芹乃栄その二 時空相転移
思いも寄らぬ瀬津姫の登場に驚きと動揺が隠せない恵姫。瀬津姫がここに居る理由はひとつしか考えられません。
「斎主様、お福を間渡矢に戻さない理由は分かりました。それではお福をどうされるおつもりなのですか。まさか瀬津と一緒に……」
「そのまさかです。瀬津姫、破矢姫と共に記伊に戻します。これ以上伊瀬に置いても仕方ありませんからね。さあ、此度の謁見はこれでお仕舞いです。お福について隠していた事、斎主として申し訳なく思います。無期限の姫札はそのお詫び。好きなだけ伊瀬に滞在していきなさい」
「これで、お仕舞い、じゃと……」
呆然自失の恵姫。お福が記伊に行ってしまえばそう簡単に会う事はできません。斎宗になってしまえば会う事はまず不可能です。まるで物でも扱うかのように間渡矢へ預けられ、今また強引に間渡矢から奪われていくお福。こんな形でお福と引き離されるのは絶対に承服できません。
「お待ちください斎主様。お福が記伊に戻るのは仕方ないにしても、理由をお聞かせくださいませ。何故お福を記伊から出したのか。何故間渡矢に預けたのか。それを聞かぬままお福と別れる事はできませぬ。何卒、理由をお聞かせください」
恵姫の必死の問い掛けに斎主は返答しかねているようでした。しばらくの間、御帳台からは何も聞こえてきませんでした。が、ようやく意を決したのか、重々しい声が聞こえてきました。
「その理由を教える為には、ほうき星の秘密についても話さねばなりません。そなたたちにとっては辛い事実を突き付けられる事にもなりましょう。それでも聞きたいのですか」
「はい」
返事をしたのは恵姫だけではありませんでした。毘沙姫、黒姫、才姫、禄姫、寿姫。布姫以外の六人が
「与太郎様、斎主様の御命令です。上段の間にお出でください」
「えっ、あ、はい」
女官に手を取られて上段の間に上がる与太郎。お福に寄り添うように並んで座らされました。
「皆様の気持ちは分かりました。それではお話すると致しましょう」
そうして斎主はゆるゆると話し始めました。
「まずは伊瀬と記伊の姫衆の役割からお話しましょう。最初の伊瀬の姫である
お福の横でぼんやりと話を聞いていた与太郎、自分の名を呼ばれて思わず「えへへ」と言いながら頭をかいています。
「これは私にとっても記伊の斎宗にとっても大きな誤算でした。お福を与太郎に会わせたくない、それだけの為にお福を記伊から出したのですから。そして恵姫に与太郎の存在を知られてしまった以上、そなたたち伊瀬の姫衆も否応なしにほうき星に関わらざるを得なくなってしまったのです」
「えっ、つまり僕はめぐ様たちに会わない方が良かったって事ですか」
これは恵姫たちだけでなく、当の与太郎にとっても思いも寄らぬ話でした。与太郎が伊瀬の姫衆たちと知り合いになる事が、ほうき星の消滅に大きく影響するとは思えなかったのです。
「与太郎、そなたは本来記伊の斎宗宮に現れるべき者。そして
「そうだったんですか。ご期待に添えなくて申し訳ないです」
これに関しては与太郎には全く非はないのですが、素直に謝罪する点が如何にも与太郎です。
二人の遣り取りを聞いていた恵姫は釈然としない気持ちで一杯でした。与太郎のような腑抜けな男をお福にも他の姫たちにも会わせたくない、その理由が分からなかったからです。
「ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか斎主様。何故お福にも伊瀬の姫衆にも与太郎の存在を知らせぬままにしておきたかったのですか。このような者、他者と関わったところで何の害も及ばさぬのは分かり切っておりましょう」
恵姫の問い掛けに斎主の返答はありませんでした。しばらく後、御帳台の中から重い口調の言葉が返ってきました。
「それは言わぬままにしておこうと思っていました。特に与太郎には直前まで教えぬようにしておこうと……しかしそれではそなたたちは、最早納得できないのでしょうね……」
逡巡する斎主の声。それは庄屋の屋敷で瀬津姫を問い詰めた時と同じでした。斎主もまた言いたくはないのです。
「恐れながら私が皆様に申し述べましょう、斎主様」
下段の間、最前列に座っていた布姫が声を上げました。
「私に代わってそなたが皆に話すと申すのか、布姫」
「はい。こうなってはひとつの隠し事もなく全てを話さねば、姫衆の心にしこりを残す事となりましょう。与太郎様の時空の知識を得た私ならば、より深く皆様を納得させられるものと思います」
自信に満ちた布姫の声。そしてやはり布姫は全てを知っていたのです。
「分かりました。布姫、そなたに任せましょう」
斎主の了解を得た布姫はすっくと立ちあがると、下段の間に居並ぶ姫衆たちに向かって話を始めました。
「最初にふたつの時空の話から始めましょう。江戸で話しましたように私たちの時空は水、与太郎様の時空は氷です。二つの時空の違いは液体の相であるか固体の相であるか、それだけです。本質的にはどちらも水、どちらの相で存在していても問題はありません。けれどももし時空の存在する宇宙が秋から冬に向かっているとしたらどうでしょう。湖面の水が凍り始め日増しにその厚みを増していくように、水の相である時空はやがて氷の相にならねばなりません。水の相のままで居る事は許されないのです。それがこの宇宙の進んでいる方向なのですから。私たち水の相の時空は与太郎様の氷の相の時空と同じ相になるべき宿命を背負わされているのです。冬になって湖面の水が凍らねばならないのと同じように」
与太郎は既に平伏するのをやめて、腕を組んで布姫の話を聞いています。与太郎にとっては理解するのが大変な内容なのです。
「水が凍って氷になるくらい大した事ではなかろう。わらわたちの時空の相が与太郎の時空の相と同じになって困る事でもあるのか」
恵姫はそれなりに理解できているようです。布姫は満足げに微笑みながら答えました。
「時空の相転移は頻繁に起きています。私たちの時空も相転移をした多くの時空を吸収し続けながら今の姿を保っているのです。そして私たちの時空には吸収された時空の残滓を見る事ができます。存在しているように見えて存在していると言えない者たち。例えば姫衆だけに見える佐保姫様。例えば半夏に代表される妖怪。私たちとは明らかに違う存在の仕方をしている存在。彼らはかつて私たちとは別の時空に居た者たち。そして相転移して私たちの時空に吸収された成れの果てなのです」
「ではわらわたちの時空が与太郎の時空に吸収されれば、わらわたちも佐保姫様のような存在に成り果てると言うのか」
「その通りです。水が凍って氷になれば、それはもう水の姿を留めていません。私たちの時空と与太郎様の時空の違いは人の歴史だけ。木や山などの自然の歴史は同じなのですから、それらは水から氷になったとしても元の姿を保てましょう。しかし私たちは与太郎様の現在の時空には存在しない存在。今の姿を留める事はできないのです。そして相転移の時はすぐ間近に迫っています。今、空に昇っているほうき星、あれは相転移の前兆。やがてほうき星は全天を覆うほどに巨大化するでしょう。その時、水は一気に氷へと変わり、私たちの時空は与太郎様の時空に飲み込まれるのです」
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