旧王都 アルコーと教会


 アルコー・コールフィールドという男のことをハーニーは僅かしか知らない。

 知っているのはいつも酒の匂いをまとっていること、そして魔法が弱まっているということくらいだ。後者はパウエルから聞いたことだが、それでもあの苛立ち様からして事実なのだろう。アルコー自身自分を責めていたこともその証拠だ。

 もっと力があるはずなのに発揮できず危機を招いた。彼はそう感じているに違いない。

 ……こうしてアルコーさんのことを心配してしまうのは、昨日のことがあったからだろうか。

 ふと窓の外を見ると太陽はちょうど真上に来ている。


「春らしい陽気だなあ」


 宿の自室のベッドの上で腰かけながら、ぼんやりつぶやいた。

 今日は旧王都に来て初めて予定がない日だ。久々の暇だから、考えてしまうのかもしれない。アルコーのことや、サキのこと。

 暇、といえばリアは朝から熱心に本を読んでいる。


「何を読んでいると思う?」


 右腕に尋ねてみた。


『最近は恋のお話を楽しんでいるようですね』

「やっぱりそうなのか」


 リアだって女の子だ。もう10歳だし、興味を持って普通だ。ネリーが色々吹き込んでそうだし、自然だといえる。今読んでる本だってネリーが渡したものだ。


「……でも心配だな」

『何がです』

「あくまで創作だよ? もし変なことを真に受けたりしたら……」


 パタン。

 リアが勢いよく本を閉じた。その目はこれでもか、というほどキラキラ輝いている。目線は遠く、物語の世界に思いを馳せているようだ。

 リアはその輝く瞳をこちらに向けた。


「嫌な予感がする……」


 その輝きはしっかりハーニーを照準にしていた。


「ハーニー!」

「な、なに?」

「これ! しよう!」


 リアは本をこちらに突き出しながら横に座った。


「わわ、近すぎて見えないよ。……どれどれ。うわ、字だらけ」


 絵本なんて可愛いものでなく、普通に小説の体を成していた。

 そのページには色々な障害を乗り越えた男女が感動的なキスをした旨が書かれ、物語を終えている。最後のページだけ読んでも感動は生まれない。


「で、どれをするって?」

「これだよ!」


 びっ、と人差し指がページの終わりの部分を指さす。それは的確に『キス』の部分を指していた。


「あー、これね……」


 予想していたとはいえどうしたものか。


「ねえリア。これどういうことか分かってるの?」

「知ってるよ! 常識なんだよ!」


 常識とまで言うリアは本のページを遡る。丁寧にも抱き合う男女が絵になっているページを開いた。


「愛してたらするって書いてある!」


 確かに書いてあるが。


「そんなものをネリーは渡したのか……」

「そんなものじゃないよ! とってもいいお話しなんだから!」


 感動冷めやらぬリアは腕をぶんぶん振って憤慨する。


「それは分かったけど、あのね、キスっていうのは簡単にするものじゃないんだよ」


 ページの中の『恋人』を指さした。


「ほら、ここに書いてあるように恋人同士がするものなんだ。お話の中でも気軽にするものじゃなかったでしょ?」

「うん。してなかった」

「そういうものなんだよ。だからキスは大切な人にとっておこう」

「ハーニーは大切だよ?」

「……」

『しっかりしてください』


 セツの声はいつもより冷たく聞こえた。


「だ、だからね……キスっていうのは」

「だからじゃないもん!」


 リアがぐっ、と近づいてくる。逃げようとするがベッドに隣接する壁にぶつかった上に、リアがしなだれかかってきた。リアが半分乗っかった形になって動けない。


「ま、まずいから! ダメなんだってば!」

「もう10歳だしリアはいいのー」


 頑として引かないリアは何かにとりつかれているようだった。桃色の何かに。


「あ、あのね、これはちょっと……う」


 リアがリアじゃないように見えて心臓が跳ねる。


「んー」


 リアが唇を寄せてくる。サキの魔法を受けたように体が固まっていた。

 恋ってこんなに強いものなのか!? リアは色々苦労してるから大人びて見えるのか!?

 本当にまずい。そう思った時。

 コンコン。部屋のドアをノックする音。

 しめた!


