第六章 トーチカ

(1)

 わたしがノートに暗号を書き散らしながら一通りの状況分析を終えたのは、もう三時過ぎだった。いつもなら白田さんが階段を上がる足音が聞こえて、お茶しようって言って来る時間だ。でも昨日と同じように、全くその気配がない。


 入社してから、白田さんがわたしに見せていた姿。おうようでからっとした、朗らかなおばさん。それが本当に白田さんの本性なのかどうかは、まるっきり分からないんだ。わたしの本心としては、白田さんの姿勢を疑いたくない。あれは、掛け値なしにわたしに親切にしてくれてたんだって思いたい。でも御影っていうわけ分かんない女が絡んでいる以上、わたしの警戒心は最高レベルに上げておかないとなんない。


「めんどくさー」


 わたしが暇で暇でかなわないって言って、よだれこぼしてのたくってたまさにその時に、もうすでに諜報戦が始まっていたんだろう。わたしは、あまりに警戒心ゼロでのんき過ぎたってことか。ぬいの容赦ない指摘がひりひりしみる。


 白田さんがわたしをどう思ってるのかはともかく。わたしは、ここで手のひら返したように白田さんを敵視したくはない。だって、わたしは白田さんに何もされてないもん。無視とか嫌がらせみたいな実害は、まだ何もないんだ。それなのにわたしから一方的に没交渉にするのは、逆にわたしの人格を疑われるだろう。そんなのは嫌だ。とりま、三時の休憩で事務室に顔だけは出しておこう。話が弾まなくても、おやつが出てこなくても、それは仕方がない。でも。それでも、ね。


 わたしはヘッドセットを外して、電話を待機モードにした。非通知拒否に設定してからは、電話はむっすり黙り込んでいる。そのままずっと大人しくしてくれればいいんだけど、ね。これからどうなるかは、まだ分からない。


「ふうっ」


 開いていた三冊のノートをぱたぱたと閉じて積む。その上にシャーペンをぽんと置いて、ぎっと椅子を鳴らして席を立った。


「さて、と」


 わたしは社長から受け取ったカードキーでドアを解錠し、カードを慎重にスーツの胸ポケットに入れた。部屋を出るにも鍵が要るってのは、厄介だなー。忘れずにカードキーを携帯する方法を、何か考えておかないとだめだ。


 こつ……こつ……こつ……こつ……。しんと静まった階段をゆっくり降りて、事務室の前で声を掛ける。


「白田さーん?」


 返事がない。あれ? いつもなら、すぐはあいと声が返ってくるのに。変だなあ?

 ドアを開けようとしたところで、事務室の中で響いている異様な物音に気が付いた。そして、わたしがうっかり地雷を踏んでしまったことを……覚った。


◇ ◇ ◇


 ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。ぎしっ。

 椅子か机が揺れて軋んでいる音がする。それに混じって、かなり大きなあへ声が響いてくる。


 ちょ! 仕事中に一体何やってんのよっ! 一気に全身の血の気が引いた。いい年こいたおばはんが、真昼間からオフィスファック!? か、勘弁してっ! わたしは大慌てで靴音を立てて階段を駆け上がり、テレルームに逃げ帰った。そして、頭を抱えて事務机の上に突っ伏した。心臓が猛烈にばくばく言ってる。


 落ち着け! 落ち着けっ! 白田さんが、誰かに襲われてるっていう可能性は? いや。それなら最初に悲鳴が聞こえているはずだ。わたしは、ずっとヘッドセットを外したままで考え事をしていた。誰が来ていたにせよ、挨拶や会話の声は二階まで上がってくるはずだし、その気配は全くなかった。

 つまり、白田さんがこっそり事務室に呼び込んだとしか思えない。だけど、それはあまりに不自然だ。だって、それはこっそりじゃないもの。しんと静まり返った事務室で、普段は絶対にしないはずの音や振動が響けば、それは必ずわたしに聞かれることになる。白田さんのご主人やお子さんに気付かれないよう浮気するにしたって、密会の場所ををわざわざ事務室にする意味が分かんない。


「あ……」


 そうか。変則だけど、これは宣戦布告だ。わたしに面と向かって敵意を剥き出しにすれば、それはわたしから直接社長に伝わる。前も考えたんだけど、社員のパーツの中で、わたしの次に替えが効くのは白田さんのところだ。いくら白田さんが優秀だと言っても、所詮は事務に過ぎない。白田さん自身が言っていたように、もっと若くて安く雇える事務員に切り替えることは特に難しくないんだ。


 でも、現時点で社の事務を全部掌握している白田さんをすぐに業務から外すことは、社の浮沈に関わる。何を企んでいるか分からない白田ー御影のラインを社から切り離すつもりならば、社長がかなり前から白田さんを外す準備をしておかないとならないんだ。そして、今の社長には白田さんを外すだけの明確な理由がない。素振りが怪しいと言うだけで首を切ろうとするのは、しょうもない嫌がらせと同じレベルになってしまう。大学のクソハゲ教授の黙ってろ、引っ込んどれ攻撃と何も変わらない。それは、あまりに下策だ。


 明らかに挙動がおかしいのに、社長が白田さんたちを泳がせているのは、どこかで彼らが馬脚を現すのを待ってるからと言うことになる。その一番手っ取り早いきっかけは、わたしへの直接攻撃だ。白田さんたちに何もしていないわたしが敵視され、彼らに無視されたり暴言をぶつけられたりすれば、社長はそれを足がかりに彼女たちの退場の道筋を作れる。

 わたしという遊兵をずっと泳がせていたのは、彼女たちの露骨な敵対アクションを引っ張り出すための撒き餌ということなのかも知れない。それは……わたし的にはなんだかなあなんだけど。でも、白田さんがそんな見え見えの撒き餌に食い付くわけがないと思う。


 白田さん側からわたしを敵視したり、無視するアクションを起こせなければどうするか? それがさっきのなんだ。わたしからそうするように、し向ければいい。


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