乃東生その三 姫の力

 黒姫に頼まれて庭の池に向かった田吾作。しばらくして小皿が濡れるほどの水を張り、そこに小指ほどの大きさの小魚を寝かせて戻ってきました。小魚は小皿の上でピチピチ跳ねています。


「これでよろしいでしょうか、才姫様」

「ああ、いいよ。ご苦労だったね」


 縁側で小皿を受け取り座敷に戻った才姫。元通り座布団に座るとシャンプーの蓋を開けました。


「あ、あの、才様。何をする気なの」

「試すんだよ。この薬が人肌に害を及ぼさないなら、魚にだって害はないはずだろ」


 才姫の考えが分かった与太郎、慌てて止めます。


「ま、待って、そんな事しちゃ駄目だよ!」


 与太郎が制したところで素直にやめる才姫ではありません。容器を傾け、中の液体を小皿の上に注ぎます。


「むむ、こうして見ると色も不吉なほどに鮮やかじゃな。魚の様子はどうじゃ」


 小皿を覗き込む恵姫と才姫。黒姫とお福も二人の傍で成り行きを見守っています。液体を注がれた皿の上の小魚はしばらく体をくねらせていたものの、やがてその動きを止めました。才姫の瞳から淡い銀が消え、静かな声が漏れました。


「……死んだね。この液は毒だ」

「与太郎!」


 大声をあげて恵姫が与太郎に襲い掛かります。しかしこれまでに何度も同じ目に遭わされている与太郎、素早く身をかわして黒姫の背後に隠れました。殴り損ねた恵姫は仁王立ちになって吠え立てます。


「今度ばかりは愛想が尽きたわ。与太郎、まさかお主がわらわに毒を盛ろうとはな。これだけの事を仕出かした以上、無事に元の世に戻れるとは思うなよ」

「ご、誤解だよ。そもそもシャンプーを勝手に奪い取って、勝手に開けたのはめぐ様じゃないか」

「言い訳など聞きとうないわ。毒で髪を洗えと言ったのはお主であろう」

「だから、それはあくまでも髪を洗うもので、魚にかけたりするものじゃないんだよ。人だって目に入れたり飲んだりしたら大変な事になるんだから」

「大変な事になると知っていてわらわたちに使わせようとしたのか。語るに落ちるとはこの事じゃ。自ら己の悪事を白状するとはな。与太郎、そこへ直れ。成敗してくれる」

「黒様、助けて!」


 与太郎はそう叫ぶと黒姫の背中にしがみつきました。恵姫が帯に手を差し入れたからです。そこにあるのは神海水を入れた印籠。そんな物を使われたら命が幾つあっても助かりません。


「めぐちゃん、少し落ち着きなよ。確かに与太ちゃんが持ってきたのは魚も死んじゃうような毒かもしれないけど、薬ってのはほとんどがそんな物なんじゃないのかなあ。少しなら効き目があるけど沢山使ったら逆に害になったりするでしょ」

「ふむ、そう言われれば……」


 黒姫の話を聞いて恵姫の怒りの炎は少し弱まったようです。帯から手が引き抜かれました。黒姫の背後で与太郎が安堵の吐息を漏らします。


「与太、あんたさっき言ってたね。ほとんどの者がこれで髪を洗うって。洗った後、この液はどうするのさ」


 小魚を見詰めたまま、才姫が尋ねました。水に溶けた液に変化が起きないか観察しているようです。


「それは勿論、水で洗い流すんだよ」

「洗い流した水はどうなるのさ」

「それは下水へ行って、処理場へ行って、川に流して、最終的には海へ行くのかな」

「な、何じゃと。海へ行くじゃと!」


 叫ぶ恵姫。その右手が再び帯の中へ差し込まれました。慌てて黒姫の背中にしがみつく与太郎。


「それでは海の魚たちはどうなるのじゃ。この小皿の魚のように死んでしまうではないか」

「きちんと処理して流すから大丈夫だよ。それに薄まっているから魚には影響はないはずだよ」

「処理しようが薄まろうが毒には変わりあるまい。ああ、なんと嘆かわしい話じゃ。わらわの大切な海をこんな物で汚しておるのか。己が綺麗になりさえすれば、海が汚れ、魚が苦しんでもよいというのか。与太郎、お主の世の者たちはそれほどまでに我が身を綺麗にしたいのか。他のものがどれだけ汚れようと、我が身さえ美しくあればそれでよいのか」


