第五十七話 きんせんか さく

金盞香その一 斎主午餐会

 江戸城で激しい火花を散らし合った姫衆と公儀の対決。最後には斎主の登場という劇的な幕切れとなったあの激動の日から、今日でもう八日が経っていました。


「あ~、暇じゃのう」


 比寿家上屋敷奥御殿の座敷では、今日も恵姫がゴロゴロしています。江戸でのお役目を全て済ませ、いつでも間渡矢に帰れるのに、恵姫たちはまだここに留まっているのです。


「さすがに江戸暮らしも飽きてきたわい。屋敷に籠もりっ切りで海を見ておらぬからのう。体も心も潮風を恋しがっておるわ」


 間渡矢では天気の悪い日を除き、毎日釣りをしに海へ行っていたのです。江戸暮らしも悪くないのですが、それ以上に海への郷愁が日増しに強くなっているのでした。

 いつものように文机の前に座って書を読んでいる才姫。先ほどから聞かされている恵姫の愚痴に飽きたのか、書を読みながら応じます。


「だったら与太なんか待たずに帰りゃいいんじゃないのかい。直接殿様を診たところで、必ず治せるとは限らないんだしさ」


 恵姫たちがまだ江戸に居る理由、それは与太郎でした。本来なら謁見が終わった後、恵姫たちと一緒に上屋敷へ戻り、床に就いたままの殿様を診るはずだったのです。それが吉保の余計な言い掛かりによって、大広間の中であちらへ戻ってしまったため、殿様の診察はできず仕舞いになっていたのでした。


「うむ、間抜けの与太郎に父上の診察など無理な相談じゃと思いはするが、江戸煩いという言葉は知っていたであろう。あちらの世で治し方を覚えてきてくれるのではないかと、それを期待しておるのじゃ」


 与太郎自身の医術の知識は間渡矢の町医者よりも貧弱ですが、与太郎の時代の医術の知識はこの時代とは比較にならないほど進んでいるのです。間渡矢に帰るのを遅らせても待つ価値はあるはずです。


「与太か。それにしてもあの謁見は驚きの連続だったねえ」


 才姫は書から顔を上げると、ほんのりと明るい縁側の障子に目を遣りました。そうして二人は八日前の出来事を思い出すのです。


 * * *


 江戸城での謁見を終えた恵姫一行は、朝弁当を届けに来たまま大手門の前で待機していた左右衛門たち供の者に付き添われて、一旦、全員が比寿家の上屋敷へ戻る事となりました。江戸城で眠れぬ一夜を過ごした上に、斎主によって大業を使わされ、すっかり疲れてしまった禄姫、寿姫が、姫屋敷へ戻る前に少し休みたいと希望したからです。


 七人が詰め掛けた奥御殿の恵姫の部屋は、二間の座敷が小さく見えるほど大賑わいでした。折しも到着したのは午の刻前。こうなっては昼食を出さないわけにはいきません。

 しかも将軍よりも官位が高い伊瀬の斎主が来ているのです。普段通りの一汁一菜で持て成したのでは比寿家の体面にかかわります。左右衛門の顔が青ざめました。


「昨晩と今朝の弁当、城坊主への謝礼、それに加えて本日の昼まで用意せねばならぬとは何たる災難であろうか。こ、このままでは今月の賄いの銭が……ええい、与太郎召喚のお役目が無事済んだのだ。これで恵姫様たちも江戸に戻られる。こうなったら自腹を切って祝いの昼飯と参ろうぞ!」


 根が陽気なだけあって後は野となれ山となれとばかりに、左右衛門は豪勢な昼食を用意しました。大喜びの恵姫、いつもとは違ってお行儀よく食事を口に運びながら、


「これはまたいつになく贅沢なお昼ですこと。左右衛門を褒めてやらなくてはいけませんね。ほほほ」


 などと、猫被りここに極まれりな言葉を発しています。それもこれもこれまでは姿も顔も拝めなかった伊瀬の斎主が、今はもう被衣で頭を覆い隠そうともせず、素顔を晒して座敷の上座から一同を見回しているからです。二月に斎主宮を訪れた時、「随分娘らしくなりましたね」と褒められた手前、ここは淑やかに振る舞わないわけにいかないのです。


