菊花開その二 二人の説得

 何とか「松平家へ嫁入りの策」を恵姫に受け入れさせた寛右でしたが、それだけでは不十分です。公儀を説得するためには嫁入りの先にある比寿家断絶も受け入れさせる必要があります。寛右がどう話を切り出そうか迷っていると、逆に才姫が問い掛けてきました。


「ところでさ、寛右。恵が嫁に行っちまったら、比寿家はどうするんだい。後継ぎが居ないじゃないか」


 寛右にとっては渡りに船。これ幸いとばかりに話します。


「与太郎殿も申されておりました通り、徳川の世が終わる頃には比寿家は絶えております。その事実を知った以上、その最期を看取るのは我らの役目ではないか、厳左殿共々そのような結論に達し、今の殿の代にて比寿家は終わらせるつもりにてございます」

「な、何じゃと! 比寿家を終わらせるじゃと!」


 勢いよく立ち上がる恵姫。顔は紅潮し、拳は固く握り締められ、両肩はわなわなと震えています。


「寛右、そなた正気か。どこの世に自ら進んで家を断とうとする武家がおるのじゃ。しかも比寿家は曲がりなりにも大名ぞ。そのような恥ずかしい真似ができようか」

「公儀がそれを望んでいるのです。我ら自らが断絶せずとも、いずれ難癖を付けて改易されるのは目に見えております」

「改易など比寿家だけでなくどこの大名にも起こり得る。そんな心配をしておったら夜も満足に眠れぬわ。改易したければすればよいのじゃ。比寿家の行く末はその時になってから考えれば良かろう」

「その時になってからでは遅いのです。今ならば松平様が我らの領地を引き継ぎ、比寿家の家臣を全て引き取るという内密ができております。将来比寿家が改易された時、松平様がまだ島羽の領主のままであるとは限りません。もし他の地へ転封されていれば、比寿家の家臣を引き取ることもできなくなりましょう。そうなっては全てが手遅れです」

「誰が何と言おうとわらわは嫌じゃ。寛右、比寿家を終わらせるような策、わらわは絶対に受け入れぬぞ」


 恵姫は座布団にどっかと座り込むと、腕組みをして外方そっぽを向いてしまいました。秋空と男心は七度変わると言いますが、それは女心でも同じ事。先ほどまで日本晴れだった恵姫の心の空は、今はもう大嵐になって雷鳴さえ轟いているようです。


「恵、じゃあ、あんたが嫁に行った後、比寿家にはどうなって欲しいんだい。何もしなかったら嫌でも断絶しちまうじゃないか」


 才姫にこう訊かれた恵姫。途端にしかめっ面が緩み、締まりのない表情になりました。明らかに機嫌が良くなっています。女心と猫の目と言いますが、恵姫の心も猫の瞳孔の如く、太くなったり細くなったりしているようです。


「比寿家の行く末など、わらわに子ができれば何の問題もない。おのこが生まれれば父上の養子にすればよいのじゃ。我が子でありながら我が弟となり世継ぎとなる。そうなれば比寿家も安泰じゃ。そうじゃな、一人では心配なので五人、いや十人くらい産むとするか。おのこは全員比寿家の養子にするのじゃ。松平家など滅びても構わぬからな」

「なるほど、そりゃいいね。逆に松平家が途絶えて、比寿家が志麻一国の領主になるんじゃないのかい、ははは」

「才、わらわの企みを口にするでない。乗里の耳に入ったら気を悪くするであろう、あははは」


 二人はすっかり盛り上がっています。寛右は頭を抱えました。もはや公儀の説得の話などしている場合ではありません。恵姫の危険な野望を何とかしないと嫁入り前に改易されそうです。


「何やら随分と賑やかな御様子ですな」


 そう言いながら客間に入って来たのは家老の友乗です。まるで地獄で仏に出会ったような顔になる寛右。


「おお、友乗殿。今、例の策を恵姫様に申し上げていたのですが、なかなか首を縦に振っていただけず、はてさて如何したものかと頭を悩ませておったところです」


 友乗は寛右の横に座ると恵姫に向かいました。実は友乗は襖の陰で恵姫たちの会話をこっそり盗み聞きしていたのです。窮地に陥った寛右を見るに見兼ねて、客間に入って来たのでした。


