28.たとえ何を言われようとも
冒険科の校舎の一階には、医務室がある。
普通の学園にはほぼ間違いなく在るであろうその部屋は、普通の施設が少ない冒険科にも変わらず存在した。むしろ普通科よりも冒険科の方が、そこにお世話になる学生は多いのであった。冒険者には、怪我が付き物だからである。
その医務室は、内装は質素で地味ではあったが、一通りの器具は揃っていた。それらはきちんと整理されており、良く管理が行き届いているのであろう事が見て取れた。
部屋はそこそこに広く、真っ白なシーツの敷かれたベットが、計三つ並んでいる。
そして、その内の一つに、一人の男子学生が横たわっていた。
王都では珍しいその黒髪の少年は、疲れきっていたのか随分深く寝付いていた様子だったのだが。
目を覚ましたのだろう。その少年が。ヴァイス・エイガーが、ゆっくりと、その目を開いた。
「……ここは……」
いまだ焦点の合っていないような目で、ヴァイスはぼんやりと辺りを見回した。頭に霞がかかっており、一体どれほど寝ていたのか、そもそもなぜ寝ていたのかも良く分からない。
そんな様子のヴァイスが、ゆっくりと身体を起こした所で。そこに、ベットの並んでいる側とは反対側から、声が上がった。
「ヴァイス、君? よかった、気が付いたんだ」
そう言って、銀髪の少女、アリス・クラディスが、ヴァイスのベット脇へと駆け寄ってきた。
その姿を、そのアリスの眼鏡の奥に覗く、安心したような色を浮かべる瞳を見て、ヴァイスの意識が急速に覚醒へと向かっていった。
「先輩? ……そうだ、俺は決闘に、負けて……」
何かを思い出すように虚空を見つめていたヴァイスの瞳が、不意に大きく見開かれる。
彼は、傍に寄ってきていたアリスの両肩を掴み、彼女に詰め寄るように声を上げた。
「先輩! 大丈夫ですか!」
「へ、な、何が?」
突然大声を上げたヴァイスに、アリスがたじろいだ様に聞き返した。
それに対し、ヴァイスが深刻そうな表情で続ける。
「何もされてませんか!? 俺の代わりに、あいつの言いなりになるって!」
「ああ、あれは、一日の約束だったから。もう夕暮れも近かったから、きりが良い様に明日からになったの。……明日の朝早くに、俺の部屋に来い、って」
ヴァイスの言いたい事を理解して、アリスが答えた。
「私、朝は院の事で忙しいのに。困ったなぁ」
アリスが苦笑している。それを見て、ヴァイスは理解できないと言った様子で呟いた。
「そんな、なんで、笑ってるんですか。あいつに、何をされるか……!」
「仕方ないじゃない、約束だし。冒険者にとって、約束は大事なんだよ? 信頼に関わるからね」
あんな傲慢な者の言いなりに、しかもうら若き女性がなるなどと、ヴァイスは想像するのも恐ろしかった。
しかも相手は、筋金入りの貴族主義者だ。平民の人権など知った事では無いだろう。アリスに対しても、きっと容赦などしない。好き放題嬲れるに違いなかった。
アリスがそんな目に遭うなど、ヴァイスには到底容認できない事であったが。当の本人は、まるでそれを諦めたかの様に、薄く笑っていた。
仕方が無いなんて、そんな事は無い。そんな事、あってたまるか、と。
ヴァイスは奥歯を噛み締め、立ち上がろうと身体に力を入れるが。
「ちょっと、駄目だよ! 身体は先生が治してくれたけど、体力までは戻ってないんだから。まだ安静にしとかないと!」
慌てて言うアリスの言葉通り、体中の負傷はすっかりふさがっていた様だが。ヴァイスの体の底から、途方も無い程の倦怠感が襲ってきて、彼はまるで立ち眩みでも起こしたかのように、その場でふらついた。
そのまま、ヴァイスはベットに腰を落としてしまった。
「くそっ、これ位……!」
「駄目だよ、動いちゃ」
悪態を付くヴァイスに、アリスが宥めるように言うが。
「こんなとこで、じっとしてる場合じゃないでしょう!」
と、ヴァイスは立ち上がろうと脚に力を込めるが。やはり上手くいかないようだ。
そんな彼に、アリスが幾分冷たい感じで声を掛けた。
「一体、何処に行くの」
「決まってるでしょう! 奴の所に、そんな約束撤回させないと!
