第九話 茶屋四郎次郎
「おや、おかえり。どうだった?」
「引き分け……かな」
今井の店に帰るなり、声をかけてきた番頭の重秀に対して、僕は苦笑交じりにそう告げる。
途端、重秀は軽く肩をすくめてみせた。
「なんだ、中途半端な結果だな」
「まあね。見方によっては色々だけど、うん、結果的には引き分けにされたんだと思う」
もちろん手合わせだけを見れば、そう悪くはない線まで行けていたかもしれない。
でもつまるところ、全ては絵を描いた人の予定調和の中であった。
だからこそ、やはり少し甘く見積もって引き分けというところだろう。
様々な感情を胸に仕舞いこみながら、僕は今回の件に対して、そう結論づける。
一方、そんな事情など知らない重秀は、軽く舌打ちしながら悔しそうに言葉を吐き出した。
「ちっ、くそ。店番なんかせず見に行けばよかった」
「別に面白い見世物ではなかったよ。大体さ、度々番頭と店主が店を離れているっていうのはどうかって話だろ。ようやく店が開けられるかって所まで来たのにさ」
そう、手代の人たちの協力もあって、今井の京の店は順調にその下準備が進んでいる。
この調子ならば、そう遠くないうちに商いを始めることができる。
僕はそう考えていた。
だからこそ、この大事な時期に、僕と重秀が揃って店から離れ続けるわけには行かないのは自明の理である。
しかしながら重秀には、重秀なりのロジックが存在するようで、僕に向かい軽い口調で反論を述べてきた。
「違うだろ。まだ正式に開けていないから、二人で歩けるんじゃねえか。わかってねえな」
「はぁ……君らしい回答だけど、それって店主に言う言葉じゃないよ」
「はは、確かにな。で、なにか変わった事でもあったか?」
ごまかすよう苦笑を浮かべながら、重秀は僕に向かってそう問いかけてくる。
それに対し僕は、周囲を一度見回したあと、やや声を潜めながら一つの事実を告げた。
「変わったことねえ……まあ、ちょっと変わったお客さんがいたってところかな」
「ほう、変わった客か」
僕の口調と声色の変化から何かを感じ取ったのか、重秀もやや抑えた声で僕に先を促してくる。
「うん。ちょっとそこに出仕することになった。というわけで、お店の方はしばらくよろしくね」
「おいおい。さっきお前、自分がなんと言ったか忘れたのか? これからようやく店を開けようっていうんだぜ。この時期に旦那がいないっていうのは、どうかと思うけどな」
「君がいたら大丈夫さ。それにもともと、今回の京に来た目的はこの店と、今回の出仕にあったわけだからね」
そう、師匠が僕をこの地へと案内してくれた理由。
それこそが僕をあの人に……大樹に紹介することにあった。
だからこそ、今回の話はまさに望んでいた結果を得たとも言える。
その過程は想像もしない形ではあったが。
一方、そんな僕の微妙な内心を知る由もない重秀は、顎に手を当てながらわずかに苦笑を浮かべる。
「しかし二足のわらじか。まあお前ならこなせるだろうけど、巻き込まれる方としては溜まったもんじゃねえな。なんていうか、大旦那様より人使い荒いんじゃねえか、おまえ?」
「大旦那様よりって、さすがにそれはないと思うよ。それにさ、もちろん空いた時間は手伝うから。そのあたりに関しては、大樹も理解ある様な言い回しをしてくださっていたしね」
十日後の出仕の話のあと、細川様を交えて行った短い問答。
その折に今井家と、より正確に言うならば堺の会合衆との関係を構築したい思惑が彼らの会話からはっきりと伺うことができた。
だからこそのおおらかな容認。おそらくはそんなところだろう。
「ほう、興味深い話だな。ってことは、やっぱり売り込み先はお上だったってわけだ。しかし、戦と剣技にしか興味ないと思っていたが、なかなかやり手のようだな」
「うん。だいたい普通なら、身分を偽って――」
「ごめんやす。どなたかおりはりませんか?」
突然背後から発せられた声。
それを耳にした僕は慌てて会話を中断すると、ゆっくりと背後を振り返る。
するとそこには、店の外に一人のやや恰幅の良い男性の姿があった。
「はい。この店を預かっております天海といいますが、何か御用ですか?」
「ああ、あんたはんが噂の今井の天海はんですか。あては中島清延といいます。世間様では茶屋四郎次郎の方が通っておるようでやすが」
「茶屋四郎次郎さん……ですか」
もちろんその名は耳にしたことがある。
京で急速に力をつけつつある豪商の一人として、そして何より宗易様と旦那様が連名で書いてくださった紹介状の宛先として。
「ええ。実はあんたはんとこの旦那さんに、よろしうしてくれと」
「ということは、やはり宗易様とも……」
「はい。宗易はんとも付き合いはありどして。やから、よう話は聞いてとりますわ」
そう口にすると、茶屋さんはニコリと微笑む。
途端に、僕は深々と頭を下げた。
「これは失礼いたしました。本来ならば僕から挨拶に出向くべきところを……改めまして天海秀一と申します。こちらは番頭の鈴木重秀です」
