橘始黄その二 漂着

 ――ドドーン!


 その日の朝は大音響と間渡矢丸の大きな揺れで始まりました。船倉で眠っていた雁四郎はただならぬ事態に気付き、すぐに目を覚ましました。


「な、何事!」


 急いで身支度を整え甲板に上がる雁四郎。自分を取り囲む風景を目にして言葉を失いました。


「こ、ここは、どこでござるか……」


 浜でした。間渡矢丸は見知らぬ浜に打ち上げられていたのです。


「雁四郎様、何が起こったのですか」


 お浪とお弱がようやく黒鯛の間から出てきました。男勝りの海女とはいっても二人とも女。身支度には時間がかかるのです。


「拙者にも分からぬ。分かるのはここは島羽の港ではないという事だけだ」


 周囲を見回しても全く見覚えのない光景です。遠くには浜に上げられている漁船が見えるので、どこかの漁村かもしれません。


「もう島羽に着いたのかい……って、ここはどこさ」

「……!」


 才姫とお福も出てきました。船の周りに広がる景色を見てさすがに驚きを隠せないようです。雁四郎は為す術もなくしばし呆然と佇んでいましたが、ふと何かに気付いたように才姫に尋ねました。


「そうだ、姫様……恵姫様は何をしているのですか」

「ああ、恵はまだ寝てるよ。昨晩は遅くまで騒いでいたからねえ。あの音と揺れでも起きないんだから、相当図太いね」

「お浪、お弱、すぐに恵姫様を起こしてきてくれぬか」


 才姫では本気で起こしてくれそうにないと思った雁四郎。二人の海女に頼みます。頼まれた二人は二つ返事で引き受けると黒鯛の間へ入っていきました。しばらく待っていると、恵姫を連れて外に出てきました。


「ふあ~、何じゃ無理に起こしおって。船で迎える最後の朝くらいゆっくり寝かせ……おい、どうなっておるのじゃ。ここはどこじゃ。何故船が浜に打ち上がっておるのじゃ」

「それを訊きたいのはこちらの方でございますよ、恵姫様」


 雁四郎はまだ半分眠っている恵姫に顔を近付けると、一気にまくしたてました。


「この船は恵姫様の意思を反映して動く、そう仰られましたね。つまり船がこの浜に打ち上がったのは恵姫がそう命じられたから、と考えざるを得ません。昨晩は何も考えず、伊瀬の海に船を浮かべたままにしておいてくだされとお頼みしたにもかかわらず、船は動いてこの浜までやって来たのです。一体、頭の中で何を考えていたのですか。こんな砂浜に鯨でも居ると仰りたいのですか」


 雁四郎は怒っています。無理もありません。ここまで順調に船を進めてきたのに、最後の最後でこの大失態。明日には島羽の港に着くという昨日の油断が、こんな事態を招いてしまったのでした。百里を行く者は九十九里を半ばとせよ、この格言がこれほどまでに身に沁みた事はありませんでした。


