鴻雁来その五 重陽の宴

 島羽城本丸御殿大広間には松平家の主だった家臣一同が勢揃いしていました。上座には城主の乗里。その近くには家老友乗。そして客の与太郎、厳左、才姫。間渡矢の関係者はこの三名だけです。


「磯島様が見えられぬとは誠に残念。まだお加減が悪いのですかな」

「いや、体はすっかり良くなっておるが、左手が使えぬのでな。無作法な食事姿を見せたくないのであろう」


 友乗の問い掛けに申し訳なさそうに答える厳左。与太郎の血のおかげで驚異的な怪我の回復を見せた磯島でしたが、まだ痛みは残っていて、椀を持つ事もままならないのでした。体面を気にする磯島としては見苦しい姿を人前に晒したくはなかったのです。


「うわ~、やっぱり島羽城は大きいし人も多いねえ。間渡矢の表御殿とは比べものにならないや」


 三の丸庭園と同じようにキョロキョロしながら、これまた同じような台詞を吐く与太郎。厳左に対して大変失礼な言葉なのですが、そんな事に頓着する性格ではありません。友乗は厳左の顔色を窺いながら苦笑しています。


「それじゃ、重陽の節供の祝いを始めようかな。これは明日江戸へ発つ僕の送別の宴も兼ねているからね。みんな、賑やかに楽しんでね。乾杯!」


 領主とは思えぬ気さくな言葉で宴の開始を告げる乗里。家老の友乗の苦笑が収まりません。

 乾杯の声と共に宴は賑やかに始まりました。与太郎と厳左は菊の花びらを浮かべた甘酒、才姫は普通の酒をいただきます。


「へえ~、ぬくめ酒かい。これを飲むと秋の終わりを感じるね」

「重陽の節供に温め酒を飲めば病に罹らぬと申します。菊には長寿の薬効もありますれば、菊酒は大変縁起の良いものでございます」

「無病と長寿かい、そりゃ困るね。医者が商売にならないじゃないか」


 そう言いながら二杯目を飲む才姫。友乗の苦笑はますます深みを増していきます。まるで磯島の恵皺を見ているかのようです。


「みんなー、ここで良いお知らせだよー。三百年先の世まで見通せる与太郎君の千里眼が、凄い事実を僕に教えてくれたよ。なんと、この松平乗里様は出世に出世を重ね、ゆくゆくは徳川家の老中首座になるんだってさあー!」


 大広間に沸き起こる歓声と拍手。家臣たちが本気にしているかどうかは分かりませんが、とにかく目出度い事には違いありません。皆の拍手を受けて満更でもない顔の乗里はすっかりいい気分になったようです。膳の上の料理を突っついている与太郎に呼び掛けました。


「ねえ、与太郎君、老中になるとかそんな先の事じゃなくてさあ、近いうちに僕に何が起こるか教えてくれないかなあ。できれば腹の底から笑えるような面白い奴」

「えっ、うぐっ!」


 突然の申し出に食事を喉に詰まらす与太郎。恵姫も酷い無茶振りをしますが、乗里の振り方も負けず劣らずかなり無茶です。


「えっと、何かあったかなあ……」


 それでも真面目に考えるのが与太郎の数少ない取り柄のひとつ。最近は図書館で江戸時代の本を読み漁っているので、初めてこちらに来た時よりも知識は豊富になっています。


「そうだ、あの事件があったじゃないか。乗邑さんが江戸に居る時にね、江戸城松の廊下で刃傷事件が起きるんだよ。吉良さんって人が赤穂の浅野さんって人に斬られてね、それを聞いた乗邑さんが、動揺する大名たちに向かって『慌てず座に着いていればよい』って言ったとか言わなかったとか」


 大広間が水を打ったように静まり返りました。松の廊下は将軍の謁見場所である江戸城本丸白書院へ通じる廊下、つまりは殿中。そこで抜刀すればそれだけで切腹は免れないものを、人に斬り付けたとなれば前代未聞の大事件。如何に与太郎の言葉とはいえ、到底信じられるものではない、いや、口に出すのさえ憚れる内容の話だったのです。


 多少の事には動じない乗里も、さすがに言葉を失っていました。しかしそこは持ち前のお気楽な性格。すぐにいつもの調子を取り戻します。


「いや~、驚かせてくれるね、与太郎君。それって本当の話なのかな。作り話にしてもちょっと嘘臭くてさあ。ここに居る人たち、誰も信じていないよ。いつ頃の出来事なのかな」

「あ、元禄の頃の事件ですよ。確か旧暦では元禄十四年の三月、だったかな」


 再び静まり返る大広間。と、突然、笑い声が沸き起こりました。松平家の家臣も厳左も才姫も友乗もそして乗里も、みんな涙を流さんばかりに笑っています。与太郎は何が起こったのか分からず、唖然とした顔でつぶやきました。


