それぞれが何を考えているのかが見えてこない。

 うちは、今まさにその状態。みんなが疑心暗鬼になっているのに、誰にもそう言えない。わたしは、そもそもそれがおかしいと思うんだけどなあ……。


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