「撤回って。一体、どうやって?」
「それはっ!」
どうやって。アリスの言葉が、視線が、ヴァイスに突き刺さる。どこか非難するような瞳が、ヴァイスを射抜いていた。
「それはっ……!」
何も無かった。うまい手なんて、すぐには思い付かなかった。決闘で完膚なきまでに叩きのめされた今、他に手なんて考えつかなかった。
それを自覚して、ヴァイスは悔しそうに歯軋りして、押し黙ってしまう。
そんな自分に苛立って、行き場の無いその想いを、ついヴァイスは荒げた声で吐き出してしまった。
「大体、なんで承諾したんですか! 先輩には関係なかったんだから、突っぱねればよかったんですよ! どうして、あんな馬鹿な真似を!」
そんな、八つ当たりにしか思えないヴァイスの台詞に、アリスも少しムッとした様子で、
「それは、私の台詞だよ! ヴァイス君も、なんであんな無茶したの! 下手をすれば死ぬ所だったんだよ!?」
「それは、仕方ないじゃないですか! 少しくらい無理しなきゃ、勝てやしないんですから!」
「少しじゃないよ、あんなの少しじゃない! 本当に、死んでたかもしれないんだよ! あんなに殴られて、怪我して、それでも立ち上がるし……。 みんなが、私が! どれだけ心配したと思ってるの!」
アリスが、珍しくも本気で怒りを見せていた。からかうゲイルに対して怒っていた事はあったが、その時はどちらかと言うと叱るという様な感じであったため、それは本当に珍しい事であった。
それくらい、アリスは心配していたのだ。決闘中のヴァイスに、心底肝を冷やされたのだ。ヴァイスが決闘と言う名の暴力に晒されている間、彼女は生きた心地がしなかったのだ。
だからこそ、彼女も何時に無く感情的になっていた。遠慮なんて出来なかったのだ。
そして。そんな、初めて向けられるアリスの怒りの感情と。「心配した」という彼女の言葉に、ヴァイスは反論の言葉を飲み込んでしまった。
結局の所。今回の件で、悪いのは自分なのだ。短絡的に決闘を受け、無茶をした挙句負けて。負けを認められなくて、最後はあのザマだ。
それをヴァイスも理解していて。でも、認めたくなかった。素直に認める事が出来ないくらい、結果が悪かった。彼の想像を超えた、受け入れがたい決着となってしまった。
だからと言って、八つ当たりしていい訳じゃない。そんな事はヴァイスも承知であったが。
それでも。
「だいたい、あんな決闘受けちゃ駄目だったんだよ。魔気を使える相手に、私達は勝ち目なんて無いんだから」
「分かってます」
「分かってないよ。あそこは、我慢しなきゃいけなかった。周りの皆もそうしてたんだから。ヴァイス君も――」
「分かってますよ!」
ヴァイスが、叫んだ。
こんな事、八つ当たりだと分かっている。やっちゃいけないと分かっている。
それでも。もう、止まらなかった。
「そんな事、言われなくても分かってますよ! 我慢しなきゃいけない事も、俺ではアイツに勝ち目なんて無いって事も! 決闘なんか受けたら面倒な事になるってことも! 全部分かってるんですよ!」
ヴァイスの、悲痛な声が続く。その声は、既に震えていた。まるで腹の底にたまっていた物を全て吐き出すように、彼は叫んだ。
それを目の当たりにして、アリスは言葉を失っていた。
「でも、我慢出来なかった! 先輩を馬鹿にして、先輩の孤児院を馬鹿にして! 先輩にあんな顔をさせたアイツを、絶対に許せなかった! アイツを、ぶちのめしてやりたかった。 それなのに……!」
倒されたのは、自分で。そのせいで、アリスに要らぬ恥を負わせて。理不尽な約束をさせてしまった。
一体、自分は、何なのだろう。どうして、こんなにも、弱いのだろう。
「自分の事なら我慢できますよ! でも、でも…… 先輩の事を言われたら、俺は……俺は!」
ただ、守りたかっただけなのに。理不尽に貶められるこの人を、守りたかっただけなのに。
そんな事すら、自分にはできないのだろうか。弱い自分には、そんな事すら、できないのだろうか。
「……ヴァイス君?」
「……あ、れ?」
ヴァイスの瞳から。雫がこぼれていた。つうっと、その頬を伝ってそれは落ちていた。
