乃東生その四 姫の髪

「皆様、田吾作でございます。入ってもよろしいでしょうか」


 襖の向こうから声がしました。「いいよ~」と黒姫が返事をすると田吾作が盆に土瓶を乗せて入ってきました。新しいお茶を持って来てくれたのです。


「おう、田吾作、気が利くではないか。丁度喉が渇いておったのじゃ」


 さっそく湯呑に茶を注ぐ恵姫。田吾作は会釈をすると更に付け加えました。


「それから柚子の薬湯の用意ができましてございます。皆さま、順番に仲良く入ってくださいませ」

「わらわじゃ。わらわが一番風呂じゃ!」


 お茶を一気に飲み干すと慌ただしく座敷を出ていく恵姫。この屋敷へは幼い頃から遊びに来ているので、湯屋の場所は案内されなくても分かるのです。


「めぐちゃん、相変わらず熱いお風呂が好きなんだねえ」


 走り去る恵姫を見送る黒姫の言葉に、与太郎は少々驚いているようです。


「えっ、そうなんだ。意外だなあ。めぐ様ってぬるま湯に浸かるような生き方をしているから、てっきりお風呂もぬるいのが好きなのかと思ってたよ」


 本人が居ないのをいい事にかなり失礼な物言いをしています。恵姫が居たら一発お見舞いされていたでしょう。


「めぐちゃんが言うにはね、熱いのを我慢して湯船を出た時の解放感が、辛抱強く糸を垂らし続けて大物を釣り上げた時の爽快感によく似ているんだって。まだ小さい頃、めぐちゃんと一緒に入った時は、あたしが熱くて入れないような湯にも顔を真っ赤にして入っていたんだよ。その後のぼせて鼻血を出していたけどね」


 どうやら幼い時から「加減する」という言葉を知らなかったようです。こんな恵姫と物心付いた時から付き合っている黒姫は、ある意味凄い人物だなあと今更ながらに感心する与太郎です。


「めぐちゃんの次はどうする? 才ちゃんが入る?」

「あたしゃ、ぬるま湯が好きなんだよ。あんたらが先に入りな」

「じゃあ、次はあたしとお福ちゃんが一緒に入ろうか。背中を流してあげるよ」


 少し顔を赤らめて頷くお福。その様子を見て思わず鼻の下が伸びる与太郎。図らずも二人のうら若き乙女が全裸で洗いっこする場面を想像してしまったのです。


「与太、何を考えているんだい。顔がにやついているじゃないか。なんならあたしがあんたの背中を流してやろうか」

「えっ、ええっ! い、いいんですかっ、才様っ!」


 突然の才姫の申し出に、熱湯で茹でられたタコのように顔を赤くする与太郎。才姫は鼻で笑いながら答えました。


「ふふっ、冗談だよ。あたしゃそんなに安くないからね」


 揶揄われたと知って更に顔を赤くする与太郎。しかしこれで先ほどまで意気消沈していた胸の内はすっかり明るくなりました。気持ち良く柚子の薬湯に浸かり、冬至の御馳走を楽しめそうです。


 風呂に入り始めたのはまだ明るいうちだったのですが、日暮れが早い冬至の日。全員が風呂から上がった時には既に薄暮が迫っていました。座敷の行燈に灯を入れて冬至の宴を始めます。


「へえ~、これが小豆粥かあ。初めて食べるよ」

「本来ならば冬至の朝にいただくものですが、それでは皆様と共に食べられませぬのでな。いつしか当家ではこうして夕食にいただく事となりました」

「みんなで食べた方が美味しゅうございますからね。与太郎様がこちらに来られたのがお昼過ぎで本当に良うございました」


 庄屋とその奥方も黒姫と一緒に膳を並べています。庄屋の出す食事ですから膳に並んでいるのは小豆粥だけではありません。焼き魚、根菜と海藻の煮付け、貝汁など、普段よりも豪勢な料理が供されているのです。


「う、美味い、美味いぞ、庄屋。最近、城では魚をほとんど食わせてくれぬからのう。刺身はおろか干物すらも出て来ぬのじゃ。このまま正月まで食えぬのかと思っておったが、これでまたしばらくは魚抜きの飯も辛抱できるわい」