「は、はーい!」


 大きく返事をしてリアの拘束をするりと抜け出す。じっとりした視線が背中を刺すが構わずドアに向かった。

 ドアを開けるとそこに立っていたのは一階の酒場の店主だった。


「すみませんね、突然」

「いえ、大丈夫ですけどどうしたんですか?」


 珍しい来客者は眉をハの字にして困り果てた顔をしていた。


「君たちの連れの、ほら、いつも酔いつぶれている人いるでしょ」

「アルコーさんですか」

「名前は知らないけどね」


 店主が苦笑とともに何かを差し出してきた。


「珍しく飲まないなと思ったら財布を忘れてったんですよ。それで困ってね……」

「はあ」

「君、あの人の連れでしょ? これ、渡しておいてくれるかい」


 どっちがどっちの連れなのか店主にはどちらでもいいらしい。


「僕がですか」

「ダメかい?」


 断ろうとして、背後の狩人の目を思い出した。


「いえ、分かりました。渡しておきます」


 くたびれた革製の財布を受け取る。思ったより重い。店主が困るわけだ。


「いやあ助かった。それじゃあ頼みましたよ。あ、あとあまり飲みすぎないように言った方がいいかもしれないね」

「は、はい」


 店の人にまで心配されるってどういうことなんだ。

 店主は頭一つ下げるといそいそと階段を下りていった。

 受け取った財布に目をやる。


「安請け合いしたかな。どこにいるかも分からない」

『自業自得です』


 どのことを非難しているのか分からなかった。いや、分からないでおこう。


「リア、一緒に散歩に行かない?」


 むくれてベッドに寝転がっていたリアは飛び起きた。


「行く!」


 何事もなかったような笑顔にほっとする。


『うまく逃げることができたという顔ですね』

「まあいいじゃない」


 色々保留にして出かける準備をした。


「それじゃあ行こう」

「うんっ」


 リアは部屋を出る前から手をつないできた。にこにこ笑顔は嬉しそうだ。

 宿を出る時一応酒場を覗いたがアルコーはいない。


「どこに行くのー?」

「んー。考えてない。適当に探検してみようか」

「いいね!」

「よーし」


 言葉の通り適当に歩き始める。アルコーを探すのが目的とはいえ、見つけたら幸運程度の感覚だ。どうせ夜になれば酒場に現れるだろうし、そうでなくとも彼は毎晩宿の一室で過ごしている。だから第一目的はリアと過ごすことだ。