「あ、あの、みなさん、何が可笑しいのですか」

「与太郎殿、今年がその元禄十四年なのですよ」


 友乗が穏やかな声で言いました。今度は与太郎が驚く番でした。


「嘘、そんな馬鹿な……」

「与太郎君、元禄十四年の三月はとっくに過ぎちゃったけど、殿中で刃傷沙汰なんて聞いた事もないよ。それに僕、江戸には居なかったしね。いやあ、楽しい作り話をありがとう」


 ご満悦の乗里、大広間も今まで通りすっかり和んだ雰囲気に戻りました。けれども与太郎だけは違います。珍しくしかめっ面をして料理に手も付けずに何やら考えています。


『勘違い? 記憶違い? ううん、そうじゃない。間違いなく元禄十四年の三月に起きたんだ。なのにこの世では起きていない事になっている。まさかお福さんが病気になったように、僕が来た事で歴史が変わったとか? でも三月じゃまだ五回くらいしか来ていないし、志麻と江戸じゃ地理的にもほとんど関係ないと言っていいはず。僕が原因とは思えない。じゃあ、どうして……』


 考え続ける与太郎。しかし理由は分かりません。手掛かりが少なすぎるのです。


『この時代についてもっと多くの事を知らなきゃいけないのかも。これまで余りにも無関心すぎたんだ。恵姫たちが江戸に到着して、僕も江戸に出現する事になったら色々調べてみよう』


 与太郎にしては珍しく向学心溢れる決心です。


「さあさあ、それではお待ちかね、鯛のお造りですよー!」


 乗里の言葉と共に、新たな膳が運ばれて来ました。これまで菊酒の他は栗飯、茄子田楽、菊花吸い物など精進料理ばかりが膳に並んでいたのですが、いきなり鯛の姿造りが出現したのです。


「うわー、これは凄いや」


 間渡矢でも鯛の刺身は食べていましたが、食べられる数には限りがありました。それなのに今日は一人に一匹ずつ割り当てられているのです。さっきまで与太郎の頭を占領していた松の廊下はどこかへ消え去り、今は完全に鯛の刺身に取って代わられていました。


「今日のためにせっせと鯛漁に励んで、生け簀で飼っていたんだ。みんな、じっくり味わってねー!」


 乗里に言われるまでもなく有難く賞味する与太郎。余りの美味しさに涙が出そうです。


「ああ~、今日は来て良かった」

「こっちじゃ、こっちに違いないのじゃ!」


 大広間の外から声が聞こえてきました。廊下をドタドタ走る音も聞こえます。


「恵姫様、そちらは大広間ですぞ。おやめください」

「喧しいわ、雁四郎。この大広間から鯛の気配がするのじゃ」


 ガラリと襖が開きました。現れたのは恵姫。仁王立ちになって乗里を睨み付けます。


「おや、間渡矢の暴れ鯛、恵姫じゃないか。気分が優れず床を離れられないので、今日の重陽の宴には出ないと聞いていたんだけどね。どんな風の吹き回し?」

「このお飾り城主め、何をしらばっくれておるのじゃ。わらわの元気が出ぬのは魚を食わせてくれぬからじゃ。毎日毎日、体に良いからと、とろろ汁だの、猪肉ししにくだの、鶏卵だの食わせおって。ここに来てから魚を一度も口にしておらぬのじゃぞ。元気になれるわけがなかろう。ややっ、与太郎ではないか。此奴、わらわに黙って鯛の刺身など食いおって」


 恵姫はズカズカと大広間に入り込むと与太郎の横に腰を下ろし、箸を奪って鯛を食べ始めました。


「もぐもぐ、先ほど突然、鯛の気配を感じてのう、むにゅむにゅ、それも一匹や二匹ではない、数十匹の鯛の気配じゃ。もきゅもきゅ、これは何かあるに違いないと寝床を抜け出し、駆け参じれば思った通りじゃ。ぱくぱく、ああ、美味い美味い、数日ぶりの鯛の味は格別じゃわい、もっきゅん」

「ちょっと誰か、あと三膳、鯛のお造り持って来てあげて」


 乗里が三膳と言ったのは恵姫に三匹食べさせるためではありません。恵姫を追って雁四郎とお福も大広間にやって来たからです。


「北から雁が戻って来たと思ったら、恵姫まで戻って来ちゃったよ。まあ、でもこれで僕も何の気兼ねもなく江戸に発てるよね」


 乗里はご機嫌です。相手が元気なればこそ喧嘩のし甲斐もあろうと言うもの。これで思う存分恵姫に悪口を叩き込めます。


「厳左、これだけ元気なら恵はいつでも江戸に発てるよ。明日にでも寛右を乗せて御座船を島羽に寄越しな」

「うむ、心得た。松平家嫁入りの件、寛右殿がうまく話を付けてくれるとよいのだが……」

「これでわらわも元通りじゃ。明日から魚を食いまくるぞ。はっはっは」


 厳左と才姫の会話など全く耳に入らぬ様子で、久しぶりの鯛を味わう恵姫ではありました。

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