「それはお気の毒でしたな。今宵は存分にご賞味くだされ」


 間渡矢丸の修理のために奥御殿の食費が削られているのは庄屋も知っていました。それを見越して本日の料理には海の物を多く取り揃えたのです。


 こうして冬至の夜は賑やかに過ぎていきました。食事が済むと庄屋と奥方は退出し、再び五人だけとなった恵姫たちは、お茶を飲みながらのお喋りに花を咲かせています。今夜の話題は言うまでもなく江戸への旅。今は船旅に関する与太郎の質問に答えているところです。


「姫の髪にそんな力があるなんて知らなかったよ。だからめぐ様たちは平気で船旅ができるんだね」


 以前、乗里と参勤交代について話をしていた時、この時代の船旅が如何に危険か教えてもらった与太郎。にもかかわらずどうして比寿家は船を使うのか、ずっと疑問に思っていたのです。


「ふっ、こちらに来るようになって十カ月以上経つというのに、姫の髪の力も知らぬとはのう。それでよく才の家来が務まるものじゃ」


 恵姫の髪によって船の航行が安全に行える事は雁四郎でさえ知らなかったのです。与太郎が知らないのは当たり前なのですが、そんな理屈が通用する恵姫ではないので、「えへへ」といつものように笑って誤魔化す与太郎でした。


「力を使う時は髪が光るもんね。重要な役割を果たしているんじゃないかなあって、前々から思っていたんだ」

「髪は姫の命じゃ。斎主様よりいただいた神器同様、大切にせねばならぬ」


 シャンプーの液をかけられた小魚が死んだ時、どうしてあれほどまでに怒ったのか、ようやく理解できた与太郎です。恵姫たちにしてみれば小魚が死ぬような毒で髪を洗うなど、以ての外の行為だったのです。


「ねえ、めぐ様の髪の力は分かったけど、他の姫様たちの髪はどんな力があるの。例えば黒様とか」

「えっ、あたしの髪!」


 お福と一緒に食後の柿を食べていた黒姫。話を振られて少々驚いています。


「あたしの髪はねえ、動物除けになるんだよ。髪の先に鈴を付けて帯にぶら下げておけば、どんなに山奥深く入って行っても、熊や狼に襲われたりしないんだ。凄いでしょ」

「なるほどおー。獣と心通じ合う黒様ならではの効果だなあ」

「まあ、獣に襲われぬだけで、蛇や虫には全く効き目がないのが玉に瑕じゃがな」

「もう、そんな悪口言わないでよ。だったらめぐちゃんの髪だって池や川に浮かんだ船には全然効き目ないでしょ」


 どうやら姫髪の力は広く浅くではなく狭く深くのようです。黒姫の髪について分かった与太郎、次の興味は当然の事ながらお福です。


「あ、じゃあ、お福さんの髪は鳥に襲われなくなるのかな」


 今度はお福が驚く番です。食べていた柿を持ったまま動きが止まりました。


「ほら、お福さんって雀の飛入助と仲良しでしょ。鳥と心を通じ合えるのがお福さんの力なのかなあと思って」


 お福は首を傾げています。恵姫も黒姫も何も言いません。分からないからです。お福は鳥と心が通じ合う、それは間違いありません。しかしお福の力はもっと別の大きな何かであって、その一部が鳥との心の通じ合いという形で表れているに過ぎないのではないか、二人ともそんな風に感じていたのです。


「えっと、あの、何かまずい事訊いちゃったかな……」


 誰も何も言わなくなった座敷。シャンプーの時と同じような気まずい雰囲気が漂い始めました。一人で静かに温め酒を飲んでいた才姫がまたも助け船です。


「そう考えておけばいいじゃないか、与太。お福の髪を腕にでも巻き付けときゃ、油揚げを食っていてもトンビにさらわれるような事はないだろうよ」

「そ、そうだよね。お福さんの髪も凄いよね」


 これ以上お福については話題にしない方が良さそうだと悟った与太郎、その視線を才姫に向けました。三人の髪について尋ねた以上、残る才姫を無視するわけにはいきません。


「それで、才様の髪は……」

「知りたいのかい。死に愛された姫であるあたしの髪。与太、一本やるから試しに首に巻いてみたらどうだい。何が起きるかあたしも見てみたいんだよ。まだ誰にも試した事はないんだからねえ」

「え、遠慮します!」


 行燈の光を猫の目のように反射させる才姫の瞳。魂を抜かれるが如き魅惑と危険を放つ瞳の輝きに、戦慄を感じながら両手を振って拒絶する与太郎ではありました。

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