 旧王都のこの宿周辺は割かし雑多としている。どこかガダリアに似た雰囲気があった。


「ふふふーん、ふんふふー」


 リアの鼻歌と共に歩く。

 ただ散策しているだけなのにリアはとても楽しそうだ。

 そういえば最近リアと出かけていなかった。もしかしたら少し寂しかったのかもしれない。


「ネリーに色々教えてもらったんだって?」

「……」

「あれ、リア?」


 リアは何とも言えない顔をしていた。


「そうでもないよ」

「そうなの?」

「んとね、恋のお勉強をしてるけどネリーさんは喋ってるうちに静かになっちゃう」

「静かになっちゃうって?」

「急に話さなくなって何か考えてるの。その時は顔がたくさん変わって面白いよ」

「ネリーの表情が? 一度見てみたいな」


 ネリーがしっかり教えていないのも意外だ。楽しそうだからいいけれど。


「ん?」

「むー……」

「え、なんで脹れるのさ」


 ぷい、と顔を背けられた。


『「ネリーの顔が見てみたい」と言ったからでしょう』

「……そうだっけ?」

「言ってたよ! セツさんも聞いてたよね! ね!」

『聞きました』

「ほらあ!」

「そ、それはごめん」

「罰としてキスだよ!」


 ちらちら、と周囲の怪訝な目が集まった。


「だ、だから……ダメなんだってば」

「ダメじゃないもーん。罰としてしてたもん!」

「誰が?」

「本の中のお姉さん」

「ネリーは何を考えてそんな本を渡したんだ……」


 そもそもネリーがそういう本を読むこと自体意外だ。


「とにかくキスはダメ」

「えー……」


 悲しそうにされると申し訳なくなる。


「代わりに何か一つ願い事を聞いてあげよう」

『また甘やかす』


 呆れたような一言に苦笑しながら「簡単なやつだよ」と付け足した。

 リアはころりと表情を明るく一変させて可愛く唸った。


「んー、じゃあ寝る前に本読んで!」

「本? あのネリーの?」

「そうだよ!」

「そんな簡単でいいの? いいよ」

「やった! やったー!」

「……何でそんなに喜ぶ?」


 不思議に思うと右腕からまた呆れたようなタイミングで声。


『恋のお話です。愛の告白もあるでしょうね』

「それを僕が読む!?」

「そうだよー! へへへ」


 にやにや笑うリアは最初からそれを狙っていたらしい。


「搦め手を使うなあ……あっ」


 負けを認めた気分でいると、目の端に見覚えのある後ろ姿が映った。

 少しふらついた足取り。ぼさぼさの髪に貴族の格好。


「アルコーさんだ」


 遠いせいか、背中が随分小さく見えた。


「……リア。少しアルコーさんに話があるんだ。いい?」

「いいよー」


 僅かに足を速めた。


「リアはアルコーさんのことを知ってる?」


 ふとした疑問にリアは頷いた。


「知ってるよ。お話ししたこともあるもん」

「話したって?」


 驚いて足が止まった。


「んーとねえ、この前ネリーさんが来て、少し出かけることになった時に会ったの。挨拶したら頭撫でられたよ」

「そっか」


 話をした、というほど大げさなものではなかった。何となくリアを撫でると嬉しそうに見上げてきた。


「挨拶したから?」

「そうだね。そういうこと」

「んふふ。それくらいリアにだってできるからね」


 そう言うがリアは猫のように目を細めて喜んでいた。


「リアはアルコーさんのことどう思う?」

「……何だか痛そう」


 リアはしゅんとした。痛そう、という言葉がそのまま肉体的なものを指しているわけではないのは分かる。精神的に辛そうなのだ。見ていて痛々しい、それが今のアルコーさんなんだ。


「あ」


 立ち止まって話していたせいでアルコーの姿を見失っていた。


「どこ行ったんだろ」

「すぐそこの家に入っていったよ?」


 リアが引っ張って案内してくれる。

 たどり着いた場所は意外な場所だった。


「ここにアルコーさんが入っていったって?」

「うん」


 そこは教会だった。

 外壁がところどころ剥がれた寂れた教会。管理者はいなさそうだが、入口は豪快に開放されていて自由に入ることができる。


「本当に?」


 アルコーがここに入るとは思えない。信心とは最も離れている知人という印象があった。神様なんて信じる性質か、と。


「ホントだもん! ハーニーに嘘つかないよ!」

「それは疑ってないけど……とりあえず入ってみよう」

「うん!」


 リアの父、ウィルに信心はなかった。そのためかリアは興味津々だ。


「へえ、すごいな」


 目を取られる。扉を抜けると礼拝堂だった。天窓から日が差し込んでいて、埃っぽさがむしろ神秘的な演出をしている。堂の両脇には見慣れない像が並んでいた。どれも美術的で恐怖をあおるものではない。


