(2)

「やられた……」


 わたしは、まんまと白田さんに嵌められたことを覚った。さっきの出来事。あれを、社長にそのまま報告しようがない。なぜか? 目撃者が誰もいないからだ。


 普段事務室にいるのは、間違いなく白田さんだけだ。でもさっきのが本当の出来事だったかどうかは、今から確かめようがない。わたしは物音を聞いただけ。目撃してないんだ。わたしが白田さんのご乱行を社長に上申したところで、白田さんがそんなことするはずないでしょって言えば。さっきの当事者が白田さんであってもなくても、わたしは虚偽の事件をでっち上げたことになってしまう。


「くっ」


 もし、さっきわたしが動転して逃げ出さなくても。冷静に何が事務室であったかを確かめようとしても、事務室には鍵がかけられていたんだろう。結局、わたしが事実確認出来ないように仕組まれてるんだ。この出来事を社長に言おうが、警察に通報しようが、結果としては同じ。何、バカなこと言ってんの! 白田さんは、全てを否定して激怒するだろう。そうしたら、わたし一人が悪者になる。


 大混乱していた頭が冷えて、少しずつ冴えてきた。もう一度、しっかり考えよう。さっきのが事実であってもそうでなくても、わたしが取りうる対処法は二つしかない。社長に話すか、伏せるか、だ。それぞれにメリットとデメリットがある。


 社長に話すメリット。


 ぺーぺーのわたしが、白田さんに何か出来ることはない。社長に今日の出来事を報告したところで、わたしが白田さんに直接何かしろという命令が下されることはないだろう。わたしの報告を受けて、社長がどうするかを判断するだけだ。つまり、白田さんの件がわたしの手を離れる。わたしは楽になる。

 でも。さっきの出来事は、もし事実だとすれば白田さんにとっては致命的だ。自らクビの口実を与えるようなもの。それを分かっていて、これ見よがしにわたしに見せつけるはずがない。白田さんが自分にとって不利なことをあえて曝したのは、わたしがそれを証明出来ないからだ。証明出来ない以上、白田さんは必ずそれを否定する。何バカなこと言ってるのって。


 社長は、わたしを新兵として使ってる。そして新米のわたしは、まだ社長に全面的に信頼されているわけじゃない。社の事務をきちんとこなしてきたベテランの私と、入社したばかりのぐーたらOLのどちらを信用なさるんですか? そう反論されたら、わたし同様に事実確認出来ない社長は二の矢が継げなくなる。

 結局、さっきのが事実であってもなくても社長はまだ動けない。わたしの報告にはなんの意味もなくなる。そして正直に申告したはずなのに、結果としてわたしの信用度を下げることになっちゃう。それが大きなデメリットだ。


「うーん」


 社長に話さないで、まだ伏せておくメリット。それは、敵が次になんらかのアクションを起こすまでの時間を稼げるっていうこと。


 わたしは今トーチカに潜んでる。鍵を持たない白田さんは、この部屋にアクセス出来ない。ここはわたしと社長だけが出入り可能の堅固な要塞だ。わたしがここに身を潜めている間は、わたしからアクションを起こす必要がない。敵は事務室を出て、わたしを直接攻撃せざるを得ない。その行動や手段を確かめてから、『次』を考えればいい。


 ただ。そんな単純な話では終わりそうにないんだよね。篭城すれば、わたしには一切の情報が入って来なくなる。普段社屋にはわたしと白田さんしかいないし、事務の白田さんが全ての情報を持ってるんだ。そのラインを完全に失うと、わたしは今後いかなる推理もアクションも出来なくなる。情報という武器を失うこと。それが、どうしようもないデメリットだ。社長に知らせるにしても伏せるにしても、まだわたしが切れる有効札が何もない。諜報部隊が情報を取り上げられたんじゃ、最初から負けだ。これじゃなあ……。


 腕組みしたまま、鳴らない電話をしばらくじっと睨みつけていたけど。ふっと思い付いた。何があったのかを記載しておくための、三冊のノートのことを。それに何が書けるかを。