「んっ、友乗か。わざわざ間渡矢港まで船を回し、砲弾を撃ち込んでくれた事、感謝しておるぞ。ああそうじゃ。二月の雨続きの折、屋敷に泊めてくれた礼も言っておかねばな。毎日夕食には魚を欠かさず出してくれたそなたの親切、よだれが出るほど嬉しかったぞ。今度泊まった時も食わせてくれ。乗里は良き家臣を持ったな。あの腰痛持ち城主には勿体無い忠臣じゃ」


 礼を言っているのか、魚が食べたいのか、乗里を馬鹿にしているのかよく分からない戯言を右から左に聞き流した友乗は、恭しく頭を下げた後、自分の話を始めます。


「有難きお言葉をいただき、身が引き締まる思いでございます。ところで恵姫様、嘘も方便という諺がございます。嫁入り後の比寿家断絶についてですが、これはあくまでも公儀に手を引かせるための方便。本気にされずともよいのです。少なくとも恵姫様のお父上様がお元気なうちは、『比寿家の行く末は只今殿が思案中』などと申して、放って置かれればよいのです。やがて将軍や老中などが代替わり致しますれば、公儀も考えを改めるかもしれませぬ」


 これは勿論友乗の本意ではありません。それこそ恵姫を説き伏せるための方便に過ぎません。仮に恵姫自身の口から比寿家存続を匂わせるような言葉が出れば、公儀は態度を変えようとはしなくなるでしょう。断絶も存続も曖昧にした物言い、少なくともこれが恵姫に求める最低条件なのです。


「なるほどのう。所謂、結論先送りとか申す手であるな。友乗、そなた、正直者じゃと思っておったが、さすがは大給松平家の家老を務めるだけの事はある。なかなかに世渡り上手ではないか。よし、分かった。比寿家の行く末は父が決めるゆえ、わらわには分からぬと答えようぞ」


 どうやら納得してくれたようです。ほっと安堵の寛右。満足顔の友乗。これで恵姫たちを島羽から送り出せます。


「それでは直ちに江戸へお発ちください。御座船は間渡矢にて全ての準備を済ませておりますれば、今日にでも出港が可能です」

「いいや、すぐには発たぬ。わらわはしばらく島羽に留まるぞ」

「は?」


 寛右の安堵はたちまちのうちに不安へと変わってしまいました。当初の出港予定より六日も遅れているのは恵姫も分かっているはず。これ以上遅らせるわけにはいかないのに何故……寛右はおずおずと恵姫に尋ねました。


「恵姫様、島羽に留まりたい理由をお聞かせくださりませぬか」

「わらわは城主の嫁である。正室である。そして今、この城に城主は居らぬ。つまり今、この城で一番偉いのはわらわである。幼き頃より島羽城を手中に収めんと、わらわは辛酸努力の日々を過ごしてきた。その夢が遂に叶ったのじゃ。しばらくは城主気分を満喫したとて罰は当たらぬじゃろう。今日よりわらわはこの客間を出て、乗里がいつも使っておる本丸御殿奥座敷で過ごす事にする。島羽を発つのは、そうじゃな、十三夜の月見をした後にしようぞ。ほれ、中秋の名月を楽しんだのなら、翌月の十三夜も楽しまねば片月見と言って縁起が悪いであろう。十五夜は志麻の国で見たのであるから、十三夜も志麻の国で見なければならぬ。よって江戸へ発つのは十四日じゃ。分かったな、友乗、寛右」

「仰せの通りに、恵姫様」

「友乗殿がそう申されるのなら……」


 またも頭を抱える寛右。恵姫が無事に江戸へ発つのを見届けてから間渡矢に戻ってくるようにと厳左から言われているのです。従って十四日までは自分も島羽に留まらなければなりません。これでまた松平家に迷惑を掛ける事になってしまう……恵姫が江戸に発つまでは気が休まりそうにない寛右ではありました。

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