「わあ。綺麗だねえ……」


 リアは特に多色のステンドグラスが気に入ったらしい。

 静まった礼拝堂。人の気配はない。

 ……いや、誰もいない中一つだけ。腰かけている男の姿があった。


「お祈りですか?」

「……俺がそんなことするように見えるか?」


 歩み寄って話しかけたがアルコーはこちらに目をくれない。目は礼拝堂の神父がいるべき場所を見ていた。

 ぱたぱた、とリアの駆ける音。


「ねえ、これなあに?」


 リアの指は脇に並ぶ像の一体を指さしていた。


「え、なんだろう」


 宗教知識は持ち合わせていない。困っているとアルコーが答えた。


「あれはなあ、神様の一人だ」

「詳しいんですか?」

「馬鹿言え。常識だ常識。俺のころの魔法使いは皆知ってる」


 アルコーは鼻で笑った。


「色の数だけ神がいる。その象徴が八色神だ。その神様たちから力を借りて魔法を行うってのが魔法の一系なんだ」


 「へええ、ここに神様がいるんだあ」と感心するリアにアルコーは表情を緩めていた。


「アルコーさんも神様に力を借りる考え方なんですか?」

「俺? 俺は違う。俺はちゃんと実力と自信で裏付けて……チッ」


 言葉は次第に小さくなって途中で消えた。


「お前神を信じてるのか?」

「僕は信じてませんよ。いくら願っても叶わなかったことがあるんです」

「そうか。ならどうしてここに来た?」

「これを渡してくれって頼まれたんです。酒場に忘れたんですね」


 財布を渡す。


「おお、すまんな。……盗ってないだろうな」

「盗りませんよ!」

「冗談だ冗談」


 アルコーは、ははは、と笑うが空笑いで空虚に響いただけだった。

 居心地の悪い静謐な無言。

 迷ったが尋ねる。


「アルコーさんはどうしてここに?」

「……」

「神様、信じてないんですよね?」

「信じちゃいないさ」

「じゃあどうして?」


 アルコーは消え入りそうなため息を吐いた。話したくないのかもしれない。しかし、今にも自棄になりそうなアルコーを見ないふりすることはできなかった。

 少しでも控えめに聞こえるように尋ねる。


「何か願いがあるんですか」

「……そんなところだ」


 アルコーは椅子の背もたれに身体を預けて天井を見上げた。改めてみると彼の顔はくまがあったり、生気に欠けている。


「もともと神なんか信じちゃいない。いないが……そこまで一つのものを信じ切ることができればよかったとは思ってる。もしそうできたら楽なんじゃないかってな」


 その言葉の真意は分からない。そこまで聞いていいのか怖くなる。踏み込んでいい領域なのか。どうすれば彼にとってベストか。


「はっ。相変わらず人の顔色ばかり気にするな」

「すみません……」

「俺は嫌いじゃないがね。……俺のことなんて気にするな。聞きたいことがあれば聞けよ」


 呆気に取られた。ここまで弱気なアルコーは見たことがない。礼拝堂だから素直でいるわけではないだろう。そこまで追い詰められているということだ。

 想像よりアルコーは苦しんでいる。それが分かって躊躇いはなくなった。


「何から逃げているんです?」

「殺しから」


 空白を埋める即答だった。


「いいや、殺すことに責任は感じちゃいない」


 アルコーは再びうつむいた。前かがみに、礼拝をするように。


「俺はやるべきことをやってきた。そこに責任だとかはない。……ただ、つらい」

「つらい?」

「俺は戦った。自分以上に国のために、人のためにだ。だってのに俺を責めやがる。帰る場所が俺を責めるんだ。戦場にいたことは誉で誇りに思ってるが、皆が違うと言えば……そんな気にもなるだろ。俺はそいつらのために戦ったんだぞ。だのにこれじゃ、俺が間違っている気がしてきやがる。無駄なことをしたのかもってな」


 低く重い声だった。そして苦笑が足される。


「パウエルはすげえよな。あいつも同じ戦場を越えたのに俺と違う。きっと芯が違うんだ」


 アルコーは言い終えると、まるでハーニーの反応を知りたくないかの如く立ち上がった。


「神でもいればと思ったが、ダメだな。何にも変わんねえ。ホントにいるのかよ」

「アルコーさん? どこに行くんですか」

「酒だ、酒。他にねえだろ……何も」


 アルコーはすたすたと教会を出ていく。その背は話しかけるなと言っているようだった。


「……他にない、か。救いかな」

『逃げ場所かもしれません』

「かもしれないね」

「かもしれないねー」


 リアが真似て言う。どうして真似をしたのかは顔を見れば分かった。張り詰めた雰囲気で話していたから心配したのだ。元気づけてくれている。

 礼代わりに頭を撫でようとすると、手を取られてぎゅっと握られた。


「リアが傍にいるから大丈夫だよ!」

「……ありがと。リアは優しいなあ」


 リアは満足そうに笑った。

 アルコーさんにもこういう存在がいれば違うのだろうか。


「帰る場所に責められるって言ってたし、やっぱりあの区が関係してるんだろうな」


 先日サキと入ってしまった反戦の区。戦いを呼ぶものは入るな、と追い出された場所。


『そうですね。妥当です。そこで生まれたか育ったか』

「だとすれば、それはつらいな」

『あなたからすれば尚更そうでしょうね』


 僕からすれば。帰る場所がない僕からすれば、だ。そういう地があることが羨ましいだけに、つらい。せっかく存在を支えてくれる場所があるのにかえって否定されるなんておかしい。想像するだけで心苦しくなる。


「ハーニー……」

「……あ。ごめん」


 僕まで悲しんでどうするんだ。僕には帰る土地はなくても場所はある。守りたいものがあるんだ。いつまでも「悲しい自分」を使っちゃいけない。


「どうしたらいいんだろう」


 どうにかしないといけない理由はない。だが僕は知ったのだ。それも僕にも理解できるような痛みを。

 そっとリアがつぶやいた。


「皆子供になっちゃえばいいのにね」

「子どもに?」

「うん。子どもだったら、ほら! 大変じゃない!」


 腕を広げてリアは自由をアピールした。


「はは、そうだね。それはいいな」


 できそうもない、ありえないことなのに名案に聞こえて笑みがこぼれた。


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