 それは怒りではなく嘆きでした。自分を責める恵姫の言葉に与太郎は返す言葉がありませんでした。普段、何の考えもなく使っていた物、けれども恵姫たちから見れば、それはとんでもなく邪悪な物だったのです。そうして与太郎はまたも気付かされるのでした。


「そうか……そうだよね。どうして僕らの時空では姫が存在しないのか、何となく分かったような気がする。きっとめぐ様たちが僕らの時空に来ても姫の力は使えないよ」

「どういう意味じゃ、与太郎」

「姫の力は自然に愛される力。同じ海水でも桶に汲んでしまっては、もう力を及ぼせない。海から引き離した時点でそれは海水じゃなくなっているから。めぐ様はそう教えてくれたよね。僕らの時空の海はもう海じゃないんだ。排水、油、プラスチック、そんな物で汚されまくっているんだもの。海にこんな酷い仕打ちをした僕らを海が愛してくれるはずがないんだ。姫の力を与えてくれるはずがないんだよ」


 与太郎は布袋からティッシュを取り出すと、小皿の上に垂らしたシャンプーの液を拭い取り始めました。


「僕らが愛されていないのは海だけじゃない。毘沙様は地から愛されている姫。だけど僕らは化学肥料で農地を痛めつけ、アスファルトで道を覆い、山を削って多くの資源を奪い取った。そんな僕らの時空では毘沙様だって地から力を貰えないはず。黒様だってそうだ。食べるために多くの獣を飼い、森の木を倒して住処を奪い、狼も朱鷺ときも絶滅させてしまった。そんな僕らの時空では黒様も力を使えないはず。絶えず車から吐き出される排ガス、二酸化炭素、工場の煙突からまき散らされる粉塵、そんな大気が布様を愛してくれるはずがない。そして小説やアニメで簡単に人を殺し、死んでも転生するような物語を楽しみ、命を軽んじる僕らの時空では死すらも才様を愛する事はないはず。僕らの時空に姫の力を持つ者が居ないのは当然なんだよ」


 与太郎は何枚もティッシュを使って小皿の液を拭い取ると、透明の袋に入れました。


「これは僕の時空に持って帰るよ。ここに残してはおけないからね。それからその容器も。才様、返してください」


 与太郎に言われてシャンプーの容器を返す才姫。受け取った与太郎はティッシュの袋と共に布袋に仕舞い、その口をしっかりと閉じました。まるで魔物を封印するかのように。

 賑やかだった座敷はすっかり静かになってしまいました。与太郎も布袋を抱えたまましょんぼりと座っています。才姫はちょっと責任を感じたのか与太郎の肩を叩きました。


「悪かったね。あたしが変な事をしたばっかりに、あんたを煩わせちまったみたいだね。だけどそれほど気に病む事はないよ。これは与太の時空だけの話じゃないさ。あたしたちのこの世でも似たような事は起こっている」

「むしゃむしゃ。わらわたちが自然から嫌われるような事をしているとでも言うのか、才、むしゃむしゃ」


 いつの間にか恵姫はどっかりと座布団に尻をおろして、鯛焼きをやけ食いしています。立腹を満腹で静めようとしているのです。


「聞いた事があるんだよ。姫の力は昔の方が格段に強かったってね。磯島の蛍騒動でも、蛍姫の神器と剣を交えた毘沙は苦戦したんだろう。あたしたちだって随分と自然に無礼を働いているんじゃないのかい。身を粧うのに肌に塗る白粉おしろい。あれは人に害があると言われている、それでも使っている。与太の髪洗い液と同じさね。新田開発で沼や干潟を埋めたり、手慰みで獣を殺したり……与太たちがやっている事とさほど変わりはしないのさ。そう思わないかい、恵」

「う~む、そう言われてみれば、その通りかもしれぬのう、むしゃ」


 鯛焼きを食べながら才姫の話を聞いているうちに、恵姫の怒りと嘆きも随分と落ち着いてきたようです。

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