第六十九話 きじ はじめてなく

雉始雊その一 雁四郎放逐


 師走十三日は正月事始め。その日から六日が過ぎた間渡矢城奥御殿は年越しと迎春の準備で大忙し。それなりに役に立つ恵姫に加え、女中仕事の要になっていたお福までもが居ないのですから、忙しいのは当たり前です。これには磯島も不平を唱えずにいられませんでした。


「これでは人手が足りませぬ。表の役方、番方にも奥の仕事を手伝わせてくださいませ」

「それは構わぬが奥御殿には立ち入れぬぞ。あそこは男子禁制の場であるからな」


 厳左の言葉は磯島の機嫌を一層悪くさせてしまいました。募らせた不満を発散させるように、今度は寛右に意見する磯島。


「どうしてお福と恵姫様を連れ戻していただけなかったのですか。雁四郎様よりもあの二人の方が城にとっては大切なはず。もう一度斎主宮に赴き、速やかに間渡矢へ戻すよう申し入れてくださいませ」

「んっ、いや、それは……」


 口籠る寛右。青筋立ててしかめっ面をする磯島の気持ちも分かるのですが、二人を立春前に間渡矢へ戻すのは無理な話です。今は成り行きを見守るしかないと考えながら、寛右の記憶は斎主宮謁見の翌日に遡るのでした。


 * * *


 雁四郎の切腹だけは何とか食い止める事ができた寛右と友乗。翌日の巳の刻、毘沙姫と共に斎主宮へ赴けば、外院御殿の玄関の前で雁四郎が一人ポツンと佇んでいました。


「寛右様、友乗様、毘沙姫様、かたじけのうございます」


 髪は乱れ、無精ひげは伸び、目と頬が落ちくぼんだ雁四郎の姿。この数日間、牢の中でどのように過ごしていたか一目で分かります。三人の前で両手を地につけ、深々と頭を下げる雁四郎の背中をさすりながら、寛右は優しさと厳しさを含んだ声で言いました。


「気にするな雁四郎、全てはもう終わった事だ。だがこれだけは言っておく。我らが苦心の末に助けた命なのだ。決して粗末に扱ってはならぬ。これからは一日でも長く生きる事を第一義に考えお役目に励むのだ、よいな」

「はい、心得ました。拙者の生涯を懸けて此度の御恩に報いる覚悟でございます」


 海豚屋の一件では間渡矢に戻ってからも本来の自分を取り戻せなかった雁四郎。しかし今回は既に自分の為すべき事が分かっているようです。この十カ月足らずの間に雁四郎もまた大きく成長していたのでした。


 毘沙姫と伊瀬で別れた後、寛右は友乗と共に雁四郎を連れて島羽へ戻り一泊。翌日、友乗に雁四郎を託して間渡矢に帰還し、厳左に全てを報告しました。


「刃引きの刀を用意しておったとは。またも寛右殿の智謀に助けられたな。礼を申すぞ」


 寛右から事の次第を聞いた厳左は深々と頭を下げました。ほとんど諦めていた雁四郎の命。それを救ってくれた寛右にどれほどの礼を尽くせばよいのか、厳左には見当もつきませんでした。


「頭を上げてくだされ、厳左殿。某はお役目を果たしたに過ぎぬ。しかも雁四郎は伊瀬、志麻、記伊の三国所払い。間渡矢に戻る事は叶わぬ身。礼を言われるほどの働きはしておらぬ」


 恐縮する寛右でしたが、死罪を所払いに減刑するのがどれほど困難な事か厳左にはよく分かっていました。罪一等減じられたとしても遠島か重追放なのです。在国を含む三国だけからの追放に留めたのは大手柄と言って良いものでした。


「恐らくは斎主様も雁四郎を不憫に思っていたに違いない。できるなら命を助けてやりたいと考えておられたのではないか」


 厳左の言葉に頷く寛右。


「某も同じ意見だ。三国からの所払いならば雁四郎を江戸詰めにするだけでよい。あるいは斎主様は雁四郎と恵姫様を切り離したかったのではないだろうか。あのような暴れ鯛のお守りは若輩者にはとても無理だ。雁四郎を江戸に送り、恵姫様の警護は別の者に任せよと暗に言いたかったのだろう」


