旧王都 ネリーの恋心 6




 雨音がする。家が風で揺れている。

 ネリーはすぐに夢を見ていると気づいた。明晰夢だと。

 目に映るのは女の子らしい子供部屋。今は真っ暗だけど、日中は可愛げのある部屋だ。今はもう完全になくなってしまった、私の部屋。

 またこの夢でお父さんの死を思い出さなくちゃいけない。

 そう思っていた。しかし、夢は記憶と異なっていた。

 過去の場所にいるのは9歳の私じゃない。今の、17歳の私だ。現在を生きているはずの私が、今はもう存在しない部屋にいる。

 夢の相違に戸惑う中、雨風の音がけたたましく耳を打った。

 がたがた、と家が揺れる。おかしい。こんなに凄まじい風じゃなかったはずだ。

 パリン、と窓が割れた。鋭利な風が吹き荒んでくる。

 子供用のベッドの上にいる私は、姿は違うのに小さくなって丸まっていた。外の世界に怯えたあの時と同じようにうずくまったままだ。

 入り込んだ風が部屋の物を荒らしまわる。飾っていたぬいぐるみは床に落ち、本は窓へ飛んでいく。布団も風に連れていかれる。部屋はどんどん見る影も失っていく。

 私は何もできずにいた。ただ見ないように見ないように頭を抱え込んで、嵐が去るのを待つ。

 ばきばき、と鈍い音がした。私は恐怖に彩られた顔を上げる。

 家の壁が割れていた。どんどん崩れ落ちていく。崩れたのに外に見えるのは真っ暗な闇だ。何もない虚無。

 私は……何もできない。

 目の前で起こる事実を受け止めるしかなかった。家が壊れて闇になっていくのを見ていることしかできない。

 気づけば周囲には何もなくなっていた。ベッドだけが右も左も分からない闇に在る。漂うようにそれしかない。

 だというのに夢は続くのだ。雨風の音だけがして、私は身体を縮こまらせている。

 音だけ。雨の音だけ。馬車の音だけ。車輪の音だけ。

 私はそれに心躍らせる。お父さんが帰ってきたと思ったから。本当は違うのに、知りたくもない事実があるだけなのに、私は音の方へ行こうとする。

 ベッドを降りようとした。先にあるのは深淵まで続きそうな真っ暗闇なのに私は記憶通りベッドを出ようとする。

 身体が勝手に動くから、見えるものが迫ってくるようだった。

 何もないのに。深淵ような闇しかないのに、私の身体は記憶に従って虚無に足を延ばした。

 そこにあるはずだった床はない。私はベッドから降りると同時に真っ逆さまに落ちていく。足場なんてない。支えてくれるものなんてない。だから落ちていく。

 落ちるほどに自分を失くしていく気がした。世界を感じる感覚を失っていく。


「……あ」


 ふと、気づいた。

 何も感じない中、一つだけ違う。

 この、私の右手に感じるものはなんだろう。

 温かい何か。

 闇しかないのに何かがあって、私の手に寄り添っている。

 温かいそれは、握ると同じように握り返してきた。

 私は恐怖から逃れたい一心でその温もりを求めた。

 ふっ、と落下が止まる。


「助けてっ……」


 藁にも縋る思いでもっと強く握った。

その瞬間、私は引き上げられた。身体を。意識まで。

 私はそれを、その手を、強く強く握りしめた。





 嫌な汗を滲ませてネリーはうっすらと目を開けた。周囲は暗いが見覚えがある。宿の部屋だ。

 ネリーは曖昧な意識のまま自分を支えてくれる感触だけ求める。きゅっと握りしめる。