無意識だった。アリスの呆けた様な声に、初めて気が付いた。それぐらい自然に、ヴァイスは涙を流していた。
「うぁ、嘘だろ、なんで」
うろたえるような声を漏らし、ヴァイスが必死に涙を拭う。服の袖で乱暴にこすり、手で押さえ、それでも、後から後からそれは溢れてきた。
意識し出したら、もう駄目だった。先輩の前で、格好悪いと。そう思っても止まらなかった。
彼ももう、限界だったのだ。身体もぼろぼろだったが、それ以上に、心に受けた傷の方が深刻だった。
自分の弱さを嫌と言うほど思い知らされて。大勢の前で徹底的に叩きのめされ。
今まで鍛え上げた技も、全て否定され。想いは何一つ届かなくて。
最後には、守るべき人に、逆に守られてしまった。その人を、守る事は出来なかった。
自分の浅はかな行動が、その人を更なる窮地に陥れてしまった。
「~~~! ごめん、先輩!」
堪らなくなって、彼はアリスから顔を背けた。腰掛けていたベッドに上がり、彼女に背を向け、必死に溢れる涙を止めようとする。
でも、一向に止まらなかった。
「ぅうう、くそぉ、くそ!」
ヴァイスは、ベッドのシーツを握り締めて。堪えるように、声を漏らした。
死にたくなるくらい、悔しくて。消え去りたいくらい、情けなくて。
肩が振るえ、嗚咽は止まらずに。涙は何処までも流れ落ちる。
もう、押さえが利かなくなっていた。感情を制御出来なかった。気を抜けば、その場で泣き叫んでしまいそうだった。
ヴァイスは悪態を付き、それを必死で耐えていた。
せめて、泣き声など上げぬように、と。歯を噛み締め、目をぎゅっとつむり。身を縮ませて、耐えていた。
出来るなら、その場から逃げ出したかった。アリスからさえも、逃げ出したかった。
もう、全てを捨てて、何処かへ行ってしまいたかった。
そっと。
ヴァイスの背中に、暖かな手が添えられた。その手が、すりすりと背を撫ぜる。その手から、熱がじわりと広がっていく。
それは、ヴァイスを慰めるような手付きだった。まるで夜泣きをする子供を母親が撫ぜるような。そんな優しい手付きだった。
しかし、今のヴァイスにとって、それは。
自分の情けなさを、余計に思い知らされて、惨めさを、余計に感じさせられた。
放って置いて欲しかった。構わないで欲しかった。一人にして欲しかった。
だから、ヴァイスはその手を振り払おうとして、身体を捩った。声を出せなかった彼は、身振りで拒否感を露にした。
でも、それは止められなかった。それどころか、両手を添えられ。暖かな何かが寄り添ってくる。
「っ、先輩!」
ヴァイスは、とうとう、彼女を振り払おうとした。明確な拒絶でもって、彼女から離れようとした。
でも、それは。
「――先輩……?」
出来なかった。
彼の行動を止めたのは、微かに聞こえる嗚咽と、その身に降って来た温かな雫。
ヴァイスの背中へと、暖かな雫がぽたりぽたりと落ちてくる。
ヴァイスが、ゆっくりと振り返り、そちらへと顔を向けると。
アリスは、泣きながら。涙を流しながらも、無理矢理に笑顔を作っていた。
「……ごめんね、こんなの嫌だよね?」
茶化すような音色で言うが、その声は震えていた。彼女はそのまま、首をふるふると振って、
「男の子だもんね。こんな慰められるような事、嫌だよね?」
そう言って、笑顔でいるが。その瞳からは留め止め無く涙が溢れてくる。
「でも、」
と、彼女は言った。涙を抑えようとしているのだろうが、出来なくて。それでも必死に、言葉を紡ぐ。
「気持ち、わかるの。君の気持ち、分かって。だから、我慢できなくて。放って置けなくて」
震える声で、彼女はそう言った。それは、今までも何度か聞いた台詞だった。
一体誰が、自分の気持ちなんかわかるのだろうか。魔力の無い自分の気持ちなど、誰も分からない。分かる筈が無い。
ずっと、そう思っていた。自分の気持ちを分かる人など。分かってくれる人など、この世界にはいないのだと。
ずっと、そう思っていた。
これが、アリスでなかったら。ヴァイスは、その手を振り解いていただろう。
馬鹿にするなと。何が、気持ちが分かるだと。そう叫んで、相手を拒絶しただろう。
でもそれは出来なかった。それが、アリスだったから。