 一つは業務日誌だ。それはクレームとしてかかってきた電話の内容を正確に記録し、社としての対応を決めるための基礎になるもの。一切の虚偽は書き残せないし、そのために会話の内容を録音することにしている。でも、さっきのは電話ではない。社内であった異常事態。社員としてそれに対処すべきだったのかもしれないけれど、本来はクレーム対応のテレオペであるわたしの業務範囲外のことだ。今後どうするかはともかく、クレ担の日誌に書くべきことではない。


 じゃあ二冊目はどうか。二冊目は、わたしと社長にしか意味のないかなり私的なものだけど、それでも社長の業務命令をきちんと履行するには欠かせない第二の業務日誌。わたしにとっては、かなり公的な意味合いが強い。クレ担日誌と違うのは、そこにわたしの印象、感想、推理を書き込めること。必ずしも事実だけで埋めなくてもいい。それは、電話から得られる事実だけでは情報量が絶対的に足りないからだろう。随伴する情報をわたしの方で補完して、その代わりそこに私の個人的な嗜好や感情が入り込むことを許容する。判断は僕がするから、出来るだけ判断材料を増やしてくれ。そういうことだろう。


 ただ。クレ担日誌と同じで、それはかかってきた電話から得られた情報をもとに組み立てたものである必要がある。そして。さっきの出来事は、録音して証拠を残すことが出来る電話での情報じゃない。あれをもとにわたしがいかなる憶測を爆発させたところで、それは社長の判断には組み入れられないだろう。


「なるほど」


 社長が、トーチカを作ったわけ。そして、わたしにその意義を説明したこと。その真意がじんわりと見えて来た。


 社長の言う『敵』が存在する限り、敵は社長を降伏させようとして何らかの攻撃をしかけてくる。ただ、社長にもその敵の全容や攻撃目的、攻撃方法が分からない。だから、わたしへの指示がとても抽象的で曖昧になる。

 社長がわたしに『こなせ』と言ったこと。それは、社長にすら分からない敵の動機を、社長ではなくわたしが代わりに探らないといけないってこと。そういう視点がいるってことだ。そのためには、コミュニケーションラインをぎりぎりまで絞って情報を単純化し、証拠を残しつつ明確な推理を遂行出来るようにしておかないとならない。クレーム処理用の電話。それが全ての交点になるって社長が言ったのは、こういうことだったんだ。


 わたしという染まっていないまっさらな人物を介して、社長と社員とのコミュニケーションを、直接ではなくわたしを介して間接的に確保する。社長は、わたしにはまだ潤滑油役は無理って言ったけど、白田さんはそう思わなかったんだろう。だから白田さんは、わたしを社長の情報を持つ貴重な情報源とみなして、とても好意的に振る舞っていたんだ。


 でも。わたしをテレルームに閉じ込め、社への回線を分け、わたしと社長以外のテレルームへの出入りを禁止するっていう社長の一連のアクションは、わたしという人間を情報拠点にすることは許さないっていう社長の暗黙の意思表示だ。だとすればさっきの白田さんのアクションは、わたしへの単純な『ハズし』攻撃ではなく、社長の目論みをくじくための意趣返しっていうことなのかもしれない。社長がその気なら、私も同じようにしますよ。今後は、ようちゃんという接点を拒絶しますよって。


 だけどそれをダイレクトにやったら、わたしがぶち切れて社長に苦情を言うことになる。社長から睨まれて困るのはわたしじゃなく、白田さんだ。だから、わたしの方から距離を置かざるを得ないシチュエーションを仕組んだ。そういうことなのかなあ。むー。


 でも。あまりに判断材料が少な過ぎる。わたしが何をどう考えても、まだまだ現時点では単なる憶測の域を出そうにない。白田さんの個人的作戦なのか、御影っていう女の入れ知恵なのか、それすら判断出来る材料がないんだもん。こなせって言われても、わたしには荷が重いよなあ。



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