 まだ不安で怖い。夢の中にいるような浮遊感。

 何も喋れずにいるとささやく声がした。ベッドの真ん中から。


「大丈夫だよ。もう大丈夫」


 ハーニーの声だ。優しい声色。


「僕にはこれくらいしかできないけど……」


 彼は控えめに言って手を握り返した。言葉とは裏腹にしっかりとつかんでくれる。


「悪夢を見たの?」


 ネリーは片手をハーニーに預けたまま膝を抱えるように丸くなる。


「……家が壊れてなくなったの。壊れると周りには闇以外何もなくて……ううん、夢じゃない」

「夢だよ」

「夢じゃないっ。同じよ……現に私の家はもうない。私の過去を示してくれるものは全部なくなっちゃった。名字も、家も、家族もいない……もう何もない」

「ネリー……」

「ただ不安なの……前がどっちか分かるけど、足元が分からない。あるかもわからない雲の上に立っている気分……だって私には」


 ネリーは一拍置いて言った。


「私には支えてくれるものがない……」


 そう言ってネリーはハーニーの手を擦る。


「ハーニーには分かるでしょ? 今はリアちゃんっていう支えがあるけど、それまでは一人だったんだから」

「……そうだね」


 ハーニーには分かる。分かってくれる。

 ネリーは噛みしめるように目をつむった。

 理解してくれる。それで十分だと自分に言い聞かせるように。


「……記憶がなくてリアに縋ってる僕だ。ネリーの気持ちは分かるし、支えてくれる人がどれだけ救いになるかも分かるよ」

「……?」


 何を言いたいのか考えを掴み損ねる。

 同時に預けた手に両手が添えられる感触。

 ハーニーはハッキリと口にした。


「支えがないなら、僕に縋ればいい。帰る場所がないなら……僕がその場所になる」

「ハ、ハーニー……?」


 耳を疑った。

 あのハーニーがここまで強気に言うだろうか? 私はまだ夢を見ている?


「どうして……?」


 つぶやくと返事がある。


「僕はきっと人の気持ちが分かりやすい。ネリーがいつか言ってくれたみたいに、僕は色々なものがないからこそ、たくさんの辛さが分かるんだ。分かるから放っておけない」

「そんなにハッキリ言うなんて……ハーニーらしくない」


 そう言って窺ってみると微笑む気配。


「そうだね。確かにこんなこと強気に言えるタイプじゃない……だけど今は、ネリーが助けを求めてることが分かってる。人の心に踏み込むのは怖いから、分かってからじゃないと何もできないんだ」


 心に踏み込むのは怖いというくせに、やっていることは真逆だ。

 似た状況を思い出す。


「……前もこんなことがあったっけ。アクロイドで私の魔法の理由を贈り物だと言ってくれた時……」

「あの時と変わらないよ。僕は自分のために動くより、人のために何かした方が楽だからこうしてるだけで……情けないかな、やっぱり」


 苦笑している。

 ハーニーはハーニーだった。自分を優先できないなんて彼らしい。

 でも私はあの時、それに救われた。

 そして今も。


「苦しみが同じなら、救われ方だって同じでいいはずだよ。僕にとってのリアみたいに、ネリーにとっての僕にすればいい。それがどれほどの救いか分かるから、僕はきっと誇りに思える。自分の価値が誰かの中にあれば嬉しいよ」