そう。世界でたった一人。彼女だけは。
「決闘を邪魔するなんて駄目なのに、傷付く君を見て、我慢できなかった。助けたかったけど、結局上手く出来なかった。余計な事、だったよね」
「そんな、事……」
アリスが言う。上手く助けてあげれなくて、ごめん、と。心配かけて、ごめん、と。
――そんな事、本当は、自分が言わなければいけないのに。
ヴァイスは、上手く言葉に出来なくて。アリスの言葉を、聞くしか出来なかった。
「なんで、私たちには力が無いのかな」
アリスが、震える声で聞いてくる。その手はヴァイスの両手をきゅっと掴み、絶対に離さないとでも言うように握り締めている。
ヴァイスは、何も言えなかった。何も答えられなかった。ただただ、アリスのその顔から、目が放せなかった。
真正面から自分の瞳を覗き込んでくる彼女から、目を逸らす事が出来なかった。
「私達、なんで、こんなに弱いのかな? 強く、なれないのかな?」
アリスの顔が、くしゃりと歪んだ。その瞳から、大粒の涙が溢れてくる。
「こんなに、頑張ってるのに。なんでなのかな。私達、何か悪い事でもしたのかな? 何で、何で……!」
アリスの気持ちが、ヴァイスに流れ込んでくる。彼女の嘆きが、悲しみが。彼の心に染み込んで来る。
それは、自分と同じだから。彼女は、自分と同じ思いを持って、同じ苦しみを持って。だからこそ、こんなにも、この人の気持ちが分かる。
そしてそれは、この人も同じなのだろう。自分の気持ちを、この人も、嫌と言うほど分かるのだろう。
ヴァイスは、アリスと、通じ合っているんだと思った。彼女と、気持ちを共有出来ていると思った。
もしかしたら、それは、自惚れなのかもしれないけれど。ただの勘違いなのかも知れないけれど。
それでも。
「っ先輩!」
ヴァイスが、アリスを抱きしめた。ベッドから立ち上がり、彼女の小さな身体をすっぽりと覆うように、彼女を抱きしめた。
彼の感情は、ごちゃ混ぜになっていた。様々な感情が、ぐちゃぐちゃに混ざりあっていた。
それは、胸が張り裂けそうな程の悲しい気持ちと、同じ悲しみを感じている彼女を慰めたい気持ちと。
己の弱さへの怒りと、彼女と通じている事への悦びと。
もはや、彼にもそれがなんなのか分からなかった。
「うぅ、ふぐ、ヴァイス君……」
突然の事だったのに、アリスは拒否する事もなく。嗚咽を漏らしながらも、ヴァイスの背に手をまわした。
抱き合った身体から、暖かい温もりが伝わってきた。それがゆっくりと、二人の心を解きほぐしていった。
そして、二人は。
そのまま、声を上げて泣いた。二人して、抱き合って、床に座り込んで。せきを切ったように、二人の瞳から涙が流れ出した。
ここは学園で、誰に聞かれてもおかしくないのに。人目もはばからず、大声で泣いた。
お互いの温もりだけを抱きしめて、それを決して無くさぬようにと抱きしめて。
二人は、気が済むまで、泣き声を上げていた。
同じ思いを共有できる人が居るという事は。それは、凄く幸せな事なのだろう。
例え、その理由が弱さでも。無能と呼ばれる程の、最弱だったとしても。
それでも、それを良かったとさえ、思えるのかもしれない。
なぜなら、彼らは、一人では無かったのだから。この広い世界で、一人ぼっちでは無かったのだから。
きっと、強者から見たら、それは弱者の、傷の舐め合いにしか見えないのだろう。無様で、間抜けで、滑稽で、見苦しい。ただ、弱い奴らが慰めあってるだけにしか見えないのだろう。
でも、彼は。
それでも良いと、思っていた。人に何と言われようと、それでも良いと思っていた。
格好悪くても。情けなくても。それでも、彼は救われた気持ちになったのだから。この人に、この人と共に、救われた気持ちになったのだから。
たとえ周りに何と言われようと。卑屈だと呆れられようと。惨めだと罵られようと。それでも良い。
彼にとって、それは、その温もりは。何よりも、大切な物に思えたのだから。
だから、彼は。
彼女の為なら、どんな事でもしてみせようと。
そう、心に決めたのだった。
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