湖畔の魔女 12
真夏の暑いはずの夜はなぜか涼しい。この湖周辺は不思議な空間で気温の変化が一定だ。現実味がない温度差でしか揺れ動かない。
暗い森の中を歩き、目的の場所までたどり着く。
そこは昼頃シノと結界越しに会話した場所。日を跨いですらいないのに、随分前のことのように思える。あれから状況が大きく変わったせいだ。
夜、その中でも木々の下は特に闇が深い。その点在する闇の一つで影が揺らめいた。
ぼんやりと姿を現したのは死亡時と同じ様相の女性。血色の悪い顔に腹部に血が滲む東国服。片手には柴色の短刀を握っている殺意の霊体。
「シノさん」
名前を呼ぶと切四片に宿る思念は冷めた目をゆっくりとハーニーに向けた。
「私をここに置き去りにすると言ったあなたが、今更……。殺されにでも来た?」
「いや……僕は君にお願いしに来た」
ハーニーは結界越しにシノを真剣に見つめた。
「君の力が要る。手を貸してほしい」
シノは表情一つ動かさない。夜より暗い瞳で瞬きを一つするだけ。
「なぜそんなことをしなければいけないの? あなたが困ろうと私には関係がない。貴族寄りのあなたはむしろ殺したいくらいよ」
「……そう言うとは思ってたよ。君は復讐が全てだ」
「ええ。そう。他にないわ」
「ああ……」
ハーニーは目を瞑った。
──今度こそ逃げるな、僕。全力っていうのは、そういうことだろ。
再び開けた目にもう迷いはない。
「壁があるんじゃ何も伝わらない」
ハーニーは一歩踏み出した。それだけで止まらない。歩みを進める。
シノから少し離れた結界の外まで進み出た。
シノに向き直る。
「これで対等だ」
沈鬱な表情に困惑の色が差した。人めいた表情だ。
「……? 私に傷一つつけられないあなたが対等なわけない。死にたいの?」
彼女の言う通りだ。戦えば絶対に勝つことはできない。そんな相手を前に安全な結界の外に出ている。自殺願望でもなければこんなことをする人間はいない。
ハーニーは両の手のひらを迎えるように広げた。
「僕を殺したい?」
「……ええ」
ゆらりとシノが揺れるように近づいてくる。
ハーニーは逃げない。間隔がどんどん狭まっていっても足を動かさなかった。
シノは目の前まで来ると立ち止まり、ハーニーの腹部を見た。自分が刺された部分を、黒い情念を宿した瞳で見つめた。
シノはハーニーの反応など確認しない。己が欲望に従って切四片を構え、後ろに引いた。
弱い力の持ち主でも刃を深く刺し貫くことができるよう溜めを作り──
──全身ごとハーニーにぶつかっていき、刺した。
短剣切四片が皮を、肉を、内臓まで貫く。全体重を乗せた一刺しは、ハーニーの身体を持ち上げようとすらした。
「ぐうううッ……!」
尋常ではない激痛に身体を折りそうになる。しかし己を貫いた刃のせいでできない。ただ硬直する。
体内の何かが破れた感触は死を実感させた。
熱いものが腹部を伝う感覚。それは命がそのまま流れ出しているような気がした。
シノは欠片も満足そうにしなかった。彼女の表情には疑問の色が彩られている。
「どうして? なぜ命を捨てるの?」
「ふ、ふふ」
結局、僕ができるのはいつもこんなことだ。
自分への呆れからくる笑い。だが、これで今まで生き抜いてきたという自負も今はある。短い記憶で最も自分を救ったやり方だ。
「と、取引をしよう……!」
月光の下、ハーニーは無理やり不敵に笑って見せた。シノが僅かに動揺する。ハーニーの顔を正面から間近で捉えた。ハーニーは殺意ではない視線を初めて感じた。
触れない切四片を包むように手を添えて言葉を重ねる。
「僕をここで殺したとして、君は永い時間湖に囚われる……。たった一人僕を殺してあとはずっとお預けってことだ……」
「だから?」
「それは……大勢を殺したい君の本意じゃない。……だから、提案だ」
「提案?」
不意に倒れそうになるのを四肢に力を入れて耐える。急な失血のためか一瞬意識が遠のいた。唇を噛んで痛みを誤魔化す。血の味がした。
血を唇の端で滲ませながら、震える声をぶつけた。
「僕に、君を預けろ! そうすれば僕が君を使ってやる……!」
「あなたが私を?」
「僕が、だ……! 戦いの中で人を殺めることになったら、君を使う……悪い条件じゃないはずだ」
「……私は幾ばくかの時間、あなたを見ていた。戦場にいながら生殺は望まない、甘い人間だと知っているわ。そんなあなたが殺すというのを信じろと?」
予想していた返しにハーニーは笑った。その笑みはもはや柔らかい。
「なら……僕の最後を君にやる」
「最後?」
