(2)

 ぷしゅううう……。


 悪夢の水曜日。わたしはよれよれになって帰宅した。よく生きて帰れたと思うわ。昨日の夜にしっかり戦闘シミュレーションをしたのに、そんなんじゃ全然追いつかないくらいの激烈な絨毯爆撃。もう満身創痍の真っ黒焦げだよ。


「ぐ……えええ」


 昼ご飯を食べられなかったからすっごいお腹が空いてるのに、猛烈に吐き気がする。部屋の鍵を開けるなりトイレに直行して、便器に頭を突っ込んだ。


「ぐえっ。えっ……ぷ。うぐー」


 胃袋が空っぽだから吐くものが何もなくて、酸っぱい胃液しか上がって来ない。鼻孔にその臭いが流れ込んで、余計吐き気を増幅する。我慢出来ないくらい、気持ち悪い。サイアク。


「ぐ……えーっぷ」


 よろよろとトイレを出て、何度も口をすすぐ。水だけでも吐きそうだけど、何もお腹に入れないのはどうにもまずいだろう。冷蔵庫からポカリを出して、ちょっとだけ口に含む。何を飲んでも食べても吐きそうだけど、堪えるしかない。


「ぐ……」


 こみ上げる吐き気を全力で押さえ込みながら、わたしは座卓に三冊目のノートを広げた。休みたい。何も考えずに、このままベッドに転がって眠りたい。でも、わたしの手は、足は、まだ動く。頭は、考えることが出来る。


 今日の戦闘は、間違いなく壮絶な負け戦だった。それは相手が強いからじゃない。わたしの備えがものっそ甘かったからだ。同じ手口で連日爆撃されたら、冗談抜きで爆死してしまう。自分の装備を見直して作戦を立て直し、敵の攻撃に的確に反撃して行かないとわたしは保たない。このままじゃ、すぐに敗北。白旗。降参だ。


 繰り返しこみ上げて来る吐き気を無理やり噛み潰すようにして、わたしはぎりぎりっと歯ぎしりをした。


「負けて……負けてたまるかあっ!」


 わたしは、三冊目のノートに簡潔に書かれた一連の暗号を、じっと睨みつける。本当は、もっともっといっぱい情報を書き込みたかった。でもあまりに爆撃が激しくて、応戦することで手一杯になっちゃった。後半冷静さを失ってパニくったのが、特に痛かったな……。それでも、今ならまだ思い出せる。何があったかを。そして、それにわたしがどう対処したかを。

 もちろん、今日のわたしの対応は決してベストエフォートなんかじゃない。だけどここで白旗を上げてしまわない限り、抗戦した成果は後で必ず出て来るはず。わたしは、そう信じて次の手を考えるしかない。


 折れてもかまわないってくらいシャーペンをぎっちり握りしめて、ノートをぎいっと睨みつける。


「……く」


 今日のわたしの戦闘。相手は出て行けおじさん一人ではなかった。そこには、少なくても系列が五つ存在していた。しかも、関わっている人数が桁外れに多い。昨日シミュレートした時危惧したみたいに、やっぱり代理人を使った攻撃が行われた。わたしが徹底的に甘かったのは、その規模を少なく見積もっていたことだ。まさか、あそこまで激しくやられるとは……。

 まあ、いい。感情の後片付けは、最後の最後にしよう。今日何があったかをしっかり思い出して記録し直し、その背景をぎっちり解析して次に備えないと、わたしは永遠に失地回復出来ない。


「ようしっ」


 肝が据わって、少し吐き気が収まった。握りしめていた手を緩め、ノートの上にシャーペンをぽんと置く。少しでもエネルギーチャージしないと、頭が回らなくなる。何か食べよう。吐き気も一緒に食べて、飲み込んでしまえばいい。そうやって、開き直るしかない。


 冷蔵庫からオレンジを出して、八つに切って。座卓に戻って、笑っているオレンジにがぶりと齧り付く。そいつが、わたしを嘲笑している敵であるかのように。


「負ける……ものかっ!」


 敵の喉笛を噛み切るような勢いで、わたしは次々にオレンジにかぶり付いた。果汁が飛び散って、開いていたノートに黄色い染みが点々と出来る。それは、わたしの心に無理やり刻み付けられた刀傷。この屈辱は、絶対に忘れないっ! オレンジの香りと甘さで緩みそうになる気力をどやしながら、わたしは固くシャーペンを握った。


「さあ、しっかり思い出そう!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る