「恵、今更猫を被っても手遅れだよ。姫屋敷での大食いと、湯呑を踏んづけて転んじまったのを忘れたのかい」

「あ、あれは禄と寿を喜ばせるために、不本意ながらお芝居を演じたのでございますわ、ほほほ」


 才姫に指摘されてもしぶとく猫を被り続ける恵姫。こうなるともう放っておくしかありません。


 こうして左右衛門涙の自腹切り昼食会は滞りなく進んでいき、膳の上の御馳走も綺麗に片付いた頃、斎主が皆に労いの言葉を掛けました。


「皆様、此度はご苦労さまでした。本来伊瀬の斎主宮を離れてはならない私がこうして江戸へ参りましたのは、姫衆同士を争わせ潰そうとする公儀の企みが許せなかったからです。皆様の尽力によってその野望は潰え、綱吉公は姫衆と手を組んでくださると約束されました。申し分のない結末を迎える事ができ、大変満足しております。ありがとうございました」


 そう言い終えた斎主は、小さくではあるものの皆に向かって頭を下げました。これには恵姫たちもさすがに畏れ多いと感じたのか、一同揃って両手をつき平伏します。その姿に斎主は目を細め、更に話を続けます。


「けれども本当の試練はこれからです。あの禍々しいほうき星を消さぬ限り、この地を覆う厄災と姫の力の減衰を消滅させる事はできません。三百年に一度巡って来る大難の時に、図らずも姫となった私たち。その宿命を甘んじて引き受け、この難局を乗り切って参りましょう」


 力強い斎主の言葉を受け、盛大な拍手で答える恵姫たち六人。場が盛り上がったところで、斎主の一番近くに居た布姫がやや遠慮がちに言いました。


「斎主様、お福様をどのようにお考えですか。与太郎様を引き寄せ、さらに留める力。飛入助という神器を育てた力。一人前の姫と比べても遜色ない素質と思われます」


 自分を話題に出され、一瞬たじろぐお福。しかしそれ以外の者は皆、頷いています。むしろこれまでお福が姫として認められていなかった事が不思議なくらいです。


「そうですね……お福、私はまだ飛入助を見ていません。ここに呼んでくれませんか」


 斎主に言われて立ち上がったお福は、縁側の障子を開けて高い呼び声を出しました。ほどなく飛入助がやって来てお福の肩に止まります。それを手の平に乗せ、恭しく斎主に差し出すお福。


「これが飛入助ですか。黒姫の次郎吉もよく出来た神器でしたが、この雀もまた主の意思をよく反映していますね。ただ、これはお福だけが育てたのではありませんね。半分は恵姫の意思が混ざっています。そうでしょう」


 斎主に「そうでしょう」と問われれば正直に「そうです」と答えるしかありません。それでもお福の有利になるような答え方はないものかと思案しつつ、恵姫は返答します。


「はい。飛入助は私とお福の二人で、雛の頃より面倒を見て参りました。されど私の意思を受け継いだ飛入助の特徴と言えば、誰にでも好かれる愛らしい姿とか、飛び方をすぐに覚える聡明さとか、呼べば直ちに飛んで来る素直な性格であって、それは他の雀と大した違いはありません。飛入助の一番の特質である図体と態度のでかさ、大食い、鷹にも歯向かう無謀さは全てお福の意思によるものでございます。従って飛入助はお福一人で育てたと考えて間違いないものと思われまする」

「ぶっ!」


 才姫は耐え切れずに吹き出してしまいました。恵姫の言っている事は完全に逆。これでは飛入助は恵姫が育てたと言っているようなものです。


「ピーピー!」


 出鱈目な恵姫の言上を聞いて、飛入助も抗議の鳴き声を上げています。斎主の前でなければ飛んで行って恵姫の頭を突っついている事でしょう。


「そうですか、分かりました。お福の姫衆参入についてはほうき星の件が片付いた後、改めて吟味したいと思います。布姫、それでよろしいですね」

「はい。異存はございません」


 恭しく頭を下げる布姫。結論先送りになり胸を撫で下ろすお福。お福自身は姫衆のひとりになりたいとは思っていないようです。


「それでは皆様、私は左右衛門に話がありますのでこれにて失礼致します。禄姫、寿姫、満腹になって眠いのではないですか。姫屋敷へは昼寝をたっぷり取った後に帰ると致しましょう」


 斎主はそう言って座敷を出ていきました。その姿が見えなくなるや、


「やれやれ、これでやっと気が休まるわい」


 と、端座の足を崩して横になる恵姫ではありました。

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