「鯨か。いくら何でもここに鯨は居らぬであろう」

「では何を考えていたのです。昨晩はどんな夢を見ていたのです」

「う~む、何じゃったかのう……」


 雁四郎に詰問されて困り顔の恵姫。いきなり夢を思い出せと言われても、そう簡単に思い出せるものではありません。


「ああ、そうじゃ。毘沙がなにやら話しておったのう」

「毘沙姫様が……ではここは毘沙姫様の生国、伊瀬の桑名なのでしょうか」

「う~む、いや、そうとは限らぬ。夢の中には黒も居ったような気がするからのう」

「黒姫様が……では我らは間渡矢に戻ってきたのでしょうか」

「ああ、それからお福も居ったな。黙って毘沙の言葉に耳を傾けておったわい」

「お福様なら船に乗っているではないですか。何故浜に打ち上がらなければいけないのです。これでは訳が分かりませぬ!」

「まったくじゃのう。夢とは実に奇妙なものじゃ。はっはっは」


 こんな事態を招いた張本人の癖に反省の色は露ほどもありません。雁四郎の怒りは爆発寸前です。


「はっはっは、ではありません。どうされるのですか。陸に上がった船を海に戻すなど、容易くできる事ではありますまい」

「雁、そうカッカするんじゃないよ。船を海に戻すくらい簡単な事さね」


 才姫はいつの間に用意したのか、湯呑に入れた温め酒を飲んでいます。朝は冷えるので酒で体を温めているのでしょう。


「何か良い方法があるのですか、才姫様」

「恵は海水を自由に扱える。だったらこの浜を海水で満たせばいいのさ。そうすれば船は浮いて簡単に沖まで戻れる、そうじゃないのかい」

「なるほど。その手がありましたか」


 雁四郎は自分の短慮を反省するとともに恥ずかしくなってしまいました。才姫に言われるまでもなく、そんな事は少し考えれば分かったはずだからです。


「ならば恵姫様、お願い致します」

「仕方がないのう。雁四郎がそこまで言うのなら、わらわの力を使ってやらぬもでないが……」


 ここで恵姫の表情が変わりました。お馴染みの悪人面になっています。


「やらぬでもないが……何なのですか?」

「船を浮かすほどに浜を海水で満たすとなると、使う力もかなり大きくなる。それだけの力を何の褒美も無しに使えと言われてものう」


 報酬をおねだりしているのです。何という厚かましさ。そもそもこんな事態を引き起こしたのは恵姫が変な夢を見たせいです。自分の不始末を自分で片付けるのは当然の事。それなのに報酬をねだるとは……


「……何をご所望なのですか」


 雁四郎は堪えました。ここは恵姫の力を借りる以外に手がないからです。ほくそ笑む恵姫。標的は雁四郎の懐にある松茸を売った銭。これを自分のために使わせれば目的達成です。


「そうじゃのう。伊瀬に着いたらわらわの望む物を買ってもらおうかのう。ほれ、姫札が効かぬ店があるじゃろう。土産物屋とか書物屋などは己の財布から銭を払わねばならぬ。それをじゃな、雁四郎が立て替えてくれると言うのなら、この窮地から救ってやってもよいぞ、んっ、どうじゃ。悪くない話であろう」


 此度のお役目のご褒美として自分のために使おうと昨晩心に決めた銭。それが一日も経たずに恵姫に巻き上げられる事になろうとは、余りにも無慈悲な運命の悪戯。しかしそれ以外に道がないのですから四の五の言っても仕方がありません。


「分かりました。その条件を飲みましょう。すぐにでも船を海に戻していただきとうございます」


 恵姫はにんまり顔で頷くと船尾へ向かいました。大海を前にして手を広げると髪が扇形に広がります。そして力を使うために声を出そうとした時、


「雁四郎様、恵姫様、大変でございます!」


 下の方からお弱の声が聞こえてきました。知らぬ間に掛け梯子を使って、砂浜に降りていたのです。


「どうした、お弱、何かあったか」

「これをご覧くださいまし」


 お弱は右船首の下方に立っています。その部分に何か不都合が生じているようです。雁四郎を始めとして船に残っていた全員が浜に降りました。そうして船首に近付くと、


「こ、これは……」


 お弱の言葉通り大変な事が起きていました。右舷外板に亀裂が走っていたのです。海の方を振り返ると右側に大きな礒岩があります。恐らく間渡矢丸は船体の右側をその岩に衝突させ、右舷を擦りながらこの浜に打ち上げられたのでしょう。


「なるほど。寝ていた時に聞こえた大きな音と揺れはあの岩にぶつかって起きたのじゃな。眠りを覚ますほどではなかったのが不幸中の幸いであったのう」


 恵姫は呑気な顔で話していますが、雁四郎は顔面蒼白です。この亀裂に気付かず浜を海水で満たしていたら、船内に水が入り込み、完全に航行不能になっていたはずなのですから。


「この亀裂を塞ぐまでは浜を海水で満たせぬのう。お弱、お浪、船の修理を頼んだぞ」

「いえ、残念ながらここまで大きな損傷となりますと、私たちの手には負えません。船大工に頼むしかないかと思われます」

「あ、ああ……何という事だ。恵姫様、才姫様の言葉に惑わされ、大切な銭を己の褒美にしようと目論んだこの身に天罰が下されたに違いない。雁四郎、一生の不覚!」


 申し訳なさそうに答える二人を見て、膝からがっくりと砂浜に崩れ落ちる雁四郎。余りにも哀れな姿に声を掛けるのすら憚られます。

 さすがの恵姫もほんの少し責任を感じ、何か良い励ましの言葉はないかと浜をキョロキョロと見回しました。


「おお、あれは橘ではないか。これは目出度い!」


 皆、一斉にそちらを見ると、色付き始めた実をたわわに付けた橘の木が一本立っています。雁四郎が力なくつぶやきました。


「あの木の何が目出度いと仰るのですか」

「橘は非時香菓ときじくのかぐのこのみと言われ、常世の国に生えておると言われる霊薬ぞ。してみるとわらわたちがたどり着いたこの浜は、海の彼方にあると言われる理想郷、常世とこよの国に違いない。実に目出度いではないか」


 一人で盛り上がっている恵姫ですが、他の五人は白々とした目をしています。


「常世の国ならば漁船など必要ありますまい。それに太古の昔ならいざ知らず、今は橘などどこにでも生えておりましょう。もう少し現実に目を向けてくだされ」


 励ましたつもりが逆に説教され、一気に気分が盛り下がる恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る