「……ばか」

「笑ってる?」

「当たり前じゃない……こんなの」


 身体の奥から溢れてくるような温もりに口が緩みに緩む。

 ハーニーは何を言っているのか自分で分かってるんだろうか。帰る場所になるだなんて、それじゃまるでプロポーズだ。きっと自分で気づかずに言ってるに違いない。


「……はぁ」


 馬鹿々々しい。そう思うけど、私が吐く息は落ち着いていた。

 いい夢を見ている気分。とっても穏やかで幸せな……。


「……夢よね」

「夢じゃないよ」


 ハーニーの言葉に私は笑った。こんな都合のいいことあるはずないのに。

 ほっとすると急に瞼が落ちてきた。どれが夢なのか分からないまま眠りに落ちていく。今度は悪い夢を見ない。そんな確信めいた予感を抱きながら。


「ありがと……ハーニー……」


 ネリーはハーニーの手を離さず意識を手放した。





 小鳥の鳴き声が聞こえる。なのに瞼の向こうは暗い。鳥が騒ぎ出すってことは雨が止んだということなのにどうして暗いんだろう。

 うっすら目を開けると、何かがすぐ近くにあって視界を覆っていた。


「……なにこれ」


 至近距離にあるものをネリーは訝しむ。起きたばかりで頭が回らない。首を引いてそれが何なのか確認しても、最初自分がどう寝ていたか理解できなかった。


「は……?」


 目を疑う。この見覚えのある西陸服はハーニーのものだ。だとするとこのすぐ目の前にいるのはハーニーで、この壁みたいなのは胸板だ。


「ハ……ええっ?」


 次第に意識が明瞭になってくる。思い出すのは昨晩見た夢。


「ゆ、夢じゃなかった……?」


 それを証明するかの如くハーニーは目前にいる。いるだけではなく、私を腕に収めて眠っている。穏やかな寝息を立てている。


「つ、つまりわた、私は抱きしめられながら……!?」


 理解が進むほどに理性が飛んでいった。


「ひ、ひぃっ」


 体が反射的に抱擁から逃げ出そうとした。

 けれど、それは叶わない。ハーニーの手は私の手を包んでいた。


「う、うそうそっ。じゃあ本当にハーニーは……はっ」

「ううん……」


 どたばた動いたからかハーニーが唸った。眠そうな眼が開く。


「……あれ、もう起きてたんだ……?」

「えっ? わ、私……う、うん……」


 寝ぼけているのか、ハーニーは恥ずかしがらない。こんな至近距離で向かい合ってるのに。ベッドで横になりながら向かい合ってるのに。


「は、はわわ……!」

「……ネリー?」


 ハーニーが怪訝そうにするけど、取り繕う余裕なんてない。

 私、ハーニーと密着してるっ!


「だ、だめっ!」


 ベッドから転げ落ちるように這い出る。床にへたり込んだ。


「こ、これは……! だめ! 無理!」

「えっと……何のこと?」


 目をこすりながら尋ねられる。


「何って……! ハーニーは私の手を握ってくれて! それで、それで……っ」


 頭が完全に理解する。

 どうやって寝ていたか。眠りに落ちる前にハーニーがどんな言葉をかけてくれたか。

 恥ずかしくて顔も見れないのに、離れた手はひどく寂しい。

 それを実感して、ネリーは耐えられなくなった。


「と、泊めてくれたことに感謝してるっ。……それ以上にも」

「あ、ああ。うん?」

「あ、ありがとね!? それじゃあ!」

「えっ、あ」


 ハーニーが何か言いかけた気がするが構っていられない。悪いとは思うけど、それどころじゃない。

 ネリーは脱兎のごとく部屋を後にした。階段を駆け下りて扉を開けて、外に飛び出る。

 少し寒いけど、雨上がりの綺麗な空気を吸い込んだ。


「はぁっ……」


 出てきたばかりの扉に背を預けてもたれかかる。


「急にどうしたんだろう……大丈夫かな」

『知りません。放っておきましょう』

「……なんか怒ってない?」


 丁度上からハーニーたちの声がする。窓から身を乗り出して私を探していた。

 一歩前に出れば上から私が見えるだろう。

 でも逃げ出してしまった姿を見られたくない。恥ずかしい。恥ずかしいっ。


「もう行っちゃったか。うう、寒い」


 何でもない内容なのに、声だけでドキドキする。

 バタンと窓が閉められる音。


「……はあぁぁ」


 悩まし気な長いため息が出た。


「どうしよう……ううっ、私、私……」


 色々な感情がごちゃごちゃ混ざって混乱してるけど、一つだけはっきりしたことがある。

 明確に気づいてしまったことがある。

 ネリーは震える唇で言葉にした。


「私……ハーニーのこと……好き、なんだ」


 言葉にして、その響きに恥ずかしさすら忘れて陶然としてしまう。

 否定する余裕もなく受け入れるしかない。

 こみ上げる感情がこの事実を証左していた。


「……ふふ、あは……好きなんだ……」


 笑ってしまうほどに認めざるを得ない。

 ネリーは雨上がりの夜明けの中、真っ赤な顔で立ち尽くした。

 何度も何度も出来事を反芻して、今までと違う自分を感じていた。


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