 昨年の秋まで恵姫の警護は専ら雁四郎の父が受け持っていました。しかし参勤交代で出府する殿に従って間渡矢を去った為、その代わりとして雁四郎がその役に就いたのでした。それまでは城内見回りや門番のお役目だけだった雁四郎にとっては、やはり荷が重かったのです。


「斎主様のお心遣いには頭が下がるな。伊瀬に攻め込まずに済んで何よりだ。だが……」


 厳左は言い淀み、険しい表情になりました。何を迷っているのかと不思議に思う寛右。雁四郎に代わって恵姫の警護を任せられる人材はそれなりに揃っているので、困る事はないはずなのです。


「だが、雁四郎は江戸詰めにはせぬ」

「江戸に送らぬと? ならばどうされるおつもりか。雁四郎の居場所がないではないか」

御役おやく御免に致す。禄も取り上げるつもりだ」

「禄を! 雁四郎を解雇するおつもりか」

「そうだ。比寿家家臣の身分を剝奪し浪人になってもらう」


 驚きの余り言葉を失う寛右。ある程度の処罰が必要だと考えてはいましたが、まさか厳左がこれほど厳しい罰を雁四郎に与えるとは思ってもいませんでした。


「いや、それは……それはいくら何でも雁四郎が気の毒であろう。家臣の身分を奪われては武士として命を奪われるのと同じではないか」


 苦労して雁四郎の命を救ったのです。ここまで酷な扱いをする厳左に文句のひとつも言いたくなるのは当然です。厳左はそんな寛右に対し穏やかな声で話しました。


「寛右殿の尽力には心より感謝しておる。雁四郎を大事に思う気持ちも十分承知しておる。しかし比寿家として何の処罰も下さねば公儀が黙ってはおるまい。江戸の乗里様や左右衛門殿がどれほど頑張ろうと、姫衆が要求する罰だけを与え我らが何の罰も与えぬのでは、武家としての面目を欠く、公儀はそう判断するであろう」

「ならばお家放逐などせずとも減俸でよいではないか。何故にこれほど重い処罰を与えるのか」

「うむ。実はこれは雁四郎の希望でもあるのだ」

「雁四郎が放逐を望んでいる、と?」


 首を傾げる寛右。そんな話は初耳です。それに自ら浪人になる事を望む家臣など常識では考えられません。疑わし気な表情の寛右を愉快そうに眺めながら厳左が話を続けます。


「二月の伊瀬の旅、九月から始まった江戸への旅。この二つの旅が雁四郎の心に大きな変化を与えたようだ。剣の修練の合間にぼんやりと遠くを眺める事が多くなったのだ。考えてみれば雁四郎はほとんど世間を知らぬ。間渡矢と書物だけが雁四郎の世なのだ。このままでは井の中の蛙で終わってしまうと少し心配になってな。長旅に出すにはちょうど良い機会だと思うのだ。わしも比寿家に仕官する前には数年間に渡って放浪の旅を続けた。あれはわしの人生にとって得難い経験であった。いや、無論雁四郎を何年も旅に出す気はない。一年もせぬうちに恵姫様は島羽へ嫁がれる。そうなれば恵姫様の警護は松平家の役目となろう。恐らく斎主様はその頃合いを見計らって所払いの恩赦を与えるはず。そこで雁四郎を再仕官させ、間渡矢に戻せばよいのだ」


 寛右の表情が和らぎました。そこまで雁四郎を思う厳左の心に肉親の絆の強さを感じたのです。


「了解した。そのような理由があるのならば某はこれ以上何も言わぬ。厳左殿もそろそろ曾孫の顔を拝みたいと見えますな」

「むっ、いきなり何を言うのだ、寛右」

「知っておりますぞ。厳左殿はその放浪の旅の途中で嫁を見付け、そのまま夫婦になられたのであろう。折しも雌を求めて鳴く雄の雉の甲高い声が寒天に響き渡る時節。雁四郎も旅の途中で良き娘に出会い、間渡矢に連れ帰って跡継ぎを作って欲しい。そのような考えもあるのではないかな」

「ははは、さすがは寛右殿。読みが深いな」


 図星を突かれた厳左は声を出して笑いました。ようやく和み始めた雰囲気の中、後は公儀がどのような態度を取って来るか、それだけが気に掛かる寛右ではありました。

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