「僕が死ぬときは君によって死んでいい……要は二択だよ。今僕を殺して永い時間を待つか、それとも僕に委ねて外に出るか……。どちらにせよ君は僕を殺せる。言っておくけど、僕は確かに甘いけど、戦場では躊躇わない。守るもののためなら迷いはしない……!」
今決死の行動をしているのがその証明。
「……ぁ」
不意によろけそうになる。倒れはしない。己を刺した刃の力を身体を支えるために使う、本来と真逆の使い方。痛みは麻痺に変わっていた。喪失感が意識まで奪おうとしてくる。
気持ちだけで力を振り絞る。
定まらない焦点でシノを睨んだ。
「どうするっ……! 力を貸すか、貸さないのか、選べ! ──切四片!」
シノが身体を震わせた。
その後見せた彼女の顔は初めての表情だった。
口の端だけが僅かに上がっただけの薄い笑顔。邪な喜びを漂わせる酷薄な笑み。
「……いいわ」
耳元に唇が寄せられる。
「私たちの利害は一致している。命を差し出してまで私を使うと言ったあなたに力を貸すわ。これであなたの、いつか来る終わりは私のもの」
「ああ……」
「……ふふ。でも、失望させたり、私を捨てようとしたらすぐさま殺すわ。約束は私に力を与えてくれたのよ」
「その時は勝手にすればいい──っ?」
不意にシノの姿が掻き消える。同時に腹部の感触も消え失せた。
見れば腹部に刺さっていた切四片は消えていた。また痛覚、出血、傷口もなくなっている。
今のできごとは夢だったんじゃないか。そう思わせるような完全な消失。
だが、身体の怠さと上着の裂かれた跡は今あったことを現実だと雄弁に語っていた。
自分の精神が削られた感覚を覚え、ハーニーはよろめいて木に手をついた。呼吸がまとまらない。これが存在を失う感覚なら、リインフィルはすごい。この数倍の喪失感を覚えてなお耐えているのだ。とても常人に耐えうるものではない。
ふと気づく。
腰にさっきまでなかった重み。柴色の短刀が鞘に収まって腰に差されていた。
失望させるなと言っていたか。
「……湖に置いてかれるよりましでしょ」
(……今死にたいの?)
「え?」
その声は切四片というより自らの中から聞こえた。
(あなたは私を認めた。己自身を担保にした。それで存在が強まるのは当然)
「そういうもの?」
(どっちでもいいわ……。それより一つ言っておくけれど、さっきの刺し傷は消えたわけじゃない。言わば保留にしてあげてるだけ。あなたが約束を違えるようだったら、いつでも元に戻して──殺せるのよ)
「……ああ」
都合よく消えた、とはならない。対価はあるんだろう、何事にも。
(とにかくあなたはたくさん殺せばいいのよ。それに今後はあなたがもっと殺しやすくなるようにしてあげる)
「どうやって?」
まさか身体を乗っ取るとか言わないよな。
警戒を強めたが答えはあっさりとしたもの。
(たくさん呼びかけるわ。殺せ、殺せって。……なに? 身体を操れたら最初から霊剣で留まっていないわ)
「そっか……そうだね。──はは」
(?)
なぜ笑ったのかシノには伝わらない。
そういう反応があることも笑った理由の一つ。
一人なのに独りじゃない。
「はははっ。まるでセツだ」
シノの声はセツと違って空気を揺らす音ではない。自分だけに聞こえる声だ。
だが、独り言に返事が来る感覚は落ち着く。それが殺意の塊のものであっても。
(あなた……意外と異常なのね)
「君ほどじゃないよ」
やり取りの中、発見があった。
どうやら心は読まれていないようだ。
それはずっと抱いていた内心の覚悟──シノに惑わされて人を殺さないぞ、という覚悟に反論がないことから分かる。
(それにしても、私がもしもあなたを殺していたらどうしたの? ……死ぬだけだけど)
ハーニーは生の実感を取り戻しながら笑った。
結局、自分にできることはいつも信じることだけだ。自分か、相手を。
「君はまだ僕を殺さないと思ってたよ。僕はマリスを見た。君が本当に殺意だけの存在なら、人の形をしないってことを知っている。逆に人の姿をしているなら君には会話できる理性──心があるってことだ。それなら正常な判断ができる。そして普通に考えたら、僕を生かしておいた方が得だ。君は一人を殺して満足する性質じゃないだろうし」
(……あなたはいい私の使い手になれるわ。これからたくさん殺しましょう。たくさん、たくさん)
「それは僕が決める。……でも、今は君に従うよ。僕には今、殺さなくちゃいけない意志があるんだ。君には手伝ってもらう」
ハーニーは木にもたれながら湖の方を見た。
暗くて目は届かないが結界から出ているので暴れる音が響いてきている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます