第十二話 とある記録
五月十五日未明。
尾張の中心であるこの清洲といえど、普段なら静まり返っているはずのこの時間にもかかわらず、多くの者が城への出入りを重ねていた。
もちろんその騒々しさは城内も同様であり、こんな夜分にも関わらず織田家の名だたる重臣たちは、清州城の一室へと集められていた。
「御館様、ご報告申し上げます。五月十二日をもって今川義元は駿河を出立。翌十三日には掛川城を通過し、現在は各地の兵を集めつつ、この尾張に向かって進行中とのことです」
家老である内藤勝介の口からその報告がなされた瞬間、清州城の一室に待機していた織田家の重臣たちは一様に顔をこわばらせる。
一方、彼らの主である一人の青年は、特に動揺を見せることなく一つ頷いた。
「で、あるか。して、その数は?」
「その数は……少なくとも三万、と」
「さ、三万だと! 確かに二万以上と聞いていたが、まさかそれほどに今川の兵は膨れ上がっていたのか」
勝介の口から発せられた数字を耳にした瞬間、滝川一益は顔をひきつらせながら驚きの声を上げる。
すると、これまでも籠城策を主張し続けてきた林秀貞は、念を押すかのように信長に向かって声を上げた。
「御館様、やはりこれでも打って出るおつもりですか」
「敵はあまりに多勢。ここは守勢に徹するべきかと私も愚考しますが」
普段はあまり戦のことに口を出さぬ村井貞勝も、林秀貞の意図するところを理解してすぐさま賛同の言葉を重ねる。
だがそんな彼らに向かい、主戦論者の柴田勝家はすぐに反論を口にした。
「しかし守ったところで、次はどうなる。既にこの話は議論し尽くしたはずだ」
「では柴田殿、攻めたら勝てるといわれるのか?」
「だが、守ったところで次に負ければ同じ。そう結論がついていたはずですな」
村井貞勝の抗弁に対し、丹羽長秀は冷静に先日の評議の結果を告げる。
それを受けて貞勝は押し黙ったものの、林秀貞は無謀であるとの信念を捨てられないのか、すぐに首を左右に振った。
「いや、此度は駄目でも他国の援軍があれば――」
「どこにあるのかね、林殿。そんなお人好しの国が」
「それは……」
丹羽長秀の有無を言わさぬ正論を前にして、林秀貞もそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
そうして場の空気が硬直したタイミングで、滝川一益が溜め息混じりにその口を開く。
「打って出る。それが基本方針であることは理解している。だが何れにしても、あまりに厳しい戦いではあるな」
「いや、打って出るからこそ一つの可能性がある。つまり首を取ればよいのだ」
柴田勝家は重臣たちをぐるりと見回しながら、はっきりとそう宣言する。
それに対し、一益は一理あることを認めながらも素直に賛意を示すことはなかった。
「……首か。確かにそうではる。だが、そんなことは今川とて理解しているはずだ」
「三万の兵の中からやつの位置を見出し、更にその守りも突破して首を上げる……か。言うは易いが、しかし」
丹羽長秀も勝ちへの道がそれしか無いことはわかってはいる。しかしながら、十倍近い敵の数との報告を受けて、その表情が晴れることはなかった。
一方、そんな暗い雰囲気の一同の中で、一人の男がその重い唇を初めて動かした。
「だが三万の首は取れなくとも、たった一人ならば可能性はある」
「可成の言うとおりだ。いいか、たとえ三万だろうが十万だろうが、その全ては無視して良い。我らの目標はたった一人なのだからな」
森可成の発言に背を押されたのか、勝家は改めて自らの見解を繰り返す。
「柴田殿、それはそうだが具体的に何か策を練ってきたのかね。先日御館様が策を考えておくよう言われましたが」
「それは……」
林秀貞のその問いかけに対し、勝家は思わず口ごもる。
そうして室内の空気が一瞬凪となった瞬間、最後尾でただただ会話を聞いていた僕は、初めてその口を開いた。
「方法ならあります」
「貴様!」
僕が言葉を発した瞬間、この会議によそ者が参加することを不快だと公言していた勝家は、城中に響き渡るほどの怒声を発した。
そうして訪れた僅かな沈黙。
だがその空気を一変させたのは、家臣たちに自由な発言を許していた信長殿であった。
「落ち着け、権六。で、秀一。方法とは何だ?」
「御館様、まさかこの小僧の提案をお聞きになるつもりですか?」
「聞くだけなら別に構うまい。何か問題でもあるか権六」
信長殿はそう口にして勝家の反論を封じると、僕に向かって意見を述べよとばかりに視線を向けてくる。
それを受けて僕はその場を立ち上がると、重臣たちに向かいはっきりと自らの考えを口にした。
「圧倒的多数の敵に、一矢報いる方法。それは奇襲しかございません」
「それはわかる。しかし敵もむざむざ奇襲など受けてくれるのかね? 四方八方に兵士を送り込み、必ず我らの奇襲を警戒してくるはずだ」
僕の意見に一理ある事は認めながらも、それは机上の空論だとばかりに滝川一益は首を左右に振る。
そんな彼の意見に苦笑を浮かべつつも、僕は迷わず首を縦に振ってみせた。
「でしょうね」
「でしょうねだと、ふざけるなよ小僧」
「然り。奇襲をするだけなど、例え雑兵でも口にすることができるわ」
勝家の言葉に続く形で、丹羽殿も手厳しい意見を僕へと向けてくる。
だがそんな彼らを、信長殿がサラリと押さえてみせた。
「焦るな、長秀。そやつの表情を見れば、まだ続きがあるようだ。そこまでは言わせてやれ」
「ありがとうございます。そろそろこの時期よりよく降るものがあります。まずはそれを使うというのが私の最初の提案です」
「この時期によく降る……つまり雨か」
僕の発言の意図を理解した滝川一益は、顎に手を当てながらそう口にする。
旧暦の五月は現代における六月。
つまりこの時期はちょうど梅雨入りの時期に一致している。
だからこそ、梅雨を前提とした僕の発言を一益はなるほどと頷いていた。
一方、主戦論者ではあるものの外様をよく思っていない勝家は、すぐさま反論を口にする。
「待て。いかに雨が振りやすいとは言え、そんなものはただの運頼みに過ぎんではないか」
「然り。雨を期待するだけなど、策などとは言えんな」
勝家に続く形で、丹羽長秀も僕に向かい苦言を呈する。
だが滝川どのは異なる見解を口にした。
「運頼みか……いや、私は別に悪いとは思わんな」
「滝川どの」
「丹羽どの、元々勝てる見込みの少ない戦いだ。ならば少しでも運を引き寄せる可能性があるのなら、それを考慮に入れてはおくべきだろう」
「言いたいことはわかる。だが戦いの日に、雨が降る保証などどこにもないではないか」
「あります」
長秀と一益の会話に割り込む形で、僕ははっきりとそう告げる。
途端、その場にいた他の重臣たちは胡散臭気な視線を僕へと向けてきた。
「なんだと!」
「貴様、どういうことだ。まさか何らかのまやかしに頼るなどと言うつもりではなかろうな」
次々と発せられる不審の声。
だが僕はそんな彼らに対し、懐から一通の文を取り出してみせた。
「もちろんまやかしに頼るつもりはありません。私が頼るのは、ただ記録だけにて」
「記録だと?」
勝家は僕の言葉にやや虚を突かれた表情を浮かべる。
僕はそんな彼の下へゆっくりと歩み寄ると、その文を彼へと手渡した。
「柴田殿。これを見て頂けませんか?」
「む……な、これは!」
勝家がその内容に目を通し、そしてその最後に記されていた名に気づいた瞬間、大きく目を見開く。
途端、重臣たちは一斉に彼の元へと集まるとその文を目にして驚きの表情を浮かべていった。
「これはとある家で記録され続けているこの日ノ本の天候の記録です。それをある方にお願いし、至急お送り頂いた次第にて」
僕のこの言葉と、文末に記されていた細川藤孝の名を目にして、一益は納得したように一つ頷く。
そして彼は信長どのへとその視線を向けた。
「なるほど。確かにお主は足利家の者だったな……御館様」
その一益の言葉を受けて、信長どのはゆっくりと歩み寄ってくる。
そしてその文の中身を目にしたところで、右の口角を僅かに吊り上げてみせた。
「で、あるか。して、この記録にある場所こそが、その方が考える本命なのだな」
口元には笑みを浮かべながらも、信長どのは魂の奥底までも見通すかのように強い視線を僕へと向けくる。
それに対し、僕は一切怯むことなく首を縦に振り、そしてはっきりと作戦の全貌を口にした。
「その通りです。この地に彼らを招き入れ、とある場所を陣取らせる。そう、過去の記録にてこの時期に最も雨の降りやすいとされる場所。つまり桶狭間山に」
大永二年(1522年)産まれ。通称は権六郎、権六など。
信長の父である信秀時代より、織田家に仕える重臣の一人。当初は信秀の後継者争いにおいて信長の弟である信行側に着いていたが、家督をめぐる稲尾の戦いに於いて信行側が敗北し、以後は信長に従い『かかれ柴田』の異名を得るほどに猛将としての地位を確立していった。
丹羽長秀
天文四年(1535年)産まれ。通称は五郎左など。
信長の信頼していた重臣の一人。様々な異なる任務を器用にこなし、米のように生活に欠くことのできない存在であることから、米五郎左などとも呼ばれ、柴田、滝川、明智などとともに織田四天王の一人とされていた。
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