「ほう、鈴木……つまりは雑賀のところの跡取りはんどすな。はは、まさかこんなところで会えるとは思とりませんでしたわ」
「こちらこそ。それで、今回は何用ですか?」
重秀は軽く頭を下げると、さらりと茶屋さんに向かいそう問いかける。
「いえ、一度顔を見させていただこうおもて、いっぺん立ち寄らせてもろただけどす」
「それは……わざわざ本当にありがとうございます」
「いえいえ、何しろいつもお世話になっております大樹の下で、今度お働きになるとか。そう伺いましたら、自然と足がここへ無かった次第どす」
何気ない口調で茶屋さんの口から吐き出されたその言葉。
それを耳にした瞬間、僕の表情は固くなる。
そしてそれは重秀も同様であり、彼は僅かに警戒を見せながら慎重に言葉を返した。
「耳が実にお早いですね」
「はは、大樹はいつもうちの店で茶を飲んで、色々お話してくれはりますから。実は茶屋と言うんも、大樹が先代の頃からうちで茶を飲まれるからそう呼ばれるようになったんどして」
「……そうですか。実はうちの大旦那も茶には多少うるさい男なのですが、私自身は未だ無作法にて、もしよければ一度中島さんにご指導頂きたいものです」
僕は目の前の男の微細な表情の変化に注意しながら、慎重に言葉を選びつつそう返す。
すると、眼前の男はその口元に薄い笑みを浮かべた。
「はは、あてにはそんなたいそな事はできません。けど、それで良ければ、一度遊びに来はって下さい」
「それは是非」
僕は改めて感謝を伝えるように頭を下げる。
すると、その反応を目にした茶屋さんは、顎に手を当てながらニコリと微笑まれた。
「実に楽しみですどすな。そういえば茶の湯言いましたら、三好家の家宰はんがえろうお好きやとか。最近も駿河の今川はんから何やら茶器を譲られはったらしいどすな」
「三好の家宰といいますと、松永様ですな」
僕と少なからぬ因縁の存在する人物の名。
それを重秀はあっさりした口調で口に出す。
「ええ、そうどす。今川はんも、松永はんもかなりの数寄者どすから」
「数寄者……ですか。いや、さすがは天下に名を轟かせておられるお二方。素敵なことですね」
僕は下手な違和感を与えぬよう注意しながら、会話の流れを妨げぬよう注意しつつ調子を合わせる。
すると、茶屋さんは小さく一つ頷かれた。
「そうどすな。なので、これを気に、是非天海殿も鈴木殿も、今度茶会をご一緒するのはいかがどす?」
「楽しみな話ですな。旦那様もいいよな?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
重秀に促される形で、僕は感謝を告げる。
途端、茶屋さんの表情がパッと明るくなり、僕らに向けて微笑みかけられた。
「楽しみどすな。おっと、挨拶だけのつもりがちょっと長居しすぎましたわ。おやかまっさんどした。ほな、また今度じっくりと」
「どう思う?」
茶屋四郎次郎が立ち去った店内。
そこに残された僕たちのうち、最初に言葉を発したのは重秀だった。
「今川と家宰殿……か。ふむ、重秀。少しばかり頼みごとがあるんだけどいいかな?」
「何だ? 面白ければ受けてやるぜ」
いつものやや軽い調子で、重秀はそう返してくる。
僕は思わず苦笑を浮かべながら、頭の中をかすめた一つのことを彼に委ねる。
「面白ければって……まあいいけどさ。とにかく、ちょっと取引の形跡を辿って欲しい。それも至急にね」
「いいぜ。今川と松永のだな」
わかっているよとばかりに、重秀はニコリと笑いながら僕に向かってそう告げる。
しかしながら僕は、彼に向かって二度首を左右に振った。
「違う。彼らに関しては別にいい。急ぐ必要もないしね」
「何……どういうことだ?」
僕の言葉を受け、重秀は眉間にしわを寄せる。
そんな彼の顔を見つめながら、僕は一瞬戸惑う。
僕が今考えていることはただの杞憂ではないか。
それどころか、ありもしない仮説を無理やり構築しているのではないか。
そんな気さえしていた。
しかしながら、僕だけは知っている。
あの男は、そして彼の部下たちはその程度のことは軽くやってのけると。
だからこそ、僕は重秀に向かって依頼する。
僕の中で生まれた一つの仮説の裏取りを。
「その二つはたぶん繋がっている……と思う。だからその確認は後回しでいい。それよりも今の中島……いや茶屋四郎を調べてくれないかな。彼がとある国主と関係を持っていないかどうかをね」
あとがき
本名は中島清延。天文14年(1545年)生まれ。
一般的に茶屋家の初代当主とみなされている人物。茶屋という屋号は本文中にもあるように、第十三代将軍である足利義輝が、彼の父である明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことがその由来とされている。茶屋家の基礎を築き、京において確固たる豪商としての地位を築き上げた人物である。
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