鴻雁来その三 二人の合意

 ようやく厳左に理解してもらえた友乗は、座布団に座り直して居住まいを正すと、穏やかに諭すような口調で話しました。


「恵姫様を城主に据える、これは比寿家の家臣たちにとって最も切望する世継ぎのあり方でしょう。けれども考えてみられませ、厳左殿。恵姫様の次の代は如何なされるおつもりか。婿養子が取れぬとなれば、恵姫様自身が養子を取って、次の領主とせねばならぬでしょう。そうなれば、そこで比寿家の血筋は絶えます。恵姫様のお子を領主にという家臣の夢も潰えましょう。しかし松平家の正室となり世継ぎをお産みになれば、恵姫様のお子が次期領主となり、今の家臣たちもその領主にお仕えする事ができるのです。たとえ比寿家は断絶しようとも、恵姫様に、そして恵姫様のお子にお仕えする事ができるのです。間渡矢の家臣たちにとって、これ以上に望ましい解決策がありましょうか」


 友乗の話を聞く厳左の心に湧き上がるのは、自分の未熟さを恥じる気持ちと後悔の念ばかりでした。愚策を講じようとしたのは寛右ではなく自分自身だったのです。しかもその愚策が公儀の怒りを買い、先日の間渡矢の危機を招いたのです。

 此度の件を引き起こした張本人は紛れもなく厳左本人。それなのに寛右も友乗もそれを責めようとせず、温かい手を差し伸べようとしてくれているのです。その二人の情に満ちた気遣いは、一層厳左を自責の念に駆り立てるのでした。


「わしは家老失格であるな。そろそろ身の振り方を考えた方が良いのかもしれぬ」


 自棄と失望の色に染まった微笑を口元に浮かべる厳左に、友乗は穏やかな響きを失うことなく声を掛けます。


「そのように己を責められますな、厳左殿。公儀の姫衆嫌いは今に始まった事ではないのです。たとえ女城主の案を持ち出さずとも、いつかは似たような騒ぎが起こっていたに違いないでしょう。それにまだ全てが解決したわけではないのです。比寿家から公儀の手を引かせ、恵姫様の行く末を見極める。これらを済ませぬうちに身の振り方などを考えてもらっては、わしも寛右殿も迷惑致しますぞ」

「うむ、言われてみればその通りだな。では改めて問おう。恵姫様を大給松平家に嫁がせる、この案に公儀は納得し比寿家から手を引いてくれるであろうか」

「論ずるまでもありません。公儀は必ず手を引きましょう」


 不気味なほど自信に満ちている友乗の態度は、かえって厳左を不安にしました。策士策に溺れるの諺もあります。ここはじっくり友乗の考えを聞きたいところです。


「何を根拠にそのように考えられるのかな、友乗殿」

「この案は、表面上では恵姫様が松平家に嫁ぐだけに過ぎません。しかしながらその裏では暗に比寿家の断絶を仄めかしております。それは公儀の望むところであるのですから、反対する理由がありません。しかも恵姫様のお立場は女城主から他家の正室へと、大きく格を下げております。比寿家の譲歩を引き出せたわけですから、公儀が譲歩したとしても面目が立ちましょう」

「しかし、姫の力を持つ者が大名の正室になった例はこれまで一度もない。公儀はそれを嫌うのではないかな」

「確かに前例にない事です。されど公儀はそれを認めているのです。秀忠公、家光公が定めた武家諸法度には、姫の力を持つ正室に関する記述があります。江戸住まいの免除。城主格大名としての地位、御座船江戸乗り入れの許可など。つまり最初から姫の力を持つ正室を想定しているのです。今、それが現実の物となったからと言って、拒否する事はできますまい。それならば何の為にそのような掟を定めたのか、という話になりますから」


 友乗の話は理に適っていました。もし厳左が公儀の立場なら反論の余地は無いように思われました、それでも何か見落としている穴はないかと眉間に皺を寄せて考える厳左。友乗は愉悦に満ちた表情でそんな厳左を眺めています。


「うむ、話を聞けば聞くほど見事な策と思えてくる。さりとて友乗殿、寛右殿の二人が知恵を絞ったにしても、少々出来過ぎの感があるな。これは本当に二人だけで考えられたのかな」

「見破られましたか。実は布姫様の知恵をお借りしたのです。この件に関しては恵姫様、乗里様の言上が大きく物を言いますからな。公儀に有無を言わせぬような申し立てができるよう、わしと乗里様に知恵を授けていってくれたのです」


 これを聞いて厳左の不安はなくなりました。布姫が太鼓判をしてくれた策ならば、まず大丈夫のはずです。


「布姫様の名を聞かれて安堵されたようですな。顔に出ておりますぞ」

「いや、申し訳ない。友乗殿や寛右殿を信頼しないわけではないのだが、わしと同じく二人ともご老体。捻り出された策も歳を取って足腰弱っているのではないかと思いましてな」

「足腰が衰えても口はまだまだ達者なれば、容易たやすく公儀を煙に巻けましょう。ははは」


 大口を開けて笑う友乗に釣られて厳左も笑い出しました。座敷に張り詰めていた緊張もようやく解けたようです。


 それからの二人は世間話に花を咲かせました。茶を飲み、茶請けを食べながら、他愛もない会話を楽しむ厳左と友乗。


「それにしても恵姫様の輿入れを、あの乗里殿がよく受け入れたものだな。二人の仲は良くないと聞いていたのだが」

「その点については我らも少々心配しておりました。されど乗里様は平気な顔でこう答えられたのです。『へえ~、面白そうだね。いいよ、その案に乗ってあげるよ。姫の力を持つ者を正室に迎えた初めての大名って事で、有名になるのは間違いないからね。あ、ただし側室の方は普通の娘で頼むよ』などと仰られておりました。幼少の頃より目立ちたがりの気質がありましてな、これで公儀も大給松平家に一目置くはずと喜んでおられました」


 乗里も恵姫に負けず劣らず、常識から少しずれた考えを持つ人物のようです。似た者同士ならば意外と気が合うのかもしれぬ、そんな事を思ってしまう厳左でした。


「輿入れの件、恵姫様には話されたのか」

「いえ、さすがに床に臥せっておられる状態では話せませぬ。さりとて江戸に発たれる前には話しておかなくてはならないでしょう。でなければ公儀を説得できませぬからな」


 あの恵姫が素直に首を縦に振るか、それは厳左だけでなく友乗も気に掛けているはずです。公儀の手を引かせるための方便、などという誤魔化しが利く相手ではないからです。


「うむ、この件は寛右に任せるとしよう。恵姫様の容態が落ち着かれたら寛右を島羽に送る。友乗殿と二人で恵姫様の説得に当たってくれぬか」

「承知致しました」


 友乗は笑っています。厳左が苦手な役目を寛右に押し付けたのが分かったからです。


「さて、本日は重陽の節供。夕刻より本丸御殿大広間にて菊酒の宴を催します。磯島様を連れて帰られるのは明日と伺っておりますれば、是非、厳左殿にも座に加わっていただきたいと思っております」


 重陽の節供は菊が咲き始める時期に当たるので、菊の節供とも呼ばれます。またこの日は武家の衣更えでもあり、着物は袷から綿入れに替わります。在府の大名たちはどんなに暑くても綿入れの礼服を身に着け、他の式日同様将軍に謁見し御祝儀を菊酒で祝うのです。島羽城でもそれにならって菊酒の宴が開かれるのでした。


「有難い御申し出なれど酒は控えておるのだ。遠慮しておこう。客が酒を飲めねば場は盛り上がらぬからな」


 意外な返答に目を丸くする友乗。しかしその理由はすぐに分かりました。今回の一件で厳左の失態の一因となったのは酒だからです。二度と同じ過ちを起こさぬよう禁酒の戒めを自分に課したのでしょう。友乗は穏やかな声で言いました。


「それでしたら厳左殿には甘酒をお出し致しましょう。言い忘れておりました。実は昼前に与太郎殿がやって来られたのです。あのお方も酒が苦手のようですので甘酒をお出しする事になっておりますれば、是非、厳左殿も菊酒の宴に加わってくだされ」

「ほう、与太郎殿が参ったか。ならば顔を出さぬわけにはいかぬな」


 節供の日には必ずこちらの世に来た与太郎。一月七日の人日じんじつは真夜中近くにやって来たので七草粥を食べられませんでしたが、それ以外は確実に御馳走に有り付いています。美味い物に対する執念と運の良さ、与太郎と恵姫も似た者同士なのかもしれない、そんな想いに囚